第53話『私、本当にボート好きなんだな』
団地の近くに新しい駅ができたら──。
そんな夢を抱きながら、いのりたちは地域交流イベントとして「ボートレース平和島」を訪れます。
水上を駆け抜ける迫力に胸を躍らせる一方で、元レーサーとの出会いから「挑戦の厳しさ」「努力しても報われない現実」に触れることに。
夢と現実のあいだで揺れるいのりの胸に、何が刻まれるのでしょうか。
「──もし団地の近くに新しい駅ができたら、どんなに便利になるだろう」
風張いのりはそんな夢を、自治会長になってから何度も思い描いてきた。
九潮団地は巨大で人口も多いのに、最寄り駅からはバスに頼らなければならない。
買い物や通学の不便さは、住人なら誰もが口にする悩みだった。
いのりは知っていた。
平和島に駅があるのは、すぐそばにボートレース場があるからだ。
団地の外にある犬井競馬場の側にも駅がある。
公営ギャンブルが人を呼び、街を動かし、鉄道会社すら動かす──それが現実。
「九潮だって湾岸だから、ボートレース場を作れば……もしかしたら駅だって」
そんな期待を胸に風張いのりたちは、地域交流イベントの一環で「ボートレース平和島」を訪れていた。
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場内へ向かう途中、スタンドの上段では、いつもの三人が早くも盛り上がっていた。
皆本慎太、大矢相談役、そしてビシ九郎。
「湾岸やし、九潮でもボートいけるんちゃうか?」
ビシ九郎が身振り手振りで言うと、大矢相談役が首を振る。
「いやいや、ボートはもう全国24場で飽和状態じゃ。増えん増えん!」
「ほなオートか競輪やな。でも黒い雨事件で政治家と業界がヘマこいたからなぁ…」
「あとオートは騒音が問題じゃのう。競輪のほうが現実的かもしれん」
「でも新駅できるなら盛り上がるやろ! 団地の未来や!」
三人はまるで政治討論でもしているかのように、声を張り上げていた。
その熱にあてられたいのりの胸も、自然と高鳴る。
「……やっぱり、団地にもチャンスはあるんだ」
スタンドには家族連れや女性客も多く、実況アナウンスが飛ぶたびに歓声が上がる。
もちろんいのりたち高校生は舟券を買うことはできない。
でもレースを見て声をあげるのは自由だった。
水面を走るボートがターンマークに突っ込むたびに、観客のどよめきに混ざって三人も自然と身を乗り出していた。
水面を走るボートがターンマークに突っ込み、派手な水しぶきが弧を描くたびに、いのりは目を輝かせた。
「すごい……音が全然ちがう」
いのりがつぶやくと、七條あずさがパンフレットを広げる。
「今日は“レディースカップ”だって。女性レーサーばかりの特別レースなんだってさ」
「へぇ……女の人だけで、こんな迫力あるんだ」
皆本楓も感心して水面を見つめていた。
会場の一角には、地域イベント用のブースも設けられていた。
水鉄砲で遊べる子ども用プールコーナーや軽食屋台。
初夏を目前に気温はぐんぐん上がっている。
「子どもはここで遊ばせて、大人は安心してレース観戦」という仕組みで、家族連れも楽しめる。
ともりとけいじは案の定そちらに直行し、びしょ濡れになりながら水鉄砲を撃ち合っていた。
一方、スタンドの上段には“いつもの三人”の姿。
皆本慎太、大矢相談役、そしてビシ九郎だ。
「うおおおおっ!! イン逃げ決まったぁぁぁ!!」
「アカンアカン! これが平和島や!!」
「差し返せぇぇぇ! まだいける!」
三人が肩を組んで飛び跳ねるたびに、周囲の観客はドン引きして距離を取っていたが、本人たちは完全に熱狂していた。
そのとき、場内アナウンスが響く。
「これよりボート試乗体験コーナーを開始します! 中学生以上の方ならどなたでも!」
「えっ、試乗できるの?」
いのりが目を丸くする。
桟橋には小型のボートが何台も並び、観客の列ができ始めていた。
その中でもひときわ注目を集めているのは──操縦席に座る一人の女性。
ヘルメットから飛び出す肩ほどに切り揃えた髪、レバーを握る腕。ヘルメットから見える落ち着いた眼差し。その背中は小柄さを感じさせず、どこかプロの匂いが漂っていた。
「元レーサーさんだって」
あずさが耳打ちし、にっこり笑う。
「いのり、乗ってみない?」
「え、私が?」
「うん。こんなチャンス、めったにないよ」
楓も背中を軽く押してくる。
「会長なら、きっと似合うと思う」
半分押されるようにして、いのりは桟橋へ進んだ。
スタッフに救命胴衣を着せられ、ヘルメットまで被せられる。
「ちょ、ちょっと待って……!」
慌てる間もなく、準備は進んでいった。
「はい、前の座席にどうぞ」
