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第32話『女子高生が自治会長なんて…何かのラノベ?』

第32話は、前回31話の出来事を別視点で描いています。

主人公・いのりからはまったく見えていない“団地の影”に迫る回です。

団地という共同体には光と闇があって、その闇のひとつが杏という人物。

彼の人生と妄想を通して、「JK自治会長」という存在がどれだけ異質で、狂気を呼び起こすかが浮き彫りになります。

少しえぐみのある視点ですが、団地のリアリティを強調するための重要なエピソードです。

※今回は31話の別視点で書いています。


団地の117号棟。

かつて栄え、今は錆びたこの塔の一室に、男がひとり転がっていた。

品川しながわ・ロドリゲス・あんず

47歳。無職。独身男性。

かつてこの団地を率いた自治会長の息子であり、日苯人とブラジョル人のハーフ。

しかしその混血の血は、何ひとつ彼を救わなかった。

……そして、名前もまた同じだった。


杏――あんず。


母・マリアは果物好き。

特に、あんずジャムが大好物だった。

女の子だったら絶対“あんず”って名前にしようと決めていたという。

だが、生まれたのは、真っ黒で濃い顔立ちの男の子だった。

しかし母は、構わず出生届に“杏”と記入した。


「男の子でも可愛い名前でいいじゃない♡」


と、ケロッとしていた。

父・ロドリゲス・ユウイチは、ブラジョル出身の帰化人。

日本語の名前事情には疎く


「あんず? 可愛い名前だな」


と微笑んだという。

そのせいで、誰もブレーキをかけなかった。

こうして、“杏”の人生は始まった。

甘くて、柔らかくて、潰れやすい――まるでジャムのように。

団地の学校では、濃い顔立ちと名前で浮いた。


「ブラ公」


「陽キャぶっててウザイ」


「杏って名前、エロゲーのヒロインみたいでキモイ」


そんな陰口を、思春期の教室の隅で何度も聞いた。

名前を名乗るたびに笑われた。


「え、マジで?あんず?」


「おまえ、女の子かよ」


かつて“アン”とか“キョウ”など、名前を別読みして逃げようとした時期もあった。

けれど、それすら滑って、ますます“イタい奴”のレッテルを張られただけだった。

履歴書を出せば、面接官が眉をひそめる。


「あんず……さん……これは……本名……ですよね?」



その一言で、もう終わりだった。


「名前で落とされた」


とは言えないけれど、 何度も、そう感じさせられた。

“この名前の時点で、家庭に問題がある”――

そんな風に見られているとしか思えなかった。

結果、定職には一度も就けなかった。

いつの間にか、派遣、バイト、そして無職へ。

履歴書を書くことすら、嫌になっていった。

今では、布団とスマホが世界のすべてになった。

ガスコンロは油汚れで焦げつき、

電池は消耗していて一度で火がつかず、 使うたびに「カチッカチッ」と空しい音が数秒間響く。

床には惣菜のカスと、カビの生えたパックごはん。

コンビニ弁当の割り箸が片方だけ転がり、

読みかけの雑誌がうつ伏せで開かれて埃をかぶっている。

発売日の深夜入荷を狙ってコンビニへ買いに行ったくせに、最初の数ページしか読んでいない。

最近はマンガすら最後まで読みきれない。

終わらせる気力も、完走する興味も、どこにもない。

こうしてゴミ屋敷のようにゴミがあふれ、無造作に散らかっている。

そんな空間にも――存在しないものが一つだけあった。


それが希望だった。


部屋の隅では、母・品川マリア(78)がぼそりとつぶやく。



「ねぇ……そういえば、掃除当番のときに役員さんが言ってたんだけどさ」



「……ん?」



スマホ片手に、布団の中から杏が返す。


「この団地の新会長さん、今……女子高生なんだって」


その瞬間だった。

彼の脳内に、火花が散った。


ーは?


――JK?


――自治会長?


―――ここに住んでる……?


