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第55話『ロジティクスガール』

倉庫を支える人々の姿は、普段なかなか見えません。

けれど、そこには暮らしを動かすために奮闘する日常があります。

そんな現場に挑む母・きよのを描いた短編シリーズ、ここから開幕です。

九紅ロジティクス──。

大手九紅グループの中でも、湾岸エリアを拠点に展開する倉庫ビジネスの要である。


真っ赤なペンキで塗られた巨大倉庫群は、遠くからでも一目で分かるランドマーク。

冷凍・冷蔵のレンタル庫シェアでは業界トップを争い、食品チェーンやEC物流の舞台裏を支えていた。


しかし、その世界を外の人が目にすることはほとんどない。

立地は不便な湾岸。住宅はなく、大型トラックがひっきりなしに出入りする無機質な空間だ。

社員は会社の寮で暮らす者が多く、パートやバイトは車や原チャリで通勤する者も。


それでも人手は常に足りなかった。

だが、九紅ロジティクスの強みは「24時間稼働」。

好きな時間に働けるため、飲食や小売のようにシフトを削られる心配がない。

「稼ぎたいときに稼げる」環境は、家庭を抱える者にとってありがたいものだった。


風張きよのも、そのひとり。

毎朝、自転車を漕いで湾岸の巨大倉庫に通う。

制服のブルゾンを羽織り、胸には紅色の「九」のマーク。

三人の子を産んだとは思えないダイナマイトバディな体型で、作業服の上からも腰回りや胸元のシルエットが隠せず、

男性社員の多い現場では、密かに「ロジティクスガール」と囁かれる存在だった。


本人はそんなことに気付かないまま、端末に伝票を打ち込み、荷役の進捗を確認する。

地味で、息をつく暇もない日常。

だが、きよのにとっては誇れる現場だった。


実は、引っ越し前も大手物流の配送支店で働いていた。

その経験とノウハウを買われ、九潮に移り住んですぐに九紅ロジティクスで即採用。

「現場を知るパート」として欠かせない戦力になっていた。


(派手さなんてない。けど、誰かがやらなきゃ物は届かない。この倉庫は、地味だけど社会を動かしてるんだ……)


湾岸の風は冷たく、そしてどこまでも現実的だった。



ゴールデンウィークを目前にした倉庫は、ただでさえ殺気立っていた。

早朝からトラックがひっきりなしに出入りし、現場のモニターには荷役スケジュールが真っ赤に埋まっている。


事務セクションの空気が一変したのは、午前十時。

課長が受話器を置いた瞬間、顔から血の気が引いていた。


「…さっき…退職代行から連絡があった。佐々木、今日で辞めるそうだ」


その一言で、事務所がざわつきに包まれる。


「えっ……嘘でしょ?」


「昨日まで普通にいたのに……」


「佐々木さんって、亰王大卒の……あの佐々木さん?」


九紅でも期待の若手。頭脳明晰、真面目で誰からも慕われていた。

その彼が、よりによってこの繁忙期に――。


「あいつ、フォークリフト免許、持ってたよな」


「そうだよ。現場の要だぞ。代わりいないって」


「これ……GWの荷動き止まるじゃん……」


誰もが絶望的な計算を頭の中で弾いていた。

きよのは伝票を握りしめたまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。


(……佐々木くんが? あんなに頑張ってたのに…。…やっぱり、この世界はきつすぎるのかな)


冷たい湾岸の風が、窓の外でコンテナを鳴らしていた。



「あのさ…風張さん、思い切って……フォークリフトの免許、取ってみないか?」


課長の言葉に、きよのは目を丸くした。


「え……私がですか?」


「そうそう。免許があれば手に職になるし、時給も上がるよ」


「でも……私なんかにできるんでしょうか」


胸の奥がざわめく。

危険な仕事。即戦力にはなれない。

三人の子を育てながら、そんな余裕があるのか――。


「大丈夫だ。即戦力になれなんて言わない。講習は二日くらいだし、費用は会社が持つ。免許を持ってるだけで、現場はすごく助かるんだ」


課長の真剣な声が響く。


「二日……? しかも会社負担で?」


きよのは思わずつぶやいた。


周囲がざわつく。


「え、マジで? 風張さんがリフト?」


「いや、でも……意外とアリかもな」


「ロジティクスガールがリフトデビューとか、めっちゃカッコいいじゃん」


顔が赤くなる。

だが、心の奥では現実的な計算が始まっていた。


(……すぐに完璧にはなれない。危険もある。でも“手に職”は残る。会社がお金を出してくれて、二日で資格が取れるなら――)


