第56話『お母さんだって、まだ挑戦して良い』
湾岸の技能講習センターに足を踏み入れたきよの。
ガテン系の男たちに囲まれながらも、「挑戦」を胸に新しい一歩を踏み出します。
どうか、風張家の母・きよのの姿を見守ってください。
湾岸の技能講習センター。
鉄骨むき出しのヤードに、フォークリフトが並んで眠っている。油の匂いと、どこか潮の混じった風。耳を澄ませば、遠くでコンテナを降ろすクレーンの金属音がガランと響く。
その敷地の中央にある白いプレハブ校舎へ、男たちがぞろぞろ入っていく。
黄色いヘルメット、汗で色あせた作業着、土ぼこりで白くなった安全靴。
「運送屋の合宿」か「港湾労働者の朝礼」か、とにかく無骨な男の群れ。
その列の中に、ひとりだけ。
ブルゾンにジーンズ、胸には赤い「九」のロゴ。
三人の子を持つ母とは思えないシルエットをした女性が混ざっている。
風張きよの——今日から四日間、フォークリフト技能講習を受ける。
(視線、刺さってる。見ないでください。私は免許を取りに来ただけです)
彼女は心でそっと手を合わせる。
まるでロックフェス会場に迷い込んだ修学旅行生のような、場違い感。
いや、それ以上に「女子更衣室から出たら、ドアが男湯につながっていた」みたいな場違い感。
室内の椅子に腰を下ろすと、ざっと三十人。
女性は——きよの、ただひとり。
机の上には安全テキスト、ボールペン、分厚い日程表。
蛍光灯の白い光に、工場の油とコーヒーの混ざった空気が充満している。
そこへ、講師がパンパンと手を叩いた。
がっしりした体格に、どこか体育教師を思わせる快活な声。
「はい、おはようございまーす。今日から四日間、よろしくお願いします!
じゃあまずは、軽く自己紹介いきましょう。名前と今のお仕事、あとひとこと!」
自己紹介。
きよのの背中を、汗がすうっと流れ落ちる。
男たちの声が、ざらざらと続いていく。
「運送会社で大型やってます」
「鉄筋屋です」
「トラック歴二十年っす」
低い声、がらがら声、煙草で焼けた声。
どれも「現場の人間」って響き。
そして最後、きよのに順番が回る。
立ち上がり、背筋を伸ばす。
「風張きよのと申します。九紅ロジティクスで事務をしています。……子どもが三人いて、上は高校生です」
静寂。
一拍おいて、ざわっ。
男たちの目が一斉に見開かれる。
「えっ」
「見えねぇ」
「マジで?」
「美人ママとか反則じゃん」
「スタイル良すぎ……」
「たまらん……(講師の咳払い)——ごほん、すみません」
全方向から降ってくる小声の爆撃。
アイドル握手会でもないのに、ひとりで沸かせてしまった。
きよのの耳まで赤くなる。
彼女はブルゾンの裾をぎゅっと握った。
(ほんと、やめて…。ここ、アイドルの公開オーディションじゃないんだから)
目の前にあるテキストに視線を落とす。
活字がかすんで、何も頭に入らない。
それでも、笑顔は絶やさない。
社会人の基本、防御の笑み。
そんな彼女の心境を知ってか知らずか、講師が話を続ける。
「はいはい、それじゃ自己紹介も終わりましたんで。えー、今日からの流れをご案内します」
このあと、きよのをさらに絶望させる「日程発表」タイムが待っているのだが、今の彼女はまだ知る由もなかった。
講師がホワイトボードにマーカーで線を引いた。
「では日程のご案内です。当センターでは…全四日となります」
「……え?」
きよのの口が、ガコンと外れたコンテナ扉みたいに開いた。
周囲の男たちは「ふーん」とうなずき、誰ひとり動じていない。
それが逆に怖い。
(いま、四日って言った? 二日じゃなくて?)