杏の中で、いまにも爆発しそうな何かが、静かに――そして確実に、目を覚ました。


「女子高生が自治会長なんて…何かのラノベ?…冗談かと思ったよ」


「へぇ…あんた、興味あるの…?」


マリアはキッチンの流しを見ながら、特に興味もなさそうに続けた。


「ユウイチが会長やってたころに契約した、あのガラポン抽選会のウォーターサーバー。まだ集会所にあったんだって。それ例の女子高生が撤去したらしいわよ。 ……てっきり、もう壊れてると思ってたわ」


「…え?あれ、まだあったんだ……」


杏は天井を見つめながら、かすかに笑った。

目の奥に、ノイズのようなイメージが浮かぶ。

父――品川・ロドリゲス・ユウイチが、自治会長をやっていたころのこと。

家族で歩いていたショッピングモールで、ラップ、洗剤当たりますよー!って抽選会やってたんだ。

そしたら型落ちのウォーターサーバーが副賞としてもらえます!って。

水代だけでOK!サーバー代は無料!ガラポンで洗剤もプレゼント! すぐに設置へ向かいます!

って、親父が契約してたっけ。

設置されるなり、最初は親父が集会所で使ってた。

でも親父が役員辞めて、入院して。

そして5年前に糖尿病が悪化して他界。

そしたら誰も重い水を入れ替えず、だれが交換して使っているんだって感じだった。

集会所の隅っこで、ゴミ置き場のように放置されたアレ。

懐かしい。



でも、マジでどうでもいい。

母も「ああ、あれね」くらいの薄さで会話は終わった。


だが杏の胸の奥で、何かが騒ぎ始めていた。


女子高生が、会長?


団地で?


俺たちみたいなクズの集まる場所で?


「…………会ってみたいな」


脳内で、完全に想像を超えた存在が、彼の中で膨らみ始めていた。

杏の脳内は、まるで暴走機関車だった。

布団にくるまり、スマホ片手に、目だけがギラギラと光っている。


―JK会長。


――団地に住んでいる。


―――清楚系か?それともギャル?


――――制服はスカート長め?短め?


―――――委員長タイプ?それとも……。


脳内で、女子高生が踊っていた。

いや、勝手に作り上げた“理想のJK会長像”が、勝手に動いていた。

すさまじいスピードで補完し、処理し、拡張されていく妄想。


やばい。


これは、やばい。


俺の人生、ここから始まるんじゃないか?


そう思ってしまった。

その時点で、すでに杏の人生はひとつの終焉を迎えていた。


--------


午後19時58分。


地域センターのロビーには、やる気のない警備員と、和太鼓の練習でトイレを往復する若者が点在していた。

その一角。

自販機横の古びた長イスに、杏は座っていた。

手に持つのは、いつ買ったかもわからない自宅から持ってきた甘い缶コーヒー。

ぬるくなったそれをちびちび飲みながら、落ち着かない視線をあちこちに飛ばす。

会議の開始は19時。

だいたい終わるまで1時間くらいだろう。

終わるころを見計らって、録画しておいた深夜アニメの視聴を切り上げてきた。

もちろん「初見だから気合いを入れて」などという気持ちは微塵もない。

彼は“出会い”を待っていた。

運命の一瞬を、逃さないように。


「……JK会長、いるよな……」


名前も顔も、役職も一切不明。

ただ、JKで、自治会長やってる――母親から聞いた情報、それだけを頼りに来た。


「きっと来る……来るんだ……」


そのときだった。

会議室の扉が、ゆっくりと開いた。

ギィ……と音を立てて古びた扉が動く。

そこから漏れる蛍光灯の光に、ひとつの影が浮かび上がる。

そして現れた。

制服のブレザーをきちんと着た少女。

まだあどけなさの残る顔立ち。

けれど、背筋はまっすぐで、歩く姿に迷いがない。

まるで何かの主人公のように、彼女は現実を歩いていた。

青く光る髪が、地域センターの安っぽい蛍光灯すら“演出”に変えてしまう。

品川・ロドリゲス・杏の世界が、止まった。

缶コーヒーが指先から滑り落ちる。

けれど、その音さえ届かない。

視界の真ん中。

すべての情報が、彼女一点に集まっていた。


「……いた。……生きてた。……現実だった」


目の奥が熱くなる。

呼吸が浅くなる。

心拍が異常なリズムを打つ。

彼女は、ほんの少し疲れた表情で歩いていた。

けれどその目は濁っていなかった。

むしろ、どこまでも澄んでいた。

そのとき、ふわっと――柔らかい香りが届いた。

カビ臭い公共施設の中で主張する、甘くて、包み込まれるような香り。

どこか懐かしく、心がほどけそうになる匂い。


「……これが……彼女の……」


そう錯覚した瞬間、すぐ後ろをすり抜けていく役員のおばちゃんの存在に気づいた。

まさかの正体。

バチバチに香水キメてきたフローラル系おばちゃんだった。

ちがう、あれはJK会長の香りじゃなかった。

騙された。


けど――


そのあとに残った、ほんのわずかな、ほんとうにわずかな、無垢な香りがあった。

ほとんどの人には気づかれない。

でも、“隣にいるやつ”にだけ、きっと届く。

そう、彼女と付き合える男にだけ。

それが俺になるかもしれないという謎の自身があった。


──そのときだった。 


ロビーの奥から、スーツ姿の男がひとり、静かに彼女へと近づいた。

口調はやわらかく、優しげな声音。

たぶん、学校関係者だ。


あの雰囲気……校長か?


