第44話『女子高生を嫁にする方法』
今回はちょっと“狂気”寄りのお話です。
団地の片隅にまだ残っている煙草の匂いや、人の業みたいなものを題材にしてみました。
正直、書いていて「ここまでやっていいのかな」と迷うところもありましたが、いのりの存在を浮き上がらせるためには必要な回だと思っています。
どうか広い心で読んでいただけると嬉しいです。
(午後4時半/117号棟3階のベランダ)
シュボッ。
「くっそ……また火ィ消えた」
紙巻きタバコに何度目かの火をつけ、品川ロドリゲス杏(47歳・無職)は煙を吐いた。
4月の夕風は少し冷たい。
春の空気には似合わない、くぐもったフィルターの煙。
「ぷはー!やっぱ紙巻きが最高だな!ゲロマズの電子なんて吸ってられんわ!」
九潮団地117号棟の一角にあるベランダ。
今では団地内で“最も時代に置き去りにされた部屋”といわれるこの一室。
そこで、杏は日々ベランダ喫煙という文化遺産を守っている。
室内には、母・マリア(78歳)。
糖尿病が悪化した夫を看取り未亡人。
たまに働きに行くかどうかのシルバー人材センター案件と、わずかな年金がこの家の命綱だ。
そして――
「タバコくさッッッッッい!!!」
四六時中キレている。
結果、杏の喫煙場所は必然的にベランダとなった。
今日も、上の階の高齢クソババアに怒鳴られた。
「くさい!また吸ってんの!?」
「じゃあどこで吸えばいいんだよ!!」
杏は逆ギレして火をつけた。
(てめーは俺の納めた税金でパチンコ行ってんだろ。むしろ感謝しろ。)
年々高くなるタバコ代にフラストレーションを抱え、高額納税者ぶっている杏。
そんな捨てゼリフを心の中で吐きつつ、煙をふかしていたそのとき――
視線の先。
119号棟の裏手のあたりに、なにやら動く人影。
スーツの若い男女。そして、その間に――
「……あっ、いのりじゃん」
制服。小柄な女の子。
遠目でもわかる。その整った輪郭。
しっかりした背筋。
そう、風張いのり。
高校2年生。4月1日生まれ。
つまり、ついこの間まで中3と同じ肉体という、完全に時空がバグった存在。
そして、この団地の自治会長。
(いやいや、マジかよ……)
杏がその事実を知ったのは、先日のこと。
母マリアから
「最近の自治会長は女子高生よ」
と聞かされ、衝撃が走った。
「JKが自治会長とかガキじゃん。てかこの団地、JKに自治会長やらせるとか正気かよ…頭の中狂ってんだろ。…どこの世紀末団地だよここは」
と思った。
思ったはずだった。
……が。
見てしまったのだ。
実物のいのりを。
地域センターの玄関で。(※勝手に出待ちして。)
いのりは他の自治会長たちに頭を下げ、敬語で丁寧に挨拶し、資料を持って巡回していた。
先日には、友達と一緒に集会所の前で楽しそうにしているところを見た。
しかもその隣にいるのは、激かわな友達とハクビシン。
(なんのギャルゲーだよ、これ)
ジジババと外人とクズとニートと社会不適合しかいない団地に天使が迷い込んできたのかと思った。
それでも、いのりがダントツの存在だと確信した。
その瞬間、杏は心臓を撃ち抜かれたのだ。
「……いやいや、待てよ……めちゃくちゃ可愛いじゃねーか……は? これ、オレの嫁なんだが???」
以来、杏の中で風張いのりは「俺の嫁」となり、団地内で姿を見かけるたびに勝手にテンションを上げていた。
---
そして今日。
その「俺の嫁」が、役所の職員(らしき若い男女)を連れて、119号棟裏手の花壇を視察していた。
実際に杏の目線では、どこの職員なのかはわからない。
けど、ネームプレートとYシャツ姿、いかにも“お役所系”の人間たち。
「まじかよ……視察? 役所の人? え、あそこって……」(※実際には都庁の職員だった。)
あの花壇は、杏もよく知っている。
パンジー、アリッサム、ムスカリ。
丁寧に植えられ、きちんと手入れされて季節ごとに花を植え変える。
戸部という60代のババアが、ずっと一人でやってきた。
「……思い出した」
15年ほど前――
杏の父、品川・ロドリゲス・ユウイチが自治会長だった頃のこと。
杏は当時30歳を超えていた。
が、働かない。
何をしても続かない。
名前がキラキラすぎて就活でも家庭環境を疑われ、面接で門前払い。
バイトですら
「親御さん、変わった方?」
と聞かれた。
精神的に追い詰められていたのは、父のユウイチだった。
(杏の食費もかかるし、家庭菜園でもやるか……)
そう言って117号棟裏に畑を作った。
当時、まだ取り壊される前の118号棟の裏手スペースも巻き込んで、どんどん菜園を拡張していった。
