第33話『風張いのりの誕生日』
今回のお話は、風張いのりの誕生日をめぐるエピソードです。
いつも自治会や学校で精一杯頑張っているいのり。
そんな彼女の背中をそっと支えるように、仲間たちが動きます。
小さなきっかけから始まるサプライズ。
その一瞬一瞬のやり取りが、三人の関係をさらに深めていきます。
昼休みの学食。
丸いテーブルに並ぶトレー。湯気の立つうどん。
チーズトッピングがあったりなかったりで、すでにちょっとした小競り合いが始まっていた。
「え、それズルくない? チーズ乗ってるじゃん」
「ふふっ、だって今日は会長の仕事がない日だもん。自分へのご褒美」
「そういう理屈なら、私毎日ご褒美でもいいわ」
にぎやかに笑い合うのは、風張いのり、七條あずさ、皆本楓の三人。
この団地と高校で、偶然と出会いと少しの勇気が繋げた関係だった。
「今日、放課後どうするの?」
ふと、あずさが何気なく切り出した。
「んー、特に用事ないな。真っ直ぐ帰ると思う」
いのりがそう答えると、あずさがすっと楓の方へ視線を逸らす。
「今日さ、私と楓で、ちょっと寄り道しようかなって話してたの。」
「え……うん。少しだけ用事があって」
楓が慌てて乗っかる。
「そっか。じゃあ、あとは2人で決めなよ」
いのりは笑ってそう言ったけど、どこか少しだけ、寂しそうにも見えた。
いのりが気を遣って席を立ち、背中が学食から遠ざかっていく。
その背中を見送りながら、あずさはそっと言った。
「……楓、ごめんね。急に合わせてもらって」
「ううん、大丈夫」
楓がまっすぐに答える。
「ちゃんと伝わったよ。いのりに気づかれてないと思う。」
「ありがとう。今日が終わっちゃう前に、やっぱり……祝いたくて」
「祝う?」
「うん。風張いのりの誕生日。4月1日なんだ」
あずさは空になった紙コップを手の中で握りしめるように言った。
「いのりと出会ってからまだ1年しか経ってないけど、今年が、初めて“祝える”タイミングだったの。でもあの日、いのりが自治会長就任もあって忙しくて、LiNEも返ってこなくて……結局、なにもできなかった」
「そうだったんだ。私が新学期に出会う前だったんだね。」
「そう。だから、遅れてでもいい。今からでも言いたい。“おめでとう”って」
楓はしばらく黙って、それから、そっと笑った。
「だったら、あずさ。わたしも手伝わせてほしい。……その言葉、私からも届けたい」
午後、授業が終わるとすぐ、2人は駅前のモールにある文房具店へ向かった。
大きなショーケースの前で、並んで目を凝らす。
「やっぱりあんまり高いものだと、いのりが気を遣うよね」
「…そうだよね…これなんてどう?」
楓が指差したのは、淡い水色のシンプルなボールペン。
丸みのある細身のボディ。さりげなく上品なクリップ。
どこか“いのりっぽさ”があった。
「……わ、いいねこれ。かわいいというより、きれい。仕事できそうな感じする!」
「だよね。主張しすぎず、でもちゃんと芯が通ってる。実際にボールペンの芯が入ってるけど。」
「それ、まんまいのりじゃん(笑)」
思わず笑って、ふたりで顔を見合わせる。
「これにしよっか。2人で出し合えばちょうどいいし」
「うん、決まり!」
会計を終えて、店を出る。
夕方の光が少しずつ差し込む街の中。ほんのりと、桜の残り香が鼻をかすめた。
「……気づいたらさ」
ふと、あずさが口を開く。
「私、いのりと出会ってから、誕生日を祝ってあげたことなかったんだよね。去年の4月1日はまだ出会ってなかったし、今年はバタバタしてて。だから……今回が初めてなの」
「わたしにとっても、あずさにとってもいのりを祝うの初めてだね」
楓がそっと横に並びながら言う。
「私も……出会って日は浅いけど、いのりのこと祝いたい。ちゃんと大切にしたいから」