杏の位置からは顔は見えない。

でも、会話だけははっきり聞こえた。


「弟さんの件、気にしておきます。新一年生は不安も多いからね」



「ありがとうございます…副校長先生。…本当に、助かります」


副校長か。

それにしても透き通った優しい声。

どこか疲れたような、でも必死で真面目に対応しようとする響き。

その“感謝の言葉”が、耳の奥に残った。


「自治会のことも、学校のことも、無理せずやれる範囲でね」



「はい……がんばります」


短い言葉なのに、胸を打った。

その声から、“いい子”って空気が伝わってくる。

誰に対しても、丁寧で、誠実で、背伸びじゃなく自然体で。


(……弟のことまで気にしてんのか……あの歳で、どんだけしっかりしてんだよ…俺なんて携帯止められて母ちゃんにLiNEすら送れなかったことあるのに…)


副校長が続ける。


「4月1日生まれのハンデを背負ってきたんだから、十分頑張ってますよ。今、何年生ですか?」


「今年の春から、2年生になりました。」


その言葉を聞いた瞬間、杏の首が僅かに動いた。

目が据わり、脳の奥でスパークが走る。


(……は? ちょ、マジかよ!?)


心の中で、何かが爆発する。


(4月1日生まれって……学年で誕生日が一番最後じゃん…。)


(そんで今、高2ってことは…最近、誕生日が来たばかりの16歳…?)


(ってか、生まれるのが1日遅かったら高1なのか!?)


(いや…それなら実質的にまだ15歳くらいじゃね?)


( いやいや…なんなら先月まで中学校行ってた子と変わんねーってことじゃん!?)


(ヤバい……たまらん……!たまらん!!)


(ってか、実質、中身まだ女子中学生のJKに自治会長なんてやらせるか?)


(普通に考えてアホだろ!)


(この団地、何考えてんだよ!)


(超絶バカじゃねーの!?)


(マジで正気じゃねーだろ!!)




杏の脳内計算機がカタカタと弾かれ高速処理をする。

でも口には出さず、そして顔がニヤつくのを止められない。

変なワクワクで腰が浮きそうになるのを必死に抑える。

地域センターの自販機前、ロビーの片隅。

47歳独身・無職のハーフ男が、 誰にも気づかれぬまま、内なる高揚をかみしめていた。

その時だった。



「いのりちゃん、おつかれ」



……男の声がした。


その“音の連なり”が、杏の耳に滑り込んできた瞬間、

世界の構造が――書き換わった。


“いのり”。


「……いのり……?」


誰かの名前。どこにでもある、ように思える音。

だけど、その二音が、自分の中で、雷のように弾けた。


いのり。


い・の・り。


意味なんか、いらない。

辞書的な定義も、関係ない。

ただその響きが、あまりに“彼女そのもの”すぎた。

透き通っていて、清らかで、どこか祈るような……

まるで、天から舞い降りてきた存在にふさわしい名前。


「いのり……天使みたいな君に、ぴったりの名前じゃないか……!」


心の奥で、鐘が鳴る音がした。

その瞬間、杏は悟った。


――これは、偶然じゃない。


――これは、啓示だ。


この団地に生きる、自分のようなクズにも一筋の光が届いたんだ。

“祈り”という名前の、奇跡の形をして。

世界のすべてが、この名前を中心に再編されていく感覚。

彼女の歩く先にだけ、意味があり、空気があり、時間がある。


その彼女が――いのりが、


あの男に、笑いかけていた。


「こうへいくんも、おつかれさま。テーブル運ぶの手伝ってくれて、すごく助かったよ」


「いやいや、いのりちゃんがケガしたら困るからね」


「ふふっ、心配してくれるんだね」


……笑っていた。


この世で一番、神聖なものが、

自分以外の誰かに――そのチャラ男に、

向けられていた。


こうへいくん?


