第43話『お母さん……ちゃんと咲いてるよ』
春になって花壇が彩りを増す季節。
今回は、いのりではなく住民の戸部さんが中心のエピソードです。
40年の思い出を背負った花壇と、それを守ろうとする姿。
春の午後四時半。
高校二年生の風張いのりは、まだ制服のまま、集会所の前に立っていた。
下校途中、あずさと楓と別れてまっすぐ帰宅し、そのまま団地の顔に戻る。そう、彼女はこの団地の自治会長だった。
今日はちょっと特別な日だった。
都の環境整備課から職員が来て、いのりが代表して提出した「美化活動許可申請」の現地確認が行われる。
ただし、これはいのりの独断じゃない。
住民から「花を植えたい」「ちゃんとした許可がほしい」という声を集めたうえで、責任を持って都へ提出した申請書だった。
つまり、いのりはただの窓口。
許可を出せるのは“東亰都”であって、いのりじゃない。
その正しさが、若い自治会長としての自己防衛線でもあった。
勝手に決めることはできない。だからこそ、都から“お墨付き”をもらえることが、住民の安心にもつながる。
やがて、スーツ姿の若い男女の職員がやってきた。
春の陽気に額を汗ばませ、ハンカチで拭きながら、礼儀正しく名乗る。
「お待たせしました。東京都環境整備課です」
「お忙しい中、ありがとうございます」
いのりは礼を返し、持参した配置図を取り出した。
「申請したのは、団地敷地内全体ですが…特に活動中の117号棟前の共用花壇と、119号棟裏手の集会所付近の確認をお願いします。」
「では、順番に確認していきましょう。申請理由はこちらでいただいた通りでよろしいですか?」
「はい。申請理由としては、現在既に住民によって清掃や手入れが行われている場所の“合法化”という意味合いが強いです」
職員は資料を見ながら、わずかに眉をひそめた。
「……つまり、すでに“やってしまっている人”がいる?」
「はい。何年も前から美化のために良かれと思ってされている方々です。ただ、時々“勝手にやってる”とクレームになることもあって」
「なるほど。自治会長さんも大変ですね。」
「なので、グレーなまま続けるより、ちゃんと都に認めてもらったほうが、安心できると思ったんです」
職員は頷いた。
「承知しました。では見に行きましょう」
まず117号棟前の共用花壇を視察したあと、三人は団地の裏手通路を歩いた。
119号棟の背面は、人通りが少なく、午後の斜光がまぶたをゆっくり照らす静かな場所だった。
そこに、植物園のような場所があった。
花壇としては大きくて範囲の境目がない。
パンジー、ムスカリ、クローバー、すこしだけ混じる白いスイートアリッサム。
整然としているが、どこか柔らかい。人の気配がする手入れだった。
「こちらも、申請に含まれている場所ですね」
職員が言ったそのとき、どこかから“ひょこっ”と現れた人影があった。
「……戸部さん?」
いのりが驚いた顔で声をかける。
そこにいたのは、団地の住民・戸部。
控えめな服装の60代女性。どこか物静かで、子どもには優しいけれど、大人とはあまり関わらないタイプだ。
「ちょっと、様子を見に来たの。スーツを着た人たちが見回ってるから……もしかして、ここ、処分されるのかと思って」
声には、明らかな不安が滲んでいた。
いのりは慌てて首を横に振った。
「そんなこと、しません! この場所の美化活動を申請するために来ていただいているんですよ。戸部さんが長年管理されてるの、知ってますから」
「……え」
戸部が思わず声を漏らした。
「住民さん同士で揉めないように、ちゃんも都から許可をもらおうと思って、都庁の職員さんに立ち会ってもらっているんですよ」
戸部が予想外の展開に目を丸くする。
「…ここの花壇、亡くなった母が植えた花なのよ。もう40年も前の話。十代の頃、母と一緒に土に触れて……それから、ずっと私が手入れしてきた」
その目が、花壇にそっと落ちる。
「誰に頼まれたわけでもない。ただ、誰もやらないから、やってきただけ」
職員が静かに頷いた。
「とても整っていますね。害虫や棘のある植物もありません」
「ええ、そういうのは避けてる。昔ね、“臭いがする”“虫が寄る”って言われたことがあって。だから、気をつけてる」
