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第38話『ガトームソンいのり』

春の台風が近づく、少し不安定な朝。

いのりにとって思いがけない誘いが届きます。

防災という日常と、球場という非日常が重なり合い、予想外の舞台へと導かれていく物語です。

いのりのことを、どうぞ見守ってください。





日曜、午前7時45分。

九潮団地の地域センター防災倉庫前。


風張いのりは、自治連絡会の名前が入った黄色いポロシャツの上に自治連絡会の防水ジャンパーを羽織り、軍手とトングを持って立っていた。

湿った風が頬をかすめる。空は灰色で、雲が風に流され渦を巻いている。

4月にしては珍しい台風が海岸まで迫っている。

苯州に上陸するか、逸れるかどうかという微妙なところだった。


 

「…8時集合だけど…やれるのかな、これ」


 

いつもなら、子どもたちの自転車が走り回る時間帯。

けれど今日は人影もまばらで、足音も濡れたアスファルトに吸い込まれていった。

ポケットの中でスマホが震える。

LiNEの通知。自治会役員の連絡網だった。


 

『本日の防災・ゴミ拾いパトロールは、台風接近のため中止とします』


いのりはスマホの画面を見たまま、ゆっくり息を吐いた。

その息に、少しだけ安堵が混じっていたことを、本人は気づいていた。


(中止か……)


でも、この空模様じゃ当然だ。

いのりはベランダの方を見上げ、帰ろうと歩き出した──そのときだった。


スマホが着信音を鳴らした。

画面には「楓」の名前。


「あ、楓? パトロール中止になったよ──」


『──おう、いのりか。出たな。慎太や』


聞こえてきたのは、あまりにも馴染みのある、けれど想定外すぎる声だった。


「えっ……!? し、慎太さん!? え、なんで楓のスマホで……」 


『いのりと番号交換してなかったから借りとるだけや。今、楓の横おる』


「そ、そうですか……ってか、こんな朝から何かあったんですか?」


『防災パトロール中止やろ? 相談役から聞いたで。ほな空いた時間、活かさなあかんやろ』


「はぁ……?」


『今からベニスタ行くぞ。デイゲームや。シャークスの試合や。今日しかない。オレも解説で行く。』


「ええっ!? 今から!?台風来てますよ!?」


『台風は来とる。でもあの球団は“やる”。オレはわかる』


いのりは耳を疑った。


「いや、無理ですよ。中止じゃないんですか?」


『ちゃうねん。他の球場はみんな中止発表してる。中亰ドームも、亰浜球場も、上越の地方開催も全部。今朝の時点で発表出てる』


「え、じゃあ……」

 

『でもベニスタだけは、出とらん。“開催未定”のままや。これはもう──“やる”ってことや』


慎太の声には、妙な説得力があった。


『雨予報やろうが、風が吹こうが関係ない。観客入場させて、球場開けたらもう勝ちなんや。払い戻しなんてしたら放映権もパー、チケットも人件費もグッズ販売も赤字や。メザメルトってのはそういう企業や。絶対やる。あの会社は“損を嫌う”。だから、やるんや』


「め、メザメルト……って、球団の母体企業ですよね……?」


『そや。厳密には九紅ホールディングスの傘下企業やから九紅が親玉やけどな。選手もスタッフも、試合やらんと金動かへんねん。せやからあそこは“やる”。絶対にやる。これはオレの経験や。現役時代に何回も見てきた。九紅の執念舐めたらアカンで。』


いのりは、一瞬ことばを失った。

慎太の言うことは、どこかおかしい。でも、間違ってない気もした。


『それにな、これは“防災研修”や。台風接近中に数万人集客するスタジアムの対応力、避難経路、放送体制、オペレーション、それを全部見学する。課外活動や。自治会として“学び”に行くんやで』


「いや、それって……詭弁ですよね……?」


『詭弁でええ。結果的に勉強になればそれでええ。おまえ、団地の自治会長だけじゃなくて自治連絡会の防災担当やろ?』


「う……はい」


(なんで知ってるの…?) 