「おいおいおい〜〜!」


さらに連絡会の会長と思われる男が茶化してくる。


「木澤ぁ、お前いつのまにそんないのりちゃんと仲良くなったんだよ〜〜!」


「いやいやいや、ちがいますって!」


「おふたりさん、アツいねぇ〜!も〜青春だな、こりゃあ!」



「ち、ちがいますからっ!!」


……でも、その声に、いのりはぷいっと顔をそらし、

ほんのり耳を赤く染めていた。

うつむいたその頬は、明らかに“まんざらでもなさそう”で。

それを見たとき――

世界が、崩壊した。

杏の中で、すべてが音を立てて崩れていった。


「……おい……俺の嫁ぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!」


この際、男の名前なんてどうだっていい…

でも彼女が誰かと並んで笑うなんて――

そんなの、見たくなかった。

ありえない。許されない。

この世界の設計ミスだ。

なぜなら、彼女は自分にとって――


“運命の光”だったから。


その名を知ってしまったがゆえに、

世界はもう、後戻りできなくなっていた。

部屋に戻るなり、杏はスマホを畳に叩きつけた。

ミシ、と床が軽く軋む。

それすら、今の彼にはどうでもよかった。


「……なんなんだよ」


声が掠れていた。

空気が重い。

部屋のすべてが灰色に見える。

ちゃぶ台代わりの折りたたみ机の上には、食いかけのチョコスナックと空のカップ麺容器。

そして、積まれているのはコンビニで買った、「神マンガ」シリーズとか言う分厚い再録系コミック。

表紙には「神展開!」「名作回再録!」「累計800万部突破!」みたいな宣伝文句がベタベタ貼られている。

中身は数年前に発行された読み切り系マンガ雑誌をそのまま印刷し直しただけの“古紙”。

ビニールに包まれていて中身は見えず、レジ横で勢いに任せて手に取るものの、

帰宅した瞬間に熱が冷め、ビニールすら剥がさず積まれていく。

本屋で単行本を揃えたほうがよっぽど安く、売ろうにも古本屋では値段もつかない、 “コスパ最悪の読み捨てマンガ”。

それでも「紙」を「神」だと信じた自分が一番の敗者。

しかも、ただの「古紙」でしかない。

まるで、杏の人生そのものだった。


でも、この不満をぶつけられるアイテムもいくつかある。

チャイニー製のパチモンリングライト。

埃まみれのコンデンサーマイク。

照明は、蛍光灯一本。


「……はぁ」


深いため息とともに、椅子にもたれかかる。

そして、ヘッドホンをつける。

いつもの、GOTUBEで生配信の投稿スタイル。

自分のチャンネル、『あんずちゃんねる』。

登録者数は――24人。

そのうち、7つは自分の捨て垢、3つは母・マリアの複垢。

残りの14人が“本物”かは、もはや確認する気もなかった。


チャンネル登録者24人。 笑えるだろ?

