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第31話『ちゃんと食べられる時間があるといいよね』

新学期が始まって少し経ち、日常のリズムにも慣れてきた頃。

そんな中でふとした会話から浮かび上がるのは、子どもたちにとって切実な「給食の時間」のことです。

誰もが通る日常のひとコマを、風張家の食卓から描き始めました。

いのりがかつての自分を重ね、そして弟を思いやる姿が、皆さまの記憶や体験とどこか重なれば嬉しいです。


新学期が始まって、二週目が終わろうとしていた平日の朝。

風張家の食卓には炊きたてのご飯と、昨夜の味噌汁の残りが並べられていた。

いのりは制服の袖をまくり、味噌汁をすすっている。

その横で黙々とご飯をかき込んでいたともり。

その向かいでは、肋骨にヒビが入った父・風張よしつぐが、あまり好んでいなかった牛乳を、ゴクゴクと飲んでいる。


「今日の給食、親子丼だって。けいじ、好きよね?」


冷蔵庫に貼ってある給食の献立表を見ながら、よしつぐの隣で母・きよのが明るく言った。


「……うん……」


けいじは首をかしげたまま、テーブルの側面で箸をもって朝ごはんをつついていた。

ランドセルは玄関の横にきちんと立てかけてある。そろそろ登校の時間だった。


「どうしたの?親子丼、嫌いだったっけ?」


いのりがけいじの様子に気づいて尋ねる。

けいじは、ぽつりとつぶやいた。


「……すきだけど……さいきん……きゅうしょく…たべきれなくて……」


「え?」


「……きゅうしょく、たべるじかん、すごくみじかくて……さいきん、のこしてばっかり。ほんとはぜんぶたべたいのに……のこしちゃってるの……」


けいじは小さな声で話した。

顔を上げると、少し眉を下げて、悲しそうに笑っていた。

いのりはその顔を見て、箸を止めた。

好きなメニューを前にして、食べられない悲しさ。

時間が足りないだけで、食べたい気持ちが押し潰されてしまうなんて——。


「……私、自治会長だけど……これって、何もできない……」


いのりの胸に、どうにもならない無力感がのしかかる。

学校の決まり、時間割、文科省のカリキュラム。

それらは自治会長の立場でどうにかできるようなものじゃない。


「ともりはどう?」


ふといのりは隣で味噌汁を飲んでいる妹に話をふった。


「んー? アタシはモリモリだよ。全部食べてるし。むしろお代わりしても時間余るよ?」


「ともりは小さい時からモリモリ食べる子だったからね」



母が笑いながら言った。

いのりは思った。


(……そっか……食べる早さとか量って、ほんとに人それぞれなんだな……)


同じ1年生でも、食べるのが早い子と遅い子がいる。

好き嫌いの差もある。器用か不器用かも関係する。

けいじは、食べたい気持ちはあるのに、それを叶える時間が足りないだけ。

早食いが得意な子と同じルールで比べられ、残したことを責められてしまうこともある。


「けいじ、無理しないで。残してもいいんだよ。食べたいって思う気持ちが一番大事。……でも、ちゃんと食べられる時間があるといいよね……」


いのりはそっと目を伏せる。

けいじの言葉が、自分の昔の記憶と重なった。


(……私も、昔そうだった……)


いのりは4月1日生まれ。

学年の中で一番誕生日が遅く、もし1日遅く生まれていたら年下の学年になっていた。

つまり、同学年の4月2日生まれの子に比べると、

実質的には一年近く成長が遅れていたことになる。

当時のいのりは、小柄で、食も細く、箸もうまく使えなかった。

だから給食は、苦痛だった。

時間は短いし、全部食べられない。

それでも周囲の目を気にして無理に口に詰め込んで、結果、何度も吐きそうになった。


(……あの頃、私も本当は全部食べたかっただけなんだよね……)


「無理しなくていいよ」って。

誰かにそう言ってほしかった。

だから、けいじの気持ちは痛いほどわかる。

いのりは、そっとけいじの頭をなでた。


「けいじ。お姉ちゃんもね、小さいころは食べきれなかったんだ。……お姉ちゃん、誕生日が4月1日なの知ってるでしょ。本当は1日違ってたら、小学校に入学するとき、まだ年長さんだったかもしれないんだよ?」


けいじが驚いたようにいのりを見る。


「えっ、そうなの?」


「うん。だからね、みんなと同じにできなくても、ちゃんと気持ちがあれば大丈夫。食べたいって思ってるだけで、すごいことだよ」


それを聞いたけいじは、少しだけ安心したように小さく笑った。

いのりは、胸の奥で思う。


(……自治会長として、何もできないなんて言いたくない。できること、きっとある……)


