第37話『私たちにもあんな頃があったのにねぇ』
季節が少しずつ移り変わり、空気もやわらかく感じられる週末の朝。
思い出の場所や、新しい体験は、日常の中に小さなきらめきを残してくれます。
そんな時間を描きました。
どうぞ、ゆっくりお楽しみください。
土曜の朝。団地の裏手。
かつて木澤が通っていた旧九潮南小学校の体育館は、今では地域の公営ジムとして使われている。
空き教室はカルチャースクールに貸し出され、体育館も解放されている――どこか懐かしさと温もりが入り混じった場所だった。
「改めて思うけど、ここって、ほんとに小学校だったんだね」
「うん。九潮学園と合併しちゃったけど、思い出の場所だよ」
「教室とかも……ちゃんと残ってるんだ……」
「まだまだ現役で使えるくらい、そこまで古くもない学校だったんだよね」
ジムの扉を開けると、ひんやりとした空気。
ストレッチをする高齢者、軽く走る社会人、筋トレ器具を使う高校生グループ。
「いのりちゃん、今日は無理しなくていいからね」
「うん……でも、ちょっとドキドキする。ちゃんとできるかな……」
「大丈夫。いのりちゃんには、いのりちゃんのペースがある。まだ育ちざかりなんだから、筋トレで無理するよりも、ケガしない身体づくりの方が大事だよ」
「…ありがと。…優しいんだね、こうへいくん」
「なんか照れるな…」
準備運動を終えて、軽く体幹トレーニング。
いのりは見よう見まねで、懸命に腹筋やプランクに取り組む。
「ふう……これ、けっこうキツイね」
「でもすごいよ。はじめてでちゃんとできてるし。姿勢もいい」
「ほんと……?」
「うん。地味に続けると、絶対変わるから」
「そっか。じゃあ筋肉つけて、体重増やすこともできるかな?」
「なんで?いのりちゃん十分スタイル良いじゃん」
「…実は…地域ボランティアの献血、参加できなかったから」
いのりは献血カーで看護師さんに断られた場面を思い出した。
「規定まで、あと体重が1300グラム足りないね……って言われたの。ルールだからダメって…。」
「…いのりちゃん。…残念だったね……」
「自治会長なのに、住民の模範になれなかったんだ…。しかも献血のお医者さんから、成長期だから無理しちゃダメって言われた。」
「そっか…、確かに献血って、体重とか受けられる基準があるからね。」
「だから、ちょっとがんばってみようと思って」」
一息ついたところで、木澤がリュックからドリンクボトルを取り出す。
「じゃあさ、これなんてどう?BCAAっていうアミノ酸系のドリンク」
「それなーに?アミノ酸……? それって、なににいいの?」
「吸収が早くて、運動中の疲労回復とか。たんぱく質を分解した成分だから、すぐ浸透するんだ」
「へぇ……すごい…不思議な色してるね…」
いのりは木澤の持っているボトルをじっと見る。
透明なプラスチックに入った、うすい黄色のようなオレンジ色のような液体。ラベルには《メザメルト社製 キマルデチャージ味》と書かれていた。
「……それって、どんな味なの?」
「飲んでみる?」
「え、いいの……?」
木澤がボトルの蓋を開けて、軽く差し出す。
いのりは、ちょっと戸惑って――そっと口をつけた。
ふわっとかき氷のシロップのような、エナジードリンクのような風味が広がった。
「うん、ちょっと不思議な味だけど…平気。…飲める…」
「よかった。メザメルトのプロテイン製品って飲みやすいから、俺も好きだよ」
と言って、木澤はいのりから受け取った自分のボトルに口をつける。
(……そういえば口つけて…飲んじゃった…こうへいくんと…関節…キス?…しちゃった…)
思い出して途端に、赤くなるいのり。
(なんかちょっとだけ、ドキドキする…こうへいくんは気にしていないのかな…?)