促されて腰を下ろした先。
そこは元レーサー、石堂マナミの目の前だった。
「よろしくね。しっかりつかまってて」
落ち着いた声に、いのりの鼓動がどくんと跳ねる。
「……はい!」
エンジンが唸りを上げ、水面に滑り出す。
風が頬をかすめ、桟橋が遠ざかっていく。
わずかな距離の体験走行。
けれどいのりの胸は、もう高鳴りっぱなしだった。
短い体験走行が終わり、ボートは桟橋に戻った。
エンジン音が止み、水面の波紋だけが残る。
「どう?怖くなかった?」
操縦席の女性が、ボートから降りると、ふっと優しく笑いかけた。
いのりはヘルメットを外され、まだ胸を上下させながらも、思わず笑みを返す。
「……すごかったです。水の上を走るって、こんな感じなんだって」
石堂もヘルメットを脱ぐと、ふわっと髪が降りてくる端正な顔立ちの美人レーサーだった。
「いい顔するね。君なら、体型的にはレーサーに向いてるよ。一緒に乗っていても君の軽さは武器になるなって思った。」
「えっ……私が?」
突然の言葉にいのりは目を丸くした。
「うん。小柄で軽い方がボートはスピードに乗る。条件だけ見れば、十分チャンスはある」
いのりはしばらく迷ってから、素直に尋ねた。
「……お姉さんも、レーサーだったんですか?」
女性は少し遠くを見つめるようにして、短く答えた。
「そう。石堂マナミ。B2級のまま……勝てずに引退した元選手よ」
「勝てない、まま……」
いのりが小さく繰り返す。
「ボートレースはね、スタートの瞬間でほとんど勝負が決まるの。特に1コースが圧倒的に有利。だからみんなそこを狙う」
「……」
「でも、その1コースを取るには、先輩や格上に割り込む強いメンタルが必要。私はそれができなかった。条件が合ってても、勝ち筋を掴めなければ意味がないの」
マナミの声は淡々としていたが、悔しさを含んでいた。
「それに──養成所での訓練も厳しいわ。最初の一週間で脱落する子が多いの。男女は別で暮らしてたけど、優しくなんてされない。寮は軍隊みたいな規律で、筋トレも走り込みも艇の整備も全部容赦なく叩き込まれる」
「……」
いのりは息を呑む。
「レースに出るようになったら、さらに制約が増える。通信機器は制限されて、八百長防止のために家族や彼氏に気軽に連絡することもできない。SNSも禁止。普通の女の子みたいな生活なんてできなくなる」
「……そんな……」
「夢を追うには、それくらいの犠牲は当たり前。でも、誰もが耐えられるわけじゃない。だから辞めていく子も多いし、残ったとしても勝てるのは一握り」
マナミは苦笑して肩をすくめた。
「私も残ったけど──勝ち続けることはできなかった。それでも走った日々だけは、本物だったかな」
その目が、真正面からいのりを捉える。
「君も、何かを背負ってる顔をしてる。だから……勝てないことも覚悟して挑んでごらん」
いのりは言葉を失い、ただ深く頷いた。
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背後から低い声が飛んできた。
「──石堂の姉ちゃんの言うとおりやで」
いのりとマナミが振り返ると、そこには皆本慎太の姿があった。
野球帽を深くかぶり、腕を組んで水面を見下ろす姿は、現役を退いてなお迫力を放っている。
マナミは一瞬驚いたように目を見開いた。
「…え?…あなた、もしかして……皆本慎太さん?」
「おう。ちょっと昔、ボールを追いかけとった時期もあるな」
慎太は肩をすくめて笑う。
「ご冗談を……。私たちの世代なら誰だって知ってますよ。日本代表でショートを守っていた人を」
いのりはきょとんと二人を見比べる。
「お姉さん……慎太さんのこと知ってるんですか?」
「当たり前でしょ。あの人はレジェンドよ」
慎太は照れくさそうに頭をかきながら、逆にマナミを指さした。
「けどな、俺も石堂の姉ちゃんことは知っとるで。相談役らとよう平和島に通っとったからな。名前、よう見かけたわ。美人レーサーで人気も出るやろなって、かなり期待しとったんやけど……なかなか勝てんかったな」
マナミは驚き、そして小さく笑った。
「…ふふ…そんな有名な人に知っててもらえるなんて。嬉しいです」
慎太は真剣な目つきで言葉を重ねる。
「なかなか勝てんかったかもしれん。でも挑戦した事実は消えへん。勝てなくても走ったことに意味はあるんや」
マナミはゆっくり頷いた。
「レジェンドにそう言ってもらえるなら、少し報われますね」
慎太は視線をいのりに向ける。
「プロの世界はな、野球でもボートでも同じなんや。勝てんやつのほうが大半やで。プロ野球に入っても一軍に上がれず終わる選手なんてザラやし、育成選手なんか“1人でも戦力になれば儲けもんみたいな磨けば光るかもしれん原石の寄せ集め”や。そのほとんどは使い捨てで終わる。」