でもな……ゼロのやつの方がよっぽど多いんだよ。

“人生のチャンネル登録者0人”ってやつが、世の中の大多数なんだ。

何か言いたくても何も言わない、言えない、言ったら笑われる。

そう思って黙ってるやつばっかりだ。

その点、俺は違う。

俺は、晒した。

全部。

妄想も、嫉妬も、涙も、見せたんだよ。

たとえ7垢が自分で、3垢が母ちゃんだとしても、残りの14人の誰かが、“あんず”って名前を覚えてくれてたら、それだけで、俺はこの世界にいたってことになるんだ。


……だから言っとく。


今に見てろよ。

俺の考えは間違ってない。

ただ、残念なだけだ。

でもな、“残念”は、“才能がゼロ”よりはマシなんだよ。



椅子の背にもたれて、ため息をついた。


「……明日は、自治会の掃除手伝いに行くか。もしかしたら、あの子が声かけてくれるかもしれないしな。」


ただし、残念ながら明日は掃除当番の日じゃないのが余計に残念だった。

モニターの前に座ったその姿は、まるで“処刑”を待つ囚人のようだった。

だが、指は自然と、配信ボタンを押していた。


「……どうも、あんずです」


蚊の鳴くような声。小さな声で、いつもの痛々しいテンプレ自己紹介。

だけど、今日はその後の言葉がすぐに続かない。


「……信じられないと思うかもしれないけどさ…… 今日……団地で、人生がバグりました」


画面の向こうにいる視聴者に語り掛けるように続ける。


「母ちゃんがさ、“最近の自治会長は女子高生らしいよ”って言ってきたわけ。」


「最初は、は?って思ったよ。」


「そんなラノベみたいな話があるかよって。」


「なんなら寝ぼけてんのかと思った。」


「でも……気になって。……俺、行ったんだよ。地域センター。」


「……そしたらさ、マジでいたんだよ。」


目に力が入る。


「本当に、制服着たJKが自治会長やってたんだよ……!」


そこから一気に熱がこもり早口になる。


「しかもさ、その子が……やばいんだよ。カビ臭くて薄暗い会議室から天使が出てきた。

しかも、チープな黄色い蛍光灯の下で青い髪がふわっと光ってて、制服ちゃんとしてて、 姿勢もピンとしてて、なんか……空気が違ってたんだ。」


言い切ると、ふわっと力が抜けたような表情で続ける。


「まじで、“天使”って言葉しか出てこなかった。現実なのに、ラノベみたいで……団地にあんな子いるわけないって…。…もう、意味がわかんないくらい、可愛いかったんだよ……」


数秒の沈黙が続く。


「……それでさ、さっき、その子の話を小耳に挟んだんだよ。地域センターで小学校の副校長と喋っててさ。…聞こえたんだよ、その子の誕生日」


杏の目が、カメラの奥を見据える。

声が震えている。だが、抑えきれない何かがある。


「4月1日……って言ってた」


数秒の沈黙。


「しかも高2になったばっかだってさ。……わかる!?…4月1日ってさ…… 学年で一番、誕生日が遅いやつなんだよ……。つまり……つまりだよ……っ!」


カメラの前で、身を乗り出す。

指がテーブルを叩く音がマイクに響く。


「実年齢で言えば、15歳とほとんど変わんないってことじゃん!!」


カメラに充血した目がアップになる。


「 え、え? だってさ、高2になったばっかでしょ!?4月1日って……1日遅く生まれたら高1じゃん!?新入生じゃん!?」


どんどん早口になる。


「ってことはさ、もう、マジでついこの前まで中3だったのと一緒ってことじゃん……!」


鼻息が荒くなる。

声がわずかに裏返る。


「団地に住んでるただのオッサンがさ、 地域センターで……実質中3のJK自治会長に出会っちゃったんだよ……!?」


背筋を震わせながら、カメラの奥に向けて小さく囁く。


「……これ、事件でしょ…。… いや、奇跡? 神様、バグってない……?ラノベどころか…神話、だよ……」


自分の言葉に酔いながら、顔を覆うようにして震える。


「たまんねぇ……たまんねぇって…。 何なんだよ、あの子…マジでたまんねぇって…。 なんで……俺の世界に現れたんだよ……」


その姿はもう、“配信者”ではなかった。

画面の向こうには、47歳無職の男が、人生という名のバグに呑まれていく様が映っていた。

一度、言葉が止まる。

視線を落として、うつむく。


「……でもさ。そのJKの隣に、“チャラ男”がいたんだよ」


声に少しだけ棘が混じる。


「背高くて、清潔感あって、しゃべり方もうまくて…あきらかに俺と違う世界のやつ。

しかもそのチャラ男が…あのJKのことを、名前で呼んだんだよ……“◯◯ちゃん”って」


アッ!っと、気づいたように補足する。


「……名前、出さないよ?俺、そこはちゃんとしてるから。個人情報とか、晒す気はない。モラルは守る。でもさ……その名前が……完璧すぎて…。もう、聞いた瞬間に……崩れたよね、いろいろと」


コメント欄が少し動く。


maria_shina78「あんずちゃん、それはつらいね。でもそのJKちゃんは悪くないよ!」


彼は小さくうなずいて、続ける。


「そう……そのJKは、ほんとに悪くない。俺なんかが語るのもおこがましいくらい、見てるだけで良い子だってわかる。完璧で、無垢で、尊くて……ただそこにいるだけで“救い”だった。俺が勝手に好きになって、勝手にやられてるだけ。でも、泣いちゃうよ……マジで……」