「そうだ!ホエイプロテインもあるよ? 俺、朝これ飲んでること多いんだ」
「えっ!? それも、飲んでみたい……!」
木澤が取り出した空ボトルに、粉を溶かしてシェイクしたメザメルト味のプロテイン。
ふんわり甘い乳酸菌の味。ほのかにミルクの香りもする。
「どう?」
「おいしい……想像より、ずっと……爽やかで、飲みやすい」
「これ、少食な人にもいいよ。タンパク質って、意外と食事だけじゃ足りないから」
「美容にもいい……?」
「うん。肌にもいいし、美しい髪や爪の維持にも期待できるって言われてる」
「……じゃあ、毎日飲もうかな」
(こうへいくんが褒めてくれるなら…、かわいいって言ってくれるなら…)
「俺も、いのりちゃんが続けるなら、一緒に飲むよ」
思わず顔を上げると、すぐそこに優しい瞳。
しっかりした肩。細身に見えるのに、シャツの下にしっかり筋肉があるのが分かる。
(こうへいくんって……なんか……かっこいいな。…ともりが言ってた通り…けっこう私のタイプかも…)
いのりが木澤をそっと見つめる。
(しかも、栄養のことも詳しくて…さすが理科の先生目指してるだけあるな…)
「ねえ…いまさらだけど…こうへいくんって、何年生?」
「ん?大学1年生だよ。だから去年までは高3だった」
「現役で国立大合格したんだね! すごいな~!」
「アハハ、そんなことないよ。近所で、なんとか受験勉強すれば偏差値が届きそうなとこ選んだだけだし(笑)」
「ううん。ちゃんとこうへいくんが目標を持って頑張っているの知ってるよ。先生になるんでしょ?」
「…うん、そうだね。ありがとう、いのりちゃん」
「こうへいくんって、私が今、高2だから…高1の時に高3の先輩だったんだ…」
「そういわれるとそうだね」
「2つ違いだ。歳、近いね……なんか、うれしい」
(大学3年生とかで5つくらい年上かと思ってたけど……実は、歳もそんな離れてないんだ……)
「いのりちゃん、俺のことけっこう年上だと思ってた? そんなに老けて見える?」
「え、そんなことないっ! 次はなにしようかな~!」
「ねぇ、いのりちゃん」
「…なに?こうへいくん」
「同じ学校だったら去年まで後輩ちゃんだったね。なんか一緒の学校に通ってみたかったな。」
「…うん、私も。こうへいせんぱい!」
「……いや、それはそれで恥ずかしいな」
「えへへ、だって先輩だもん」
「じゃあ……いのり後輩?」
「ちょっと、なにそれ~!」
「やっぱ、今まで通りが一番かな」
「……こうへいくん?」
「…いのりちゃん」
「…こうへいくん」
2人が見つめ合いながら、照れたように名前を呼び合う。
ちょうどそのとき、近くでウォーキングをしていた年配女性たちが、ひそひそ声を交わす。
「若いっていいわねえ……ほら、見て見て、あの二人…付き合ってるのかしら…」
「さっきなんて間接キスしてたわよ、……青春ってやつねぇ」
「ふふふっ……かわいいわ」
「私たちにもあんな頃があったのにねぇ…」
「ほら、あの子照れちゃって。きっと彼のこと大好きなのね」
「青春ね~ 見てるこっちが恥ずかしいわ~」
(や、やだ……聞こえてるし……っ)
「いのりちゃん、顔赤いよ?」
「も、もうっ!」
(ど、どうしよ…やっぱり私ってチョロイのかな…)
軽くじゃれながら、次のトレーニングに向かう二人。
スタジオの鏡で自身のウォームに集中しながらも、
いのりの頭の中は、キマルデチャージよりも甘くとろけてキマっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
当たり前に過ぎていく日々の中で、ふと心が揺れる瞬間があります。
それは人と人との距離や、ひとことの言葉がきっかけになるのかもしれません。
今回の物語が、そんな感覚を少しでも思い出させるきっかけになれたら嬉しいです。