そして2人は、小さく笑い合った。
「ね、楓。私たちってさ──いのりがいなくても、いいコンビかもね」
「ふふ、そう思う。あずさ。」
いのりを中心に巡り合った2人も、いつしか笑い合う仲になっていた。
楓があずさを連れて皆本家に戻ると、冷蔵庫には昼過ぎから母が焼いておいてくれたスポンジケーキがあった。
すでに冷ましてくれている。
あとは飾り付けと、想いをのせるだけだ。
「急遽、学食のあと、お母さんに連絡して用意してもらったんだ。」
「いつのまに…。ありがとう、楓。…ありがとうございます、お母さん。」
あずさが楓の母に頭を下げる。
楓の母は嬉しそうに
「いいのよ。あなた達のためなら。楓が友達のためにケーキ作りたいなんて初めてだったから嬉しかったわ。」
と、楓の母があずさに微笑みかける。
「ねぇ、あずさ」
楓が、不意に真顔で呼びかける。
「ん?」
「私……あずさのこと、大事な友達って思ってるよ」
「えっ、なに急に(笑)」
あずさが笑う。
「なんか、ほら。いのりがいなくても、こうして笑えてるの、すごく自然だなって思って……うれしくて」
「……うん。私もそうだよ。楓と一緒にいのりのこと考えられて、よかったって思ってる」
ふたりは少し照れながらも、きゅっと目を合わせて笑った。
楓の母もそんな2人の姿を嬉しそうに見つめていた。
生クリームを泡立てながら、楓が言う。
「スポンジ焼いておいてもらって正解だったね」
「うん、時間ギリギリだけど……間に合いそう!」
いちご、ブルーベリー、バナナ。
彩りよく並べられた果物が、春のケーキを華やかに彩っていく。
箱詰めを終えたところで、後ろから声がした。
「ケーキ、完成したか?」
リビングから現れたのは、皆本慎太。
楓の父にして、元プロ野球選手。
マグカップのコーヒーをすすりながら言った。
「じゃあ、団地までは俺が車で送るわ。いのり会長に“住人として相談したいことがある”って伝えて、集会所開けさせたらええやろ。自然に呼び出せるやん。」
「……ありがとう、お父さん」
ひとまずケーキを冷蔵庫で冷やしながらあずさと楓はひと休みする。
皆本慎太は車の鍵もスタンバイOK。
リビングにコーヒーの香りが立ち上るころ、楓があずさにふと尋ねた。
「ねぇ、あずさ。いのりって、4月1日生まれなんだよね。やっぱちょっと珍しくない?」
それを聞いて、慎太がふっと鼻で笑う。
「昔な、うちの高校にもいたんや。オレの大先輩にな。4月1日生まれのピッチャーで、高1に夏の全国大会優勝しよった。高卒即プロ入りして、プロでも即エースナンバーもらっとったわ。」
「え!?すご!!」
「そうやろ?……しかも高1の全国大会は実質中学3年生が高3相手に投げてるのと変わらん歳だった。誕生日が1日遅かったら下の学年やからな。それで全国制覇やで。プロでは実質、高校3年生がエースナンバー背負って1年目からプロの猛者相手に投げてたんや。年齢ってのは書類だけで測れん。立場ってのは重くなる分だけ、しんどいもんなんや」
楓とあずさが生まれる前の話だが、2人とも早生まれのハンデを背負って生きるいのりと重ねながら聞いていた。
「──いのり会長もそうやで。ついこの間まで15歳だった子が、4月1日に“団地の自治会長”になったんやろ? 半端やないで。実質的には先月まで中学校通ってた子と変わらんのやから」
2人は息を呑んで、顔を見合わせた。
慎太の言葉は、あたたかく、でも鋭かった。
「だから、今日2人がやろうとしてることはな──きっと、いのり会長の支えになるやろ」
「同じ学年でも誕生日で全然条件が違うんだね…私は気にしたことなかった。」
「…誕生日で区切ってる以上は仕方ない部分もあるんやけどな…。それを受け入れて、あの子はちゃんと、背負ってるんや」
