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第28話『“どーもー”で終わらせる知恵』

今回は、団地で静かに広がる“政治と宗教”の影がテーマです。

自治会長のいのりが目にするのは、直接押しつけられる勧誘ではなく、日常の中にしれっと入り込んでいる「静かな浸透」。

母・きよのの対応力と、団地の現実を描いた回になります。

4月中旬の午後。

制服のまま風張いのりは、団地の階段をのぼり、自宅の玄関を開けた。


「ただいま」


帰宅した、いのりの声が部屋に響く。

春休みが明けてから2週間ほど。

新学期の慌ただしさもひと段落し、生活のリズムがようやく戻ってきた頃だ。

満開だった桜はすでに散り、道路の端には茶色くなった花びらがこびりついていた。


「おかえり。週末前って、ちょっとホッとするね」


リビングから母・きよのの声がする。

今日はパートがお休み。

洗濯物を畳んでいたらしく、エプロン姿のまま廊下を移動していた。


そのシルエットは、エプロン越しでもはっきりとわかるほどスタイルが良かった。

昔から“ダイナマイトママ”と呼ばれていたというのも、いのりはうなずける気がした。


「けいじが小学校に行くようになってから洗い物が増えたわ。靴下だけで山よ」


「お母さん、いつもありがとう」


いのりは制服の上着を脱ぎ、椅子の背にかけて冷たい麦茶を一口飲んだ。

そのとき、インターホンが鳴った。


「……はい、風張です」


玄関の小窓からそっと覗くと、117号棟の住人の草加さんと、その隣に見慣れないスーツ姿の中年男性が立っていた。

どこか営業風の雰囲気で、にこやかに笑っている。


「いのりちゃん?こんにちは。ちょっとだけ、会長さんにご挨拶をね」


ドアを開けると、草加さんが丁寧に頭を下げ、その隣の男性が名刺を差し出した。


「雛川区議の栗山と申します。92号棟に住んでおります。今度の参院選に向けて、新文明党の取り組みをご説明に──ほんのご挨拶だけでも」


名刺に印刷されたロゴと政党名を見た瞬間、いのりは察した。

この人は──あの大きな宗教法人を母体に持つ新文明党の関係者だ。

そして、草加さんもその熱心な支持者なのだろう。

団地の朝の清掃でもよく顔を合わせる、話しやすい住人のひとりだった。


「この団地、応援してくださる方が多くて、本当にありがたいです。ポスターやチラシも、もしご都合がよければ……」


選挙権のない高校2年生自治会長いのり。

だが、“自治会長”という肩書がある以上、愛想笑いだけでは済ませづらい。


「えっと……」


いのりが言葉を探していると──


「こんにちは~」


奥からきよのが現れた。

エプロン姿のまま、洗濯物を畳んでいた手を止めて、玄関へ出てきた。


「あら、お忙しい中ありがとうございます。チラシもポスターもご丁寧にどうも。そのときはまた持ってきてくださいね~」


やわらかな笑顔で、しかし一歩も踏み込ませない。

相手を立てつつ、玄関先だけで収めるその対応は見事だった。


「また改めてうかがいます。どうぞよろしくお願いします」


深々と頭を下げ、栗山区議と草加さんは満足そうに帰っていった。


「……お母さん、ありがとう」


「ふふ。“どーもー”で終わらせる知恵が一番よ」


「なんか……こういうの、あるんだね」


「うん。でもね、引っ越す前に豐島区の団地にいたときもよくあったわよ?」


「え?そうなの?知らなかった」


きよのはけいじのズボンをたたみながら言った。


「今の団地のこともね、パート先で話題になるの。物流関係だから、団地とか地域の情報がけっこう入ってくるのよ。

これは噂だけど……政党の力で“住まいに困ってる党員”を推薦して団地に入れてあげるケースがあるらしいの」


「……そんなのアリなの?」


「表向きは普通の申請。でも、裏では新文明党の議員さんが“この人入れてあげて”って掛け合う。で、入った人は、お返しに政党の活動をがんばる──って流れよね」


少し間を置いて、きよのはふと付け加えた。


「新文明党って、元は“旧文明会”って名前だったのよ。昔は宗教色がもっと前に出てたけど、途中から政党として名前を変えて、“新しい時代の政治”って言い出したの。

でも、やってることはあんまり変わってないんじゃないかなって、私は思ってる」


いのりは、背筋が少し冷たくなった気がした。


「政党の勢力図が、公社にまで影響するなんて……そんなの……」


「…それだけ力のある政党ってことね。…なんならさ、団地の敷地に植わってるあの植物。あれ、政党のシンボルと同じのよ。気づいてた?やたら手入れが行き届いてるじゃない。たぶん、そういうことなんだろうなって、私は思ってる」


「え……ほんとに?」


「真相はわからない。でも、そうやって根を張るってことじゃない?」


静かに、気づかぬうちに広がっていくもの。

それが“組織”なのだと感じさせられた。


「父さんも言ってたわよ。美容師時代、お客さんに新文明党を“応援してね”って言われたら、“ありがとーございますぅ”って、ポスターを受け取って、あとは流すだけだって」


「うまいね、それ」


「受け取って、貼らない。それで充分」


──


夕方。

いのりは学童へけいじを迎えに行った。

今日は妹のともりが学校帰りに友達と約束があるらしく、代わりに行くことになった。


「いのりねえちゃん!今日スーパー行くんでしょ?」


「うん、お母さんにお使い頼まれてる」


「アイスは!?」


「メモに書いてあったらね」


ランドセルを自宅に置いてから、2人で団地の階段を降りて、近所のスーパーへ向かう。

日が少しずつ長くなってきた春の夕方。風はまだ少し肌寒かった。


途中、とある住人さんの玄関先で、よく顔を合わせる住人たちが井戸端会議をしていた。

朝の清掃でも一緒になる、古くから団地に暮らしている人たちだ。


「こんにちはー」


いのりは自治会長らしく、自然に挨拶をして通り過ぎようとした。

その瞬間──


パッと開いた玄関の奥に、大きな政党ポスターが貼られているのが見えた。

党首の顔とキャッチコピーが、真っ直ぐにいのりの目に入ってきた。

ポスターに掲げられていた新文明党の文字が大きく踊っている。


(……あ、この家も)


意外だった。

静かで上品な印象のある家庭だったからこそ、少し驚いた。


「どうしたの?」


「ううん、なんでもないよ」


けいじの手を引いて歩き出す。

もしかして、さっき楽しそうに話していた住人たち……

みんな支持者同士だったのかもしれない。


そう考えると、団地内には、思っていた以上にその政党の支持者が暮らしている可能性が見えてきた。

ポスターを貼ってる家は、目につかないだけで意外と多いのかもしれない。

団地の中で、そういう“静かな浸透”が起きているのだと、いのりはようやく実感した。


とにかく、波風を立てずに暮らすこと。

自治会長として、平等に、公平に。

そして、自治会に宗教や政治を持ち込ませないこと。


そう、いのりは心のなかで強く決めた。


スーパーの自動ドアが音を立てて開いた。

そして、いのりは一歩前へと進んだ。




団地は一つの小さな社会。

その中には、表からは見えにくい力やつながりが存在します。

今回は、新文明党という架空の政党を通して、その“根の張り方”を描きました。

いのりが学んだ「波風を立てず、しかし自治会に政治や宗教を持ち込ませない」という姿勢は、今後の物語にも関わってくるはずです。



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