『現場、見に行こ。ほな11時30分にベニスタ現地集合や。正門の関係者入口で、いのり会長の名前を伝えたら入れるように言ってある。楓にも同じように言うたし、あずさも行く言うてるらしいで。ビシ九郎もオレが今から叩き起こす。防災班や、全員。なんなら呼べるだけ呼んでええで。』


「ま、待って慎太さ──」

 

『あと、もう“いのり”でええやろ?今日は自治会長ちゃうねん。現地視察する一人の女の子や。行こうや、いのり。俺といのりの仲やろ。楓も会いたがっとるで。』


そのまま、プツッと通話が、切れた。 

スマホを持ったまま、いのりは数秒黙って立ち尽くした。

そして──小さく、ふふっと笑ってしまった。


「……なんなんですか、ほんとに。慎太さん」


(連絡会の防災班って、私だけなんだけど…でも、まぁいっか。) 


 

通話が切れたスマホを手に、いのりはしばらく地域センター前に立ち尽くしていた。

大きな傘立ての脇に、レインブーツ。

防水ジャンパーの裾を見下ろしながら、ため息とも安堵ともつかない息を吐く。


(ほんとに、行くんだ……)


防災パトロールがなくなって、代わりに与えられた“防災見学会”──それも、九紅スタジアムでのプロ野球観戦という摩訶不思議な展開。

でも、慎太さんの言葉には不思議と逆らえなかった。

それだけじゃない。


(……“呼べるだけ呼んでええ”って言ってたし)


スマホを開いて、指先が止まる。

連絡先に登録されている一人の名前をタップする。


こうへいくん。


大学1年生で103号棟の自治会長。

落ち着いていて、いつも冷静で、優しくて。でも──ちゃんと見ていてくれる人。


(本当は……今日のパトロール、一緒に回れたらいいなって思ってたんだ)


団地内を並んで歩いて、交差点で止まって──

さりげなく、手が触れたりして……


「ないないない……!」


妄想を振り払い、両頬を軽くぺちぺちと叩いて、深呼吸する。

スマホのメッセージ画面に、ゆっくり文章を打ち込んだ。


『今日、防災パトロールが中止になって……急きょ、ベニスタのデイゲームに行くことになりました。元プロ野球選手の皆本慎太さんに誘われて……たぶんすごく珍しい経験になるかもって思ってます。』


さらに緊張しながら文字を打つ。


『防災見学って名目ですが、もしよかったら、一緒に行きませんか?誘えるだけ誘ってって言われたので。』


 一度、送信ボタンに親指をのせて……深呼吸。


『急でごめんなさい!もし予定があったら気にしないでくださいね』


 

これでよし。


 ──送信。


(だめだったら、それはそれで…でも返事が来るの緊張する…)


 

スマホを伏せて、レインブーツに足を入れる。

自治連絡会関係はちゃんと制服を来ていくことにしている。

いのりのマイルール。

でも今日は台風の中の試合観戦と視察。

動きやすい私服に着替え、髪は控えめにまとめ直した。

今日は自治会長としてではないけど、自治会の防災責任者として。 


「行ってきます」


玄関を開けると、湿った風が吹き抜けた。


 

そして、数分後。


スマホが震える。

着信──ではなく、メッセージの返信。


 

こうへいくん(既読)『えっ、皆本慎太さんって、あの“全日苯”代表の!? いのりちゃん、知り合いだったの!?』


『うん…うちの相談役とハクビシンが仲良くて。あと親友のお父さんなの。』


『……正直ちょっとびっくりした(笑)』


『だよね。しかも、パトロール中止なのに試合はやるんだって(笑)』


『でも…今日、いのりちゃんとパトロールできなくなって寂しかったから……行けるなら俺も一緒に行きたい』


『うん!私も!!』


『待ち合わせ場所教えてくれたら、向かうね』


『11時30分に九紅スタジアムで現地集合だって。正門の関係者入り口前で待ってて。』


『了解!用事済ませたらすぐ向かうよ!』 


リアルタイムでチャットを交わした。

画面を見た瞬間、嬉しくて思わず息を飲んだいのり。

何度も読み返して、胸の奥がふわっと熱くなった。


「……うん。行こう」


雨で濡れた服の裾なんて、どうでもいい。

ベニスタの座席が濡れてても、気にならない。

一緒にいられたらそれだけで良いと思った。


そして現地。


ベニスタ正面、関係者受付前。

空は重たいグレー。

雨は細かく、風に乗って吹き付けていた。


「……あ、あずさ、楓!」

 

先に来ていたいのりが手を振ると、二人が傘を差してやってきた。


「よかった、もう来てたんだ!」


「集合11時半、今20分。みんな優秀じゃん」


「さすが防災班……時間きっちりだね」


「正式には私だけなんだけど(笑)」

 