スタッフが紙を配りながら説明する。
「普通自動車免許をお持ちの方は、学科と実技を合わせて三十一時間。そのため当センターでは四日間で組んでおります」
講師が、にこやかに補足を入れた。
「ちなみに“二日程度で取れる”という話も確かにあります。ただしそれは——
① 他の建機資格を持っていて免除がある場合、
② 企業内の短縮カリキュラムを受ける場合、
③ 小型限定フォークなど特殊ケース、
このいずれかです。」
きよのの時が止まる。
「大型免許を持っている方でも、基本的には“普通免許所持者”と同じ扱いになります。ですので、ここにいらっしゃる皆さんは全員、四日コースです」
きよのの頭の中に赤いテロップが踊る。
『二日って言ったのは誰ですか?…はい、それは課長です』
数日前のオフィスが鮮やかにフラッシュバック。
——課長「二日くらいで終わるらしいぞ! 費用は会社が持つから安心しろ!」
——きよの『二日なら……家も回せる! 子どもの弁当も、洗濯も、夜ごはんも……!』
——課長「おうおう、すぐ終わるって!」
(課長ぉぉおおお! ほんとに二日で済むと思ってたの!?)
感謝と恨みが、チャーター便のように交互に発着。
脳内空港は大混雑だ。
講師はそんな心境を知るよしもなく、淡々と進める。
「はい、それでは今日は座学ですね。労安法から入ります。眠くなったら立って聞いていいですからね」
「は、はいっ!」
思わず立つ気満々の声で返事してしまい、周囲の視線が再び刺さる。
耳が熱い。
スクリーンにはフォークリフトの構造図。
爪、マスト、カウンターウエイト。
続いて、荷の重心の説明。
「荷は“重心”が命。持ち上げられる重さと“つかめる”重さは違います」
「爪は水平に。傾けば荷は生き物。逃げます」
(……夫婦関係の話みたい。“重心が命”とか、“逃げます”とか……)
だがすぐに笑えなくなる。
スクリーンに現れる実写映像。
荷崩れ、横転、ブザー音のあとに「ガシャーン!」
ボールペンを握る手がじっとり汗ばむ。
(……これ、私ほんとにやるの? 遊園地のアトラクションどころじゃない……)
午前の講義が終わると、休憩スペースは缶コーヒーとタバコの匂いで満ちた。
そこへ群がる“湾岸ギャラリー”のおっちゃん達。
「奥さん、いくつ?子持ちに見えねぇって」
「子ども三人?マジ?高校生いるように見えねぇな」
「九紅って、あの赤い倉庫の?じゃあ現場わかってんだな。頼もしいじゃん」
「昼メシ、ここの食堂いいよ。カツがデカくてさ。一緒にどう?」
きよのは満面の営業スマイルを浮かべて返す。
「ありがとうございます。来た目的が“免許だけ”なので、今日はまっすぐ帰ります」
(※ナンパは免許に含まれていません、と明記したい)
講師が再び声を張った。
「午後は災害事例。眠くなるどころじゃないです。命を守る知識だからね!」
休憩時間終了のチャイムが鳴り、空気が一気に切り替わった。
午後、スクリーンに映し出されたのは“災害事例”。
文字だけではなく、映像。
——ブザーが鳴る。作業員が振り返る。
次の瞬間、フォークがグラリと傾き、荷がドサァン!
ヘルメットをかぶった人形が吹っ飛び、画面が真っ暗になる。
会場にざわめきが走る。
「うわ……」
「えげつねぇな」
きよのの喉はカラカラになった。
ボールペンを握る指先が白くなる。
(これ……ほんとに私がやるやつ……? 映像教材というより“心霊ビデオ”なんですけど…)
講師が真剣な顔で言葉を続ける。
「フォークの事故は、一瞬の油断から起きます。つまり大事なのは“慣れたころが一番危ない”ということです」
(慣れる前から怖いです! 事故を先取りで体感してます!)