その夜。

地域センターの会議室では、防犯連絡会の会議が開かれていた。

各号棟の自治会長、防災係、連絡会の役員たちが集まり、

地域の見回りや避難所運営に関する情報共有が行われていた。

制服姿のいのりは、真剣な表情で会議を見守っていた。

その中には、別号棟の代表として木澤滉平会長も。

彼も連絡会に防災メンバーとして出席していた。

そして会議の後半、九潮学園の副校長先生が登壇した。

学校周辺の防災管理について、地域の理解と協力をお願いするためだった。

スーツ姿の副校長は、地域の大人たちに真剣に頭を下げる。

その姿を見て、改めていのりは思った。


(……先生たちって、こんな遅い時間まで働いてるんだ……)


学校のことは、子どもたちの目に映る範囲だけじゃわからない。

夜遅くまで、地域のために動いてくれている。

先生たちもまた、地域の一員なのだと感じた。

会議が終わり、椅子と机の片付けが始まった頃——

いのりは、ふと副校長先生のほうを見つめた。


(……今なら、けいじのこと、話せるかもしれない……)


その一瞬の思いつきに、体が先に動いていた。


「お疲れ様です、副校長先生。117・119号棟の自治会長で風張いのりと申します。

弟と妹が九潮学園でお世話になっております。」


「お疲れ様です。風張会長。こちらこそ、いつもありがとうございます」


副校長はにこやかに応じた。


「……あの、突然で恐縮なんですが……実は、弟が……給食の時間のことで、悩んでいて……」


そこから、いのりはけいじの話をした。

食べたいのに食べきれない。

時間が足りなくて残してしまう。

本人も残念に思っていて、最近ずっと元気がないこと。

副校長は真剣に耳を傾け、静かに頷いた。


副校長は、静かに口を開いた。


「貴重なご意見ありがとうございます。とても大切なことです。実は、給食の時間というのは、文部科学省の教育課程の中で定められたカリキュラムに則っていて、授業の時間割もそれに基づいています。その中で、給食の準備・片づけを除くと、食事時間がおよそ25分。どうしても限られた時間になってしまうのが現状です」


「そうなんですね……」


「さらに、体育や水泳の授業の後だと、着替えの時間が必要になります。


また、授業が伸びたり、配膳の準備が遅れたりすると、さらに食べる時間が削られてしまうんです。これは、子どもたちのスピードや慣れにも関わってくることで……本当に難しい問題です」


「……はい、わかります……」


いのりは、唇をぎゅっとかんだ。

無理を承知で伝えていることはわかっている。

それでも、けいじの気持ちを考えれば黙っていられなかった。

副校長は、ふっと優しく微笑んだ。


「でも、改善の余地があることも確かです。時間割の工夫、配膳の効率化、担任の先生方への共有…。…小さなことかもしれませんが、積み重ねれば改善につながることもあると思います」


「……ありがとうございます。すみません、こんな場で……」


「いえ、学校に通う児童の保護者であり、自治会長でもあるあなたの声は、とても大きな意味があります。こうして現場の実感を伝えてくださること、本当にありがたいんです。ご弟妹にも、私から先生方に申し送りしておきますね」


「……本当に、ありがとうございます」


副校長の言葉に、いのりの胸がじんわりとあたたかくなった。

自分はただの高校生。

自治会長といっても、大人のように動けるわけじゃない。

でも、


「言ってよかった」


「伝えられてよかった」


その想いだけが、心に残った。

副校長とのやりとりを終え、ホッとした気持ちで振り返ったいのり。

そこで、目が合ったのは、木澤滉平だった。

彼はずっと見ていたようで、そっと近づいてくる。


「……お疲れ様、いのりちゃん」


「えっ……う、うん…おつかれさま…こうへいくん。」


いのりは慌てて姿勢を正す。


「さっきの、副校長先生との話。聞こえちゃってごめん。でも……なんかすごいなって思った。いのりちゃん、弟のためにあんなふうに真剣に話しててさ。しかも、ちゃんと先生の言葉も受け止めて…。なんていうか、…優しいよね。すごく」


「……え……そんなこと……ないよ……」


いのりは言葉に詰まり、目をそらす。

顔がぽっと熱くなるのが、自分でもわかった。


「昔、自分も小さいころ、給食を残して怒られて……って話。なんか、グッときたよ。そういうこと、いのりちゃん自身が経験してたから、弟の気持ちもわかるんだろうなって。それに、そういうことをちゃんと話せるのって……」


木澤は一呼吸置いて、静かに言った。


「……俺、もっと、いのりちゃんのこと知りたいなって、思った」


「っ……」


いのりの頭の中が真っ白になった。

な、なにを言ってるの、この人。


( え?え?え?えええええ!?)


わけもわからず、顔がどんどん熱くなる。

心臓の音が、やけに大きく聞こえる。


「し、しししし知るって、な、なにを!?えっ!?私のこと……!?そんな、えっ!?ええっ!?」


声が裏返り、背筋が伸びたままガチガチに固まっている。


(な、なにこの展開っ!? 私、なんか、変なこと言ったっ!? ちょっ……なんか……ドキドキが止まらないんですけどぉお!?)