楓が静かに頷きながら腕時計を見る。


「じゃあさ、いのりがリーダーで、楓が優等生枠って感じで──」


あずさが何気なく言ったところで、ふと自分を指差す。


「……私のポジションは?」


いのりがちょっと笑って、考えたふうに首をかしげた。


「えっと……JK!」


「雑ゥ!」


笑いがはじけたところで──背後からもう一人、ゆるやかに登場する影が。


「ごきげんよう、JK諸君」


ゆるふわ巻き髪、足首までのスカート、レースの傘。

モデル顔負けの完璧なビジュアル──ビシ九郎だった。


「……え、誰?」


「ワイや。ビシ九郎やで。外ではピチピチのメスやからな。」


「仕上がってるな……」


「完成度たっか……」


「え?ビシ九郎さん!?こんなキレイな人なの??」


楓にとって初めてみるビシ九郎の外行姿。

ちょっとした衝撃が広がったところへ──


「おーい、いのりちゃーん!」


制服姿のいのりが振り返ると、傘をたたんで小走りにやってきたのは、木澤滉平。


「あっ、こうへいくん!」


「おまたせ!いのりちゃん、今日は私服なんだね。……すごく可愛い」

 

「へ……あ、ありがとう……っ」


いのりの顔がみるみる真っ赤に染まる。

すかさず、あずさがニヤッと笑ってツッコミを入れる。


「いのり、ちゃっかりしてる〜」


さらに楓が真顔でボソリ。


「彼氏? スマホの待ち受けの人だよね?」


「ち、ちがう! ちがうからっ!」


いのりはぶんぶん手を振って否定するが、もう顔は真っ赤だった。


「えっと……はじめまして。103号棟の自治会長、木澤滉平です。東亰海洋大学の1年生です」


「うわっ、大学生!? しかも“滉平”ってカッコいい名前じゃん」


「なんかチャラいけど……自治会長やってるってだけで国立大生って感じ〜」


「なにそれ〜」


「そりゃ私服に反応もするわけだ」


にぎやかな空気が生まれる。


……そんな空気を、どこか複雑な気持ちで見つめるいのり。


(……なんか、こうへいくんの視線が……そっち向いてる気がする……)


視線の先にはビシ九郎(美少女モード)。

そして楓も誰もが振り返るような才色兼備を持ち合わせた美少女。

あずさだってかなりレベル高い。

そりゃこれだけ可愛い子が揃っていたら目移りするのも仕方ないだろう。

と、納得しながらも、ちょっとだけ、むっとした顔のいのり。

でもそれがまた、妙に可愛いのだった。



「じゃ、受付行こっか」


いのりが仕切り直すように、受付で一歩前に出る。


「えっと──風張いのりです。皆本慎太さんに“名前で通してある”って言われてて……みんな私の同行で5名です」


スタッフが表情をほころばせ、深く頷いた。


「はい、確認しております。5名様分、関係者パスをご用意しますね。」 


パスが順番に配られ、首にかけられていく。


「うわ、マジで関係者や……」


「これ着けてグラウンド行くんだ……」


「慎太さん、ただのOBじゃないんだね……」


「いつもならワイはこのまま解説席へ連れてってもらうんやけど、今日はみんなとスタンド席や」

 

「──おーい、おまえら!」


聞き覚えのある低い声が響いた。

振り返ると、スーツの上から黒いウインドブレーカーを羽織った慎太が、バインダーを抱えて手を振っていた。


「慎太さん!」


「みんな来てくれてほんま助かったわ。これで全員、来てるな? よしよし」


彼はぐっと親指を立てて、ふっと笑った。


──グラウンド外周エリア、スタッフ動線内。


関係者パスを受け取り、いのりたち5人が案内されたのは、普段は立ち入れない球場内部の「現場」だった。


「まずな、ここや。排水ポンプの集中バルブ、緊急放送用端末、それと避難誘導灯の切替操作室」


慎太が、手慣れた様子で設備パネルを指差す。


「こっちが選手搬入口。車イス用スロープがあってな、こっちは災害時の搬出ルートにもなる」


「……すご。こんなとこ、見られる日あるんだ……」


楓が目を丸くし、木澤もスマホでメモを取っている。


「台風の中でイベントやるってのはな、“避難所でも人を捌けるか”って試験でもある。今日みたいな日は、見とくだけでも価値あるで。おまえらの“防災”としてな」


「……無茶を通して正当化してる感じあるけど、内容はガチだ……」


あずさが呆れ笑いしながらついてくる。


「ほんでや。グラウンド、こっちや──」


慎太が関係者ドアを開けて、通路へ誘導した。


開けた視界の先には、プロ野球選手たちが小雨の中シートノックやキャッチボールをしている。


「うわ、マジでグラウンドや……!」


「えっ!近くない!?」


選手たちが練習している土と芝の匂い。打球音。スパイクの音。

いのりたち5人は思わず足を止めた。


「ベニスタのグラウンドは、ホームベースから外野のセンター後方へ若干の傾斜がついとる。つまり溜まった雨水がバックスクリーン方向へ流れて排水されるんや。打者からみると打ち下ろすような感覚やから、打者天国なんて言われとるな。」