「鳥や蜂が集まりすぎると、スズメバチの巣ができることもあるので注意が必要ですけど、この環境なら心配なさそうですね。美化活動として問題ない範囲だと思いますので承認確実です。」
「よかった……」
戸部の声が、ほんのわずか震えた。
「これで堂々と美化活動ができますね」
と、いのり。
戸部は、ぽつりとつぶやいた。
「前にね、“子どもたちのために”って、野菜を育ててた人がいたの。でも、正式な申請もなかったみたいで……“畑”みたいにしちゃって」
都の職員が黙って聞く。
「最初は良かったのよ。子どもがトマトを収穫して、笑ってた。でも……“誰でも取っていい”って言ったら、他所の大人まで入ってくるようになったの。知らない人が勝手に敷地に入ってきて。花壇も、全部踏まれて。……もう、怖かった」
いのりはそっと返す。
「その話、聞いたことあります。だからこそ、今回はちゃんと都に申請して、こうして職員さんに現地を見てもらってるんです」
職員も頷く。
「過去の事例は把握しています。今回は“緑化活動”として適正です。問題ありません」
戸部が、驚いたように職員の顔を見る。
「……ほんとうに、問題ないの?」
「はい。この花壇は、東京都の緑化協力パートナーとして登録される予定です」
戸部が小さく、口元を押さえた。
「……あのね。私、ずっと、誰にも見てもらえないまま、やってたの。でも勝手に花を植えてるから撤去しろって自治会長もいて。草刈りで全部刈り取られたこともあった。」
いのりが黙って聞く。
「正直、今回も若い子が自治会長って、ちょっと不安だったのよ。大丈夫なの?って。でも……」
戸部はそっと、いのりを見つめた。
「……こんなに、ちゃんと考えて、動いてくれる子だったなんて思わなかった」
「戸部さん……」
いのりは、小さく笑った。
「私は、“見たことのある風景”が無くなっていくのが寂しいだけなんです。それが、花壇でも。古いベンチでも。誰かの思い出が詰まってるなら、守りたいです」
戸部が静かに、頭を下げた。
「ありがとう。……こんなふうに、ちゃんと味方になってくれたの、あなたが初めてよ」
団地の屋根の上。
異世界転生とも地縛霊とも言い難いハクビシン・ビシ九郎が腕を組んで、その光景を見ていた。
「……いのすけ、やっぱすごい子やな。誰かのために動いて、信頼まで引き寄せるなんて。大人でもできんぞ」
スマホを取り出し、園芸キットを検索しながらつぶやいた。
「ワイも“ビシ九郎グリーンラボ”作るか…トマトにキュウリにネギ…酒が進むで。」
が、その瞬間。
「ダメよ!ビシ九郎!!」
下からいのりの大きな声。
「野菜とか、果樹木とか!“食べられる植物”は禁止!都の指導だからね!!」
「なんでバレたん……ワイまだ買ってへんのに……」
「というか猫科はネギ食べたら死ぬよ!!」
「いや、厳密にはネコ目ジャコウネコ科や。そこら辺にいるネコとはちゃうで。あと、この姿になって胃袋バグってるから大丈夫やで」
「どっちにしてもだめです!!!!」
いのりの声が響き渡った。
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その後、掲示板に新しいお知らせが貼られた。
> 《団地美化パートナー:戸部さん(119号棟)》
長年の花壇管理、ありがとうございます。
この場所は正式に都の許可を受け、美化活動の対象地となりました。
花を植える・参加するかどうかは、住民同士で話し合って決めてください。
草刈りなどの際は配慮をお願いします。
それを見た中学生の男の子がつぶやく。
「ここの花壇、なんか前より……すごく、明るくなった気がするな」
その声が、戸部の耳に届いたかどうかはわからない。
けれど、窓からそっと顔を出した彼女の目には、少しだけ光が戻っていた。
「お母さん……ちゃんと咲いてるよ」
春の風が、白い花をやさしく揺らしていた。
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読んでいただきありがとうございました。
戸部さんは地味な存在かもしれませんが、こうした人の積み重ねが団地の景色を作っているんだと思います。
いのりがそれを受け止め、制度の形に変えることで「守られる思い出」になる。
そういう流れを書けたのは自分でも気に入っています。
次回もどうぞお楽しみに。