「……よし」
楓が立ち上がり、ケーキの箱をそっと持ち上げる。
「プレゼントも用意できたし、準備完了です!」
「うん! いこっか!」
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車のなか。
慎太の運転するセダンが、夕暮れの住宅街を抜けて団地へ向かっていく。
いつもは助手席に座る楓も、今日はあずさと一緒に後部座席に並んで座る。
「ねぇねぇ、楓!せっかくだから2人で写真撮ろ?いのりに内緒でサプライズ準備の記念撮影!」
「うん!撮っちゃお!」
2人でケーキの箱を膝に抱えながら、スマホのカメラを起動する。
「せーのっ!」
カシャ。
そこには、肩を寄せて笑う女子高生2人と、春色のプレゼントたち。
画面の中の世界は、少しだけ眩しくて、少しだけ誇らしかった。
ミラー越しにその様子を見た慎太は、静かに、心のなかでつぶやいた。
──楓、ホンマに良い友達、できたな。
夕方、団地のエントランスに、制服姿の風張いのりが現れた。
スマホの通知には、あずさからのメッセージ。
> 「住人の方から“自治会の件で相談したい”って連絡が来てるみたいだよ。集会所で待ってるって!」
「……相談? 急に?」
首をかしげながら、いのりは集会所の鍵を開けるために向かった。
すっかり慣れた足取りで、誰もいないはずのその場所へ。
建物の前に立ち、鍵を差し込む。
ガチッ…
「あれ…空いてる…?…もう誰かいるのかな?」
静かな扉の向こう。
ゆっくりと暗い集会所の中へ、いのりが足を踏み入れる。
誰もいないはずのその空間が──ふっと、灯る。
「……え?」
集会所のオレンジ照明が点いたと同時に、ケーキのキャンドルの光が、ふわりと浮かび上がった。
テーブルの上には、丁寧に飾られたフルーツケーキと、ラッピングされた小さな箱。
その前に立っていたのは、あずさと楓。
2人とも、にっこりと笑っていた。
「……おかえり、いのり!」
「…いのり、お誕生日おめでとう!」
時間差で響いた2つの声に、いのりは完全にフリーズする。
「え、な、なにこれ……なんで……?」
「言えなかったから」
あずさが言う。
「4月1日、ちゃんと祝えなかったから」
「え?もしかして…そのために…?」
「今さらかもしれないけど、ずっと言いたかったんだ」
「お誕生日おめでとう、いのり」
楓がそっと手を伸ばし、ボールペンの箱を差し出す。
「これ、2人で選んだの。“会長用”にぴったりでしょ?」
あずさが横からニコニコ顔で言う。
いのりは受け取った箱を見下ろし、それから、ゆっくりと顔を上げた。
何かを言おうとした唇が、かすかに震えていた。
その目は、もう真っ赤に潤んでいた。
一生懸命こらえようとしているのが、はっきりとわかる。
「……そんなの、ずるいよ」
ぽつりと、いのりがつぶやいた。
そして──涙が、一粒、いのりの頬にこぼれ落ちた。
「わたし、今日は2人共用事があって、ひとりで帰るんだって思ってたから…。なんか寂しいなって思ってた…。なのに…ずるいよ…」
「ごめんね、いのり。いじわるしちゃって」
楓がいのりの肩に手を当てながら言う。
「私、春休みにひっそり年とって、誰にも気づかれないのが当たり前で……」
「だから今年は絶対に1人にさせない!って思ってたんだけどね。ごめん、遅くなって」
あずさがもう片方の肩に手を当てる。
「でも……こんなの……ずるい…。…ありがとう……あずさ、かえで…」
次の言葉は涙に溶けた。
声にならなくなったいのりの目から、ぽろぽろと涙がこぼれていく。
「…はじめてだったんだよ。こんなふうに、おめでとうって友達に言われるの…」
あずさが、そっといのりの頬に触れる。
「来年も言おうよ。“おめでとう”って。毎年、ちゃんと」