「ちゃんと計算されて設計されているんだ…。」


いのりたちが感心しているその時…、ベンチ裏で談笑していた若手中継ぎ投手陣の声が、ふと慎太の耳に入った。


「え〜、今日マジで試合やるんすか?」


「らしいよ。早く中止決めてくれたら来なくて良かったのにな。」


「俺もどうせ台風で中止だと思ってましたよ……」


「どうせやるにしても、頼むから5回終了で切り上げてくれ!って感じ。」 


「そうそう、中継ぎの負担だけは困るからな。」


「とにかく先発が雨天コールドまで投げ切ってくれれば。」


「俺、今日は頼まれてもブルペン入んねーから」


「ウケる!つーか、こっちも球速落ちたら“雨のせい”って言っときゃいいっすね」


「ホントホント!こんな日に投げさせられるとかゴメンだね。さっさと試合終わらせで遊びにいこうぜ」 


「いいっすね!どうせ明日も試合ないし。今日流れてくれないかな~。」


 ──バンッ!


慎太がスコアバインダーをベンチの柵に叩きつけた。


「おい、何ナメたこと言うとんねんおまえら!!!」


突然の球団OBレジェンドの登場に、一瞬、空気が止まる。


「え?皆本さん!?なんで!?」


数年前まで現場のヘッドコーチだった慎太を知らない選手はいない。


「今日は試合やるって決まっとんのや!気持ち切り替えろや!雨や風があるのはどっちのチームも同じ条件やろが!!」


選手たちが思わず立ち上がる。


「なまっとるんや!この3日間でおまえらは!!木曜が移動日で試合無し。サーモンズが金曜来れず中止、土曜ナイターも雨天順延。実質、今日が三連戦1本目やろが!調整なんて言ってられるかい!!そんなこと言っとるからビリなんやろ!!」


若い選手達は黙るしかなかった。


「スケジュール詰まったら連勤になるんは選手より首脳陣や!選手は休めても年寄り連中は干からびるしかないんやぞ!!」


若手たちは


「すんませんっス……」


と頭を下げる。


「そもそもファンがこれだけ雨の中来とんのに、何ヘラヘラしてんねん!中止やったら、チケット代もグッズも飲食も放映権も全部パーや!おまえら、球団の屋台骨ナメんなよ!!」


ピリッと空気が変わった。

その気迫に、いのりも思わず姿勢を正す。


「……慎太さん、あんなに怒るの初めて見たかも……」


「お父さん、現役の時から厳しい人って有名だったよ。でもしっかりと運営のことも考えてる。」 


楓は幼いころから現場に立つ慎太の顔を知っていたらしい。


「お父さん、厳しく見えるけど…。でも、ヘッドコーチのとき、どの選手もせっかく光るものがあってプロに入ったんだから、1円でも多く稼がせてやらなアカン。それが俺の役目や。って、厳しく選手に指導してたらしいよ。」


「そうなんだ……現場に立ってた人の声って、重いね」


木澤が、小さく頷いた。


その瞬間──いのりの中でも、“今日という日”がただの課外活動ではなくなった。


(そっか。これって……ちゃんと、責任持って参加しなきゃいけないことなんだ……)