いのりの胸に、冷たいものが広がる。
「……努力しても、報われない」
「そうや。努力しても報われんのが普通や。周囲が圧倒的な努力を重ねる中で自分も負けないほどの努力を重ねるのが当たり前や。そんでライバルを蹴落とさなアカン。その中でケガもせず、実力を発揮し運を掴んでスターになれるのはほんのひと握りやで」
慎太は淡々と、だが容赦なく言い切った。
マナミは小さく息を吐き、しかし柔らかく笑った。
「…皆本さんの言葉にはトップアスリートの重みがありますね。…でも、私の走った日々は本物。負け続けた私にだって、それだけは残った」
慎太は頷き、言葉を補う。
「そうや。飛び込んだこと自体が誇りになるんや。それに勝てなくてもレース結果には絡んだこともあるやろ。2着や3着でもオッズに影響して名前を残した。それだけでも立派やで。プロ野球じゃ1軍の公式記録にすら名前を残せないやつもたくさんおるんや」
いのりは二人の言葉を胸いっぱいに受け止め、小さく拳を握った。
「……勝てなくても、挑戦した人の言葉には重みがあるんですね」
マナミは小さく笑って言った。
「……今は広報の仕事をしてるの。イベントや試乗体験のサポートとかね。選手としては勝てなかったけど……それでも、やっぱりボートから離れられなかった。私、本当にボート好きなんだな…って」
「広報……?」
いのりが首をかしげる。
慎太が横から茶化す。
「美人やから、顔になるにはぴったりやな」
「……そんなことないですよ」
マナミは苦笑した。
慎太は言葉を継いだ。
「でも“顔”が必要なのは確かや。華やかさも業界の一部やからな。けどな──それ以上に、石堂の姉ちゃんが努力してきたこと、人柄がちゃんと伝わってたんや。だから勝てなくても引退後に仕事をもらえる。プロ野球でも同じや。実績だけやなく、人柄次第で声がかかるんや」
その声には、悔しさと誇りが入り混じっていた。
石堂マナミと皆本慎太、ふたりの言葉が胸に残ったまま、いのりは桟橋を後にした。
スタンドではまだ歓声が響き、実況の声が水面に反射して飛んでくる。
けれどいのりの耳には、エンジン音がいつまでも心臓の鼓動と重なるように響いていた。
帰り道。
夕暮れに染まる団地の歩道を、あずさと楓と並んで歩く。
ともりとけいじは水鉄砲でびしょ濡れになり、笑いながら後ろをついてくる。
「……どうだった?」
あずさが静かに尋ねる。
いのりはしばらく黙ってから、そっと答えた。
「……怖かった。でも、すごかった。ボートに乗ってる間ずっと思ったんだ。こんな世界があるんだなって」
そして小さく続ける。
「勝てなくても、挑戦した人の言葉って、あんなに重いんだって……勉強になった」
楓が小さく微笑む。
「元レーサーのお姉さん、かっこよかったね」
「うん。負け続けても胸を張れるって、すごいよ」
団地のエントランスに差しかかったとき、低い声が響いた。
「──おかえり」
振り向くと、先に団地へ戻っていた慎太が缶コーヒーを片手に立っていた。
「ビシ九郎と相談役は車で送ってきたで。お前らを待っとったんや」
「……慎太さん」
いのりは自然に笑みをこぼすが、その顔はすぐに真剣になる。
慎太は空を仰ぎ、言葉を選ぶように口を開いた。
「いのり。駅を呼ぶためにギャンブル場を作りたいと思っとるんは悪いことやない。けどな──忘れたらアカン」
「……忘れたら、いけない?」
「勝てんヤツが大多数やからこそ、勝った一握りのヤツが莫大に稼げる。それがスポーツビジネスの仕組みなんや。努力しても報われんヤツが山ほどおる。その現実を背負わなきゃならん」
いのりの胸がちくりと痛む。
「……夢ばっかり見て、舞い上がってただけかもしれない」
「せや。でもな、夢を見るのは悪いことやない。大事なんは、光も影も理解したうえで、住民にとって必要かどうか考えることや」
いのりは拳を握り直し、まっすぐに言った。
「……はい。それでも私は、挑戦や努力を応援できる場所にしたい。夢が破れる人がいても──挑戦した意味が残る場所に」
夜風が頬をなでる。
遠く、平和島の方角からかすかなエンジン音が響いてくる気がした。
その音は
「夢と現実の両方を見つめろ」
といのりの胸に刻み込むように鳴り続けていた。
今回は「ボート」という題材を通して、夢と現実のコントラストを描きました。
挑戦しても勝てない人が大多数、それでも「挑んだ意味」は必ず残る。
石堂マナミと皆本慎太、それぞれの言葉を受け止めたいのりがどう成長していくか、これからも描いていきます。
駅を呼ぶための夢物語は、単なる空想か、それとも団地の未来につながる一歩か──。