楓が微笑んで言う。
「私も、ずっと言うよ。だから今日は──わたしたちの主役になってね」
しばらくして──
いのりは泣きながら、でもちゃんと笑って、ふたりを見た。
「……うん。ありがとう。今日からは……ちょっとだけ、自分の誕生日、好きになれそう」
その後、3人は机を囲んでケーキを分け合い、記念写真を撮った。
あずさがスマホを構え、タイマーをセットする。
「はい、笑ってー!」
パシャ。
画面には、ろうそくの明かりと笑顔と、水色のプレゼント。
それを見ながら、いのりがこっそりスマホの設定を開く。
「……ふふ」
楓が気づいて聞いた。
「なにしてるの?」
「待ち受け……交互に切り替わるやつにしたの。今日の写真と──こうへいくんとのツーショット。どっちも、大事だから」
「え、それずるい!私たちの写真をメインにしようよ!」
「いのり会長、ちゃっかりしてる〜」
笑い声が、春の団地にこだました。
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外では、団地の駐車場の片隅。
集会所から少し離れた植え込みのベンチに、ビシ九郎が缶コーヒーを手に腰かけていた。
その隣に皆本慎太。
そのまた少し離れた場所に、尾花哲人の姿があった。
「──うまいこといったみたいやな」
ビシ九郎が、缶の口を傾けながら言った。
「音、めっちゃ聞こえとったわ。あいつら3人とも、笑いながら泣いとる」
慎太は腕を組んで、にやっと笑う。
「……そりゃいい夜だ…」
副会長・哲人はベンチの端で静かに立っていた。
どこか少し照れたような、でも満足げな表情。
「……ビシ九郎から“集会所貸してやってくれ”って連絡がきたとき、理由は言われなかったけど、何となく分かりましたよ。集会所に住んでるのになぜそんなことを?ってね。」
「あずすけがな…“住人として集会所を使いたい”ってワイに相談してきてな。どうせサプライズやろ?って思て」
慎太が驚いたように横を見る。
「……あの子が直接?」
「そやそや。ワイとあずすけはな、ファミレスで夜通し団地の話しとる仲や。信頼しとるで」
「会長よりも過ごした時間が長いってわけか。」
皆本が納得するように言う。
「だから、副会長に正式に手続きお願いして、サプライズのために鍵の手配もしてもろたっちゅうわけや」
哲人は少しだけ頷いた。
「僕はただ、住人が利用したいと言うから集会所の鍵を開けただけですよ。断る理由がありません。でも……あの子たちの“やりたいこと”が、ちゃんと伝わってきたんです。
それだけで十分でした。」
皆本のほうを見つめながら哲人が照れくさそうに言う。
しばらく3人は黙って空を見上げた。
夜風が少しだけ冷たくて、でもどこか甘くて。
「団地も、ええもんやな」
慎太がぽつりとつぶやいた。
「ほんまや。たまには、ええこと起きるわ」
ヒビが入って、集会所の壁に掛けられた、ブルーシートの隙間から漏れるキャンドルの光も悪くなかった。
「……吸っちまう方が、もったいない空気やな」
慎太が禁煙と解禁を繰り返しているタバコをしまうと、その上空に、さっきまで照らしていた夕焼けの名残が、ほんのりと残っていた。
──集会所の小さな明かりの下で、
ひとつの誕生日が、誰かの優しさで、ちゃんと祝われていた。
いのりにとって、自分の誕生日を「祝ってもらう」ことは当たり前ではありませんでした。
だからこそ、あずさと楓の想いが重なった今回の出来事は、彼女の心に強く刻まれたはずです。
そして同時に、団地で支えてくれる大人たちの存在も描けた回になったと思います。
誰かに「おめでとう」と言えること。
それはほんの一言でも、大きな力になるものです。
このエピソードが、いのりのこれからを支える小さな光になれば嬉しいです。