「いやあ……それにしても、ホンマ、よう入っとるな今日は」


その目の先、九紅スタジアムのスタンドは──

台風が接近しているというのに、まるで何事もなかったかのように、席がびっしりと埋まりつつあった。

雨カッパ、ビニールポンチョ、簡易ゴミ袋をかぶった熱烈なファンたちが、あちこちでタオルを掲げて声援を送っている。


「すご……ほぼ満席じゃん……」


「どこから湧いてきたの、この人たち……」


「メザメルトファンはな、こういう天気やからこそ湧くんや。

“嵐と一緒に球場へ来い”ってキャンペーンまでやっとる会社やで。根性が違う」


慎太は苦笑しながら、視線を中央スタンドに戻した。


「……ただし、あそこだけは別や」


彼が指差したのは、バックネット裏の屋根付き特別シート──

スタンドの前方ど真ん中、テレビカメラの正面ど真ん中。


「年間スポンサーの2列分や。今日の試合、企業が全部キャンセルしよった。中継で映るとこやから、あそこだけぽっかり空いてんの、めちゃ目立つねん。」


確かに、そこだけがまるで島のように空白になっていた。


「せやから、おまえらが真ん中座ってくれるだけでええ。学生服と私服の若者グループ──ええやん。画面映えもする。“ちゃんと地域の若者にも応援されとる球団です”って空気が作れる」


いのりは、ちょっと困ったように笑った。


「そんな大役だったんですか……」


「せや。おまえらが“画面に映る若者”になるだけで、オレの面目も球団の見栄えも立つ。感謝しとるで、マジで」


「…あと──実はな」


慎太が後ろ手に組みながら、少し声を落とした。


「今日の満員、単にシャークス目当てってだけやない」


「え……?」


いのりたちが同時に首を傾げる。


「今日の始球式、来る予定やったのは──“ガトームソン葉弥はや”や」


一瞬、全員の空気が変わった。


「……え、あの“ガトームソン・はや”? 今人気のドラマ出てる……」


楓が珍しく食い気味に反応する。


「映画ヒロインもやってる超人気若手女優じゃん! SNSで毎週トレンド入ってる子……」


「そや。歌手業と並行してて、“次世代の国民的女優候補”とか言われとる。

 そんな彼女が“始球式投げる”って予告されてた。そら前売り完売するわけや」


あずさも思わず唸った。


「……そっか。客席、ガトハヤのファンが多かったんだ……」


慎太が苦く笑う。


「せやけど、その“目玉”が……台風で来れんようになった。昨日から怪しいって聞いてたけど、さっき正式に、飛行機欠航の連絡入った」


「うわ……」


「そら現場はパニックや。“ガトームソン葉弥目当て”で来とるファン何百人とおる中で本人出られません、言うわけにもいかん。カメラの抜き、進行、アナウンス……今スタッフ全員で誤魔化し演出の調整しとる最中や」


「時間的に、もう誰も呼べない……ってことですか?」


「そや。代役タレントなんて用意してない。ガトームソン葉弥目当ての客前で代わりに投げたいですなんてタレントもそうおらんやろ。でも会場の空気も、盛り上がってきとる。ほんまは“誰か代わり”を出せたら一番ええんやけどな…と思ってたら…」


慎太が、ちらりと──

私服にレインブーツ、首に関係者パスを下げた少女へ視線を向けた。


「……そこにおるやろ」


静かに言った。

いのりは目を見開く。


「──え?」


慎太は、まっすぐ彼女を指差した。


「いのり。始球式、おまえが投げろ」


「ええええええええええっ!?」


全員が同時に叫んだ。


「ちょ、ちょっと待ってください慎太さん、私無理です、始球式なんて絶対無理です、そんな!」


「おまえ、自治会の防災代表やろ? いま球場が困ってる。中止の空気を“開催の顔”で変えられるのは……この中で、おまえしかおらん」


あずさがいのりの肩をつかむ。


「いのり、ガチで投げるの!?」


「てか私、投げ方なんてわかんないし、っていうか今レインブーツだし!!」


「大丈夫や。心配いらんで。ユニフォームも、靴も、全部用意ある。」


慎太の声が、どこか頼もしく聞こえた。

そして──木澤が、一歩前に出て、いのりの目を真っ直ぐに見た。


「いのりちゃん。大丈夫。……俺たち、スタンドからずっと見てるから。かっこいいと思うよ。いのりちゃんがあの場所に立つの」


その声に──背中を押された。


いのりは、一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。


「…わかりました…やります…」


その言葉が出た瞬間、全員の表情が変わった。

慎太がニッと笑い、肩をポンと叩く。


「よっしゃ。あとは任せたぞ、“ガトームソンいのり”!」


「もう……冗談やめてください!」


そう叫んだいのりの顔は、さっきまでの不安がうそのように晴れていた。



 



ここまでお読みいただきありがとうございます。

身近な日常から一歩踏み出した先に、まさかの光景が待っている──。

そんな偶然が重なり合うとき、人はどう振る舞うのか。

いのりの選択やその心の揺れを、少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

次回もまた、彼女の物語を一緒に見守っていただければと思います。

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