胸に光る紅色の「九」のマークを見下ろしながら、きよのは深く息を吸った。


「……やってみます。免許、取ってみます」


その言葉と同時に、事務所の空気が変わった。

驚きと期待の入り混じったざわめきが、きよのの背中を押していた。



---


その夜、風張家。


食卓にハンバーグの匂いが漂い、子どもたちが箸を動かしていた。

きよのは少し照れながら切り出した。


「……母さんね、フォークリフトの免許、取ることにしたの」


「えっ!? お母さんが?」


いのりが目を丸くする。


「ヘルメットかぶってやる仕事だよね。危なくない?」


と、ともりも声を上げた。


きよのは苦笑して説明する。


「講習は二日くらいで済むし、費用は会社が出してくれるんだって。免許を持ってれば時給も上がるの。意外と現実的でしょ?」


「二日で? しかも会社負担?」


いのりは感心して頷く。

けいじは身を乗り出した。


「フォークリフトってなぁに?」


「倉庫でね、大きな荷物を持ち上げて運ぶ車みたいなものよ」


母の説明に、けいじの目が輝いた。


「ママ、すごい! かっこいい!」


――ともりは黙っていた。


(……“手に職”って、そんなにいいものじゃない)


美容室見学で塩見店長に言われた言葉が、不意によみがえる。

資格を持ってても、それだけで幸せになれるわけじゃない。

結局は、どれだけ働けるか。

手に職なんて、責任の重さとセットなんだ。

母が挑戦するのは、男性が多い危険な仕事。

その対価が


「時給が上がること」


だと聞いて、ともりは胸の奥で複雑な気持ちになった。


母には言わない。

ただ、笑って見せる。


「……お母さん、かっこいいと思うよ」


いのりが頷き、けいじが


「ママがんばれー!」


と声をあげる。

笑い声の中で、きよのは決意を固めた。


(母として。女として。私だって、まだ挑戦していいんだ)


「家計にも助かるし、現場も回る。いいこと尽くし……だと思う」


言いながら、きよのはいつもの笑顔を崩さない。


「大丈夫。気をつけてやるから」


そう言って、子どもたちの頭を順に撫でた。



きよのの手に視線が落ちる。

乾いた指先。小さな傷。洗剤で荒れた甲。

その手で、今度はフォークリフトのハンドルを握る。

バックブザーの「ピッ、ピッ」という音と、重いパレットの揺れが、想像だけで喉の奥を冷たくする。


(稼ぐって、大変。働くって、責任を背負うってことなんだ)


中1のともりにも、そこだけははっきり分かった。


「……お母さん、かっこいいと思う」


声に出したのは、それだけ。


心の中では、別の言葉を飲み込む。


“無理だけはしないで”。


“こわいなら、やめてもいい”。


でも言わない。


言ったら、母親の笑顔が少しだけ曇る気がしたから。

代わりに、ともりは席を立つ。


「食器、私が洗う。お姉、食べたら流し台に食器置いといて」


きよのが驚いて目を瞬く。


「ありがと。助かる」


いつもの笑顔に、ほんの少し安心が混じる。

台所に水の音が広がる。

背中越しに、家族の「がんばれ」の空気が静かに積み重なっていく。


(大丈夫。見てるから)


ともりは泡立つスポンジを握り直す。

母は“手に職”で前へ。

自分は、自分にできる責任を、ここで。


その夜、風張家の明かりはいつもより少し長く灯っていた。






今回は母・きよのを主人公に、物流の現場を舞台に描きました。

「手に職」は安定をくれるのか、それとも責任を重くするのか──。

挑戦する母の背中を見つめる子どもたちの心も含めて、家族の物語として仕上がったと思います。

働くことの厳しさと誇り、その両方が少しでも伝われば嬉しいです。

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