トマト、キュウリ、ナス、大葉、ネギ。
酒のつまみになるから、という理由で増やしていった。
最初は家の裏だけだった。
だが、やがて勢力を拡大。
最終的に119号棟の裏手にまで菜園を広げていった。
そして…、戸部の花壇と“ぶつかった”。
戸部は言った。
「アブラムシが湧くのよ。花がダメになる」
ユウイチは言い返した。
「そっちだって勝手にやってるだろ」
さらに――
「子どもたち、大歓迎! 好きに獲ってけ!」
子供好きなユウイチの、たった一つの良心だった。
だが、その一言が終わりの始まりだった。
他所のバカ親まで大挙して畑に入り、足元を踏み荒らし、未熟な実をもぎ、キュウリはボキボキに折られた。
そして戸部の花壇にも被害が及び、これでもかと踏み荒らされた。
荒れ果てた畑には、その場で食い散らかされて腐敗した作物と虫害、苦情、怒号。
ユウイチは精神的に折れた。
以来、菜園は撤去。
ユウイチは寡黙になった。
その後、持病の糖尿病が悪化して逝去。
それから団地では、品川・ロドリゲス・ユウイチ=トラブルの象徴と扱われ、杏も“その息子”として問題児扱いされた。
「……まあ、そりゃ戸部のババアも疑心暗鬼になるわな」
だからこそ、だ。
今、あの戸部が、あの花壇の前で風張いのりと一緒に都庁の職員と話している。
いのりはハッキリ言った。
「ここは、119号棟住民の戸部さんが個人で手入れされています。管理組合と自治会の議事録に基づき、住民活動として正式に申請しています」
職員は頷いている。
戸部は言葉を詰まらせ、感謝しているように見える。
あの頑なだった戸部が……目頭を押さえている。
いのりは――微笑んでいた。
(……やっぱ、すげぇな。俺の嫁)
過去の争いを知った上で、いのりは戸部を“味方につけた”。
合法化。
正式な手続きで守った。
勝手にやっていた、という立場ではなく、誇っていい努力に変えた。
(こちとら、無職でタバコ吸って、見てるだけなのによ……)
杏は、自分の吸ったタバコの灰が下の階の洗濯物に直撃するのを確認しながら思った。
(まあ、知らん。どうでもいい)
戸部の花壇なんて、杏にとってはどうでもいい。
設置してほしいのは灰皿だ。
団地の中に吸えるところがないから、その辺にポイ捨てするしかない。
むしろ団地を火災から守るために、花壇を潰して灰皿にしろ。
花なんて食えもしない役立たず。
マジで行政にはそうしてほしいと願う。
地域センターも灰皿が撤去され、所長がチャリに乗って鮫巣の運転試験場までタバコを吸いに行くとかいうギャグ。
何もかも効率が悪すぎる。
タバコは人とのコミュニケーションや仕事能率を上げるためにも必要なのだ。
杏は出前屋敷のフードデリバリーで小遣い稼ぎをしている。
それもタバコがあるから頑張れるのだ。
しかも買ったタバコの税金で、団地の誰かが幸せになっているかもしれない。
そう考えたら俺って超社会貢献じゃね?と杏は本気で思ってる。
でも――
いのりが守ろうとしたその景色は、確かに、この団地で唯一“まともな希望”に見えた。
「……最高すぎだろ、風張いのり。やっぱ俺の嫁だ。今、確信した」
スマホを手に取る。
「女子高生を嫁にする方法」
と検索する。
だが、その検索結果は…
「それは犯罪です」
「未成年者に対する不適切な~」
検索エンジンのAIから犯罪者と決めつけられるような批判的な説明ばかりがズラズラと並ぶ。
(くっそ!今に見てろ……俺もちゃんと働いて稼いで……“あんずちゃんねる”を法人化して……お迎えに行くからな)
そして――室内から母・マリアの怒号が飛んだ。
「アンタァアア! また吸ってたでしょ!?くっさいい!! もう本当にやめてよ!!!」
完全に閉め切っていない窓の隙間からタバコの煙が入り込む。
灰皿代わりにしたカップ麺の容器は吸い殻が溢れて、そこら中に散乱している。
ちょっと風が吹けば室内に灰が舞い散るのだ。
「うっせええ!!クソがあああああああああああああ!!!」
団地の空に、今日もタバコの煙がふわりと漂った。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
杏というキャラクターは、おそらく読者の方にも賛否両論あると思います。
でも、彼の狂気があるからこそ、いのりの純粋さや美しさがいっそう際立つのではないか、と私は考えています。
次回以降はまた違った一面を描いていきますので、ぜひお付き合いください。
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