目元を袖で拭って、ふっと笑う。


「悔しいけどさ……天使だったよ。可愛すぎた。あれはもう、奇跡だよ。団地に、神様が送り込んだラノベのヒロインみたいだった……」


カメラに顔を寄せる。

サムネ用の角度を調整する。


「今日は……泣き顔サムネでいきます。」


タイトルは……


「『団地にいた天使のJK自治会長がチャラ男と歩いてるのを見てしまった男の末路』で」


投稿――クリック。

そのあと、彼はぽつりとつぶやいた。


「……俺さ……自治会、入れば……あの子と仲良くなれるかな……」


「役員手伝ったり、掃除とかしたり…。…ちょっとずつでもさ……あのJKと、話せたりしないかな……」


「そしたら一緒にゴミ袋買いに行ったりとかして、隣を歩けるかな…」


「俺、思ったんだよ…。やっぱ50までには……JKの嫁が欲しいよなって……」


空気が止まる。

言葉が凍りついたように響く。

だが、彼はもう止まれなかった。

締めの挨拶もそこそこに配信を終了する。

もはや、彼の中で、あのJKはいのりは、すでにただの会長ではなくなった。

名前も、呼び名も、すでに深く刻まれていた。


……その呟きは、誰にも聞こえなかった。

けれど、確かに。


――いのりにとって、最大のピンチが迫っていた。


次の日の午後。

杏は、コンビニのフライドチキン片手に、ぼんやりとスマホの画面を見ていた。

指が止まった。


「……ん?」


GoTubeの自分の動画に表示された数字――


再生回数:234


「……え?」


一瞬、自分の目を疑う。

普段なら20回もいけば多いほう。

そのうち10は自分。

それが今、200を超えてる。しかもまだ上がってる。


「バズって……る?」


口からポロリとこぼれた言葉に、誰も反応しない。

ただ、チキンの油がじわっと指先ににじんでいた。

コメント欄を開く。


「JK、やばいなマジで」


「こういうリアル暴露系もっと見たい」



「俺も団地にいたらワンチャンあったのかな…」



「チャラ男爆発しろ」



「あんずちゃん、泣くな!」


そして──


maria_shina78 「うちの息子は本当にやさしい子です!登録よろしくお願いします!」



maririn_hotaka84 「最近のJKって本当にあざといよね(女視点)」



jun1kawamoto_75 「JKは罪。あんずちゃんは無実。」



renko_forever23 「推せる。団地の星。」


……母だった。

複垢、全開だった。

キッチンでは、品川マリア(78)がスマホ3台を並べ、投稿した動画をループ再生していた。

目の前には冷めかけた麦茶と、未読の『シルバー人材センター新聞』。

「あんずちゃん、見てなさい。お母さんがバズらせてあげるからね……!」


スマホひとつにLiNEとつにGoTube、ひとつにサクラ風SNSアカウント。

もはや母の行動力は、地下アイドルの盛り上げ運営に近かった。

その夜。玄関のチャイムが鳴る。


ピンポーン!


「こんにちは〜!今日はね、いい子が入りましたよ〜!」


そう言って現れたのは、団地内の結婚相談所勧誘員のおばちゃん。

クリアファイルを両手で持ち、玄関の外で既に資料を開きはじめている。


「39歳、歯科助手!料理上手!実家暮らしだけど貯金あり!あっという間に取られちゃうからね〜!」


マリアは柔らかい笑みで扉を開け、静かに言った。


「残念だけど、うちの杏には……もう運命の人がいるの」


「え?それって……どこの誰?」


「……ウチの自治会長よ」


「……え?」


「天使みたいな……JKの自治会長」


乾いた笑い声が、玄関の天井で反響した。

でもマリアの表情は、まるで菩薩ぼさつだった。

その頃、本人――杏はベッドの中で再生数を確認しながら呟いていた。


「……いけるかもしれない。このまま再生伸びたら……“気になる配信者”として、あのJK自治会長に話しかけられるとか……」


もしかしたら、自治会の誰かが見てて……

“あなた、自治会に興味あるんですか?”って声かけてくれるかも…。

画面の向こうに広がる、“都合のいい未来”。

みじめな50-80問題に片足を突っ込んだ団地生活が、タワマン生活に変わり、

JKの嫁を迎え入れられるかもしれない――そんな淡い期待。

それが今の彼にとって、唯一の希望だった。

……だが、この希望が“祈り”という名のもとに崩壊するのは、遠くない未来だった。



杏というキャラクターは、まさに“団地のクズ”を凝縮した存在として描きました。

名前に翻弄され、人生からこぼれ落ち、最後には妄想と配信に逃げ込む。

そんな彼が「女子高生が自治会長なんて正気じゃない」と口にすることで、作品タイトルそのものを回収する形になっています。

光の象徴であるいのりに対し、杏は影の象徴。

この対比によって「女子高生が自治会長」という物語の異常さが、より際立ったのではないかと思います。

狂気と現実、そのはざまにある団地の空気感を楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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