さらに追い打ち。
「フォークは“急”が敵。ハンドルも、レバーも、足さばきも。急は必ず事故につながります」
きよのの脳内にテロップが走る。
『私の人生、急展開ばかりなんですけど……』
講師が笑みを浮かべる。
「ブーンじゃなくて、スーッです。ハンドルもアクセルも、全部“スーッ”。忘れないで」
きよのは即座にイメトレをする。
(スーッ……スーッ……ピッ、ピッ、ピッ……)
頭の中で、勝手にバックブザーが鳴り響く。
(※ブザーは心で鳴らしてる。怖いから)
それだけでは終わらない。
点検手順の説明が始まる。
「運転前には必ず点検。タイヤの空気圧、オイル漏れ、爪のゆがみ。“ま、いっか”が大事故を呼びます」
(家事と同じかも。“まぁいいか”で洗濯物を干すと、絶対パパのワイシャツだけシワになるんだよな……)
説明は容赦なく続く。
「明日は座学の続きと点検実習。実技は三日目から入ります。四日目に修了試験。そこまで全員で頑張っていきましょう!」
きよのは必死にメモを取りながら、心の中で小さくつぶやいた。
(……講習が四日になったけど、なんとか回すしかない。いのりは高一、ともりは中一。パパは夜には帰ってくる。けいじも、姉ズとパパがいればなんとか大丈夫……。大丈夫、きっと回る)
頭の中に、家のカレンダーが浮かぶ。
弁当、部活、子供たちの学校、パパの帰宅時間。
母親としての“家庭ロジスケジュール”を無意識にシミュレーションしてしまう。
(……よし、お母さんのシフト管理に穴はない。家庭内ロジティクスも稼働可能!)
恐怖と決意のせめぎ合いで、心臓はずっと早鐘を打ち続けていた。
だが、ほんの少し——事故映像を見た後だからこそ、逆に腹が据わった気もする。
(怖いけど、やるしかない。挑戦するって決めたから)
夕方。
カーテンを引いた講習室で、プリントの日報を受け取ったきよのは、ふーっと息を吐いた。
一日目の座学が終わっただけなのに、背中はコンクリートみたいに重い。
玄関を出ると、湾岸の風がビュウと吹きつけてくる。
鉄の匂いと潮の匂いが混じり、頬に少し冷たい。
朝に感じた場違い感とは違う。
今は、重さを抱えながらも、ほんの少しの達成感が胸の奥にある。
ポケットの中でスマホが震えた。
メッセージは長女・いのりから。
『ママ、今日のごはんは?』
短い問い。
画面を見て、きよのは口元をゆるめた。
(……大丈夫。冷凍の唐揚げを揚げれば、いのりもともりも喜ぶ。けいじには卵焼き追加すればいい。パパも帰ってくる。今日も家は回る。大丈夫。明日も、回せる)
胸の「九」のロゴに指先をそっとあてる。
濃紺のブルゾンの上からでも、刺繍の糸の硬さが感じられる。
(私は“九紅ロジティクス”の事務員。けど、お母さんでもある。どっちだって、挑戦していいはずだ)
その瞬間、ふっと肩が軽くなった。
スクリーンに映った横転事故の恐怖映像も、「全四日間」という現実の重さも、全部ひっくるめて、少しずつ自分の中に飲み込めそうな気がした。
足元に視線を落とす。
安全靴ではなく、いつものスニーカー。
それでも歩き出すと、不思議と足取りはスーッと滑らかだった。
講師の言葉が頭をよぎる。
——「フォークは“急”が敵。ブーンじゃなくて、スーッです」
(よし。お母さんの一歩も“スーッ”でいこう。急がず、慌てず、確実に)
湾岸の空には、もう夜の色がにじんでいた。
工場の煙突がオレンジに光り、遠くでフォークの警告ブザーがピッ、ピッと鳴っている。
その音が、次の挑戦への合図に聞こえた。
(実技は三日目からか。いよいよ“あの相棒”と直接対決……!)
きよのは小さく拳を握り、深呼吸をひとつ。
そして自分にだけ聞こえる声で、ぽつりとつぶやいた。
「お母さんだって、まだ挑戦して良い」
いよいよ、ロジガールVSフォークリフトの本番が幕を開ける。
今回は母・きよのを中心に、フォークリフト技能講習の一日目を描きました。
笑いもあり、恐怖もあり、それでも「挑戦する」という姿勢が伝わる回になったと思います。
次はいよいよ実技。ロジガールとフォークリフトの直接対決です。