木澤の言葉が、まっすぐに心の真ん中に刺さって、いのりは混乱していた。

まるで、自分の胸の中をすべて見透かされたような気分。


(や、やだ……わたし、チョロすぎ……!?)


いのりの心臓は、ひとりでに跳ねていた。

もはやニヤニヤが止まらない表情を隠すのが精一杯である。


——そこへ、ひょいと現れたのが、連絡会の会長だった。

腕を組みながら、ふたりの様子を見てニヤニヤしている。


「おおっと〜? いのりちゃん、さっきからなにやら楽しそうだね〜」


「えっ!?ち、ちがっ……!」


いのりは慌てて距離をとり、真っ赤な顔を隠すように視線をそらす。

木澤も照れながら肩をすくめた。


「おいおい、木澤ぁ~。お前ちゃっかりいのりちゃんって呼んでんのか?なかなかやるなぁ!しかも、いのりちゃんに名前まで呼ばせちゃって。おふたりさん、アツいんじゃないの~??」


連絡会会長が冷やかす。


「いのりちゃん、さっきの副校長先生との話、ちょっと横で聞かせてもらったよ。

なかなか良かったじゃん。ああいう意見こそ、ちゃんと区に届けるべきだと思うよ」


「え……区に……?」


「うん。ちょうど今度、区政協力委員会があるんだ。あそこなら、正式に自治会として意見書を提出できる。議事録にも残るし、場合によっては区長の耳にも届く。給食の時間が短い、という現場の声は貴重だからね」


「……そんな……私の話なんて……」


「バカ言うなよ。保護者としてでも、自治会長としてでも、君の言葉は、地域を代表する“ひとつの声”なんだよ。そこを勘違いしちゃいけない」


「…はい……わかりました。……やってみます!」


連絡会長は笑って頷いた。


「意見書の締め切りは地域センターに掲示が出てるから、それ見てね。こっちでもフォローするから、ちゃんと書いてくれたら提出しておくよ」


「はいっ!ありがとうございます!」


いのりの目には、力強い意志が宿っていた。

何もできないと思っていた自分にも、できることがあるかもしれない。

弟のため、みんなのため、そして未来のために——。

その夜、風張家の居間。


「いのりお姉ちゃん、おかえり〜」


けいじがふわっと笑って迎えてくれた。


「うん、ただいま。まだ起きてたの?早く寝ないと起きれなくなるよ」


「今日ね、給食ぜんぶ食べれたんだ!先生がね、『お箸が苦手でもいいから、少しずつ練習していこう』って言ってくれて。プラスチックの使い捨てスプーンくれたんだ〜。それでね、親子丼、ちゃんと食べられた!」


「ええっ!?ほんと!? すごいじゃん!!」


いのりは自然と笑顔になっていた。

けいじの嬉しそうな顔を見るだけで、心が満たされていく。


(…そっか…ちゃんと、見てくれてるんだ……先生たちも……)


自分だけが、けいじを守らなきゃと思い込んでいた。

でも、学校も、地域も、ちゃんと繋がっている。

ひとりじゃない。

みんなで、支えていくものなんだ。

いのりは、けいじの頭をくしゃっと撫でた。


「えへへ、がんばったんだ〜」


「うん、すごく偉いよ」


その夜、布団に入ったいのりは、静かに天井を見つめていた。


(……あの時、私も食べられなかった…。でも今は、誰かのために声をあげることができた……)


小さな一歩だったかもしれない。

けれど確かに、誰かのためになったこと。

その優しさが、まっすぐに伝わったと信じていい気がした。

そして心のどこかで、また、こうへいくんのまなざしを思い出して、

ふと、胸がドキッとしてしまった。


(「俺、いのりちゃんのこと…もっと知りたい…」)


あの一言…


「え…?なんで??ええ??…どういうこと!?…ちょっとまずい……うれしすぎるんだけど……!!」


布団の中で真っ赤になって口元押さえてうつむいたまま固まるいのり。


「ちがうの……そんなの……言われたことなくて……」


…ぽそっとつぶやくいのり。


「…? お姉、なんか言った?」


「へ!?…ううん…なんでもない…」


(ヤバ!心の声が漏れてた…)


焦ってそのまま布団をかぶったいのり。


(……えっ、どうしよう……顔が勝手に笑ってるんだけど……)


いのりは、ともりの隣で夜な夜なゴロゴロ転がり、もぞもぞしていた。


(……やっぱり私、チョロいのかな……)


そう思いながら、少しだけ布団をかぶった。




今回は、身近でありながら見過ごされがちな「食べる時間の大切さ」をテーマにしました。

子どもの頃に経験した小さな悩みは、大人になれば忘れてしまいがちですが、その時の本人にとっては大きなこと。

いのりが副校長先生に声を届けられたのは、自治会長としてだけでなく、ひとりの姉としての勇気だったのかもしれません。

そして、木澤くんの言葉が物語に少しずつ色を添えてきました。

次回もまた、いのりの小さな一歩を見守っていただければ幸いです。

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