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第27話『手に職があるって、良いよね』

今日は、ともりが初めての職場見学に出かけるお話です。

選んだ職業は「美容師」。

憧れと現実、その両方を一度に味わう、ちょっと重めだけど大事な回になっています。

父・よしつぐの過去や、つぐみ、樹理、それぞれの想いも絡んで、職業観のリアルな一面が見えるかもしれません。


平日の午前11時少し前。

九潮学園から歩いて出発したともりは、少しだけそわそわしていた。

中1になったばかりのともりにとって、初めての課外活動。

それぞれの生徒が興味のある職業を選び、実際の現場を見学するという授業の一環だった。

ともりが選んだのは、美容師。

見学先の美容室は、姉の髪を切っている人がいて、かつて父の後輩だった元同僚が働いている店でもある。

同じ希望を出した友人達と一緒に、敗島まけしまのショッピングモールへ向かった。


「……ほんとに見学、できるんだ」


そう呟いたともりの目の前にあったのは、ウィア犬井のモール内にあるテナント美容室『ワンツーカット』。

ともりがこの1年間通っていた美容室だった。

引っ越してくるまでは、父・よしつぐが自宅でカットしてくれていた。


「ともりの髪はお父さんがずっと担当するんだ」


なんて言っていたけど、美容師を辞めたのと同時に、ともりの散髪もぱったりやめてしまった。

理由は、詳しくは聞いていない。

隣で訪問予定時間の11時になる瞬間をスマホで確認している友達が口を開いた。


「美容師ってさ、なんかカッコよくない? 自分で稼げて、服とかもおしゃれだし」


「うん……なんか自由そうだし、いいよね」


「予約とかも自分で調整できるでしょ? 好きな時に働けるって最高じゃん」


「たしかに……!」


友達数人と口にしたその期待は、どこか浮ついた“キラキラしたイメージ”にすぎなかった。

たぶん楽そう、楽しそう、稼げそう——

そんな、漠然とした「かっこいい職業」への幻想。


店内に入り、手動ボタンでガラス扉を開けると、受付カウンターから出てきたのは、やわらかい雰囲気の女性だった。


「あら、こんにちは、ともりちゃん。お久しぶりだね」


「……あ、つぐみさん! 久しぶりです」


ともりは姉の髪を担当している美容師・つぐみと軽く挨拶を交わす。

つぐみはいのりに大して特別な妹感情を抱いているようだけど、ともりに対してはそこまでじゃないらしい。

なんか姉のいのりに対して、つぐみの鼻息が荒い気がするのを、中学生の目線でなんとなく感じている。


「みんな、今日はゆっくり見ていってね。ともりちゃん、お父さんにもよろしくって伝えておいて」


ふわっと目を細めるつぐみの仕草に、胸の奥がくすぐったくなる。

案内された待合席。

九潮学園の制服姿の生徒たちは緊張気味に椅子に座り、店内を見渡す。

ともりの目に入ったのは、ガラス越しのセット面で若手美容師が客と笑い合う姿だった。


「ふふ、前髪の長さ、今日はどうします?」


「おまかせで!」


「じゃあ、ちょっと攻めちゃおっかな〜♪」


——その美容師は、上田樹理。

ともりの現在の担当でもある。

明るく美人でスタイルもよく、モール内でも一番人気の美容師。

ともりも最初は


「すごいお姉さんだ……」


と緊張したのを覚えている。


友達が小声でつぶやいた。


「めっちゃ楽しそうじゃん……自由な仕事って感じ」


ともりも、こくんと頷いた。


「……なんか、きらきらしてるよね」


——この時点では、まだ“現実の影”は見えていなかった。

店の奥のほうにあるセット面では、中年男性の美容師がお客さんのカットをしていた。


「——ずっといつまでも働けて羨ましいわよねぇ。定年が無いから、安心じゃない」


白髪の女性客が、笑いながら塩見店長に話しかけていた。


「……まぁ、そうっすね……」


塩見は手を止めず、クシを片手に静かに笑った。


「やっぱ手に職よね。技術があるから死ぬまで働けるって幸せよ」


「いや~、死ぬまで働くとかマジで無理っすわ。本当は、今すぐにでも引退したいんですけどね」


「ええっ、そんな〜冗談ばっかり」


「本気ですよ。……でも、現実的には無理ですから。年金だけで生活できるって、正直うらやましいですね。僕も一度でいいから、仕事のことを考えずにダラダラ暮らしてみたいです。奥様みたいに高卒ですぐ結婚して、パートすら出なくて良い専業主婦だったこと、一度もないので。国が死ぬまで食わせてくれるなら喜んで今日にも定年退職しますよ」


「主婦なんてつまんないわよ。家にいたってやることないし退屈よ。仕事してた方が暇つぶしになるし、手に職あると将来も安泰じゃない」


「…はあ。自分はいくらでも自宅で時間をつぶせる自信があるんですけどね。昼間からサスペンスの再放送観て、おやつ食べながらゴロゴロ昼寝して、目覚めたらテレビゲームでもしながら、毎日自由に過ごしたいですよ。」


白髪頭の高齢女性客は楽しそうに大笑いしていた。

その瞬間、相槌を打ちながら口元で笑ってみせる彼の目だけが笑っていなかった。

ともりは、それをしっかり見てしまった。


午前11時半ごろ。

ひと通りの客が片づき、少しだけ店内に静けさが戻ったタイミングで、塩見店長がともりたちの前に来た。

タオルで手を拭きながら、ゆっくり口を開く。


「そろそろ学校戻って給食かな? その前に、ちょっと話だけさせてもらってもいい?」


「あ、はい。」


後ろの待機席で、塩見が腕を組んで生徒達に話し出す。


「聞こえてたかもしれないけど、“手に職があるって、良いよね”って言われること、よくあるんだ。でも実際には、そんなに良いもんじゃないよ」


「え……?」


「自由に見えて、全部が自己責任。文句を言う人はいないけど、守ってくれる人もいない。そのくせ、ずっと働けるだろって行政に言われて、高齢になっても生活保護すら貰えず、腰をいたわりながら老体に鞭打って足りない年金を穴埋めしながら、老後の余生も過ごせずに働き続ける。……こんな人生、歩んでみたいかい?」


「……」


「美容師って、上手くなるまで何年もかかる。上手くなっても、クレームひとつでネットに口コミ書き込まれて、これまでの評判が全部崩れるんだ。誹謗中傷を書き込まれて精神もへし折られることだってある。そこまでやって新卒大学生の初任給と同じ金額がやっと稼げるかなってくらいだ。しかも昇給とかボーナスとか退職金なんてほとんどない。だったらちゃんと勉強して、普通に一般企業に入って、給料とボーナスをしっかり貰って、大型連休で旅行したり実家に帰省する。そんで結婚したらマイホーム買って産前産後休暇と育児休暇をしっかり貰って大事に子供を育てるほうが、よっぽど幸せじゃないかって思うよ」


「美容師なんかになったら、家族を養うにも苦労する。金も時間もない。子どもなんて自分ひとりの手でなんか育てられん。土日祝日を休んでるようじゃ、接客サービス業として客からも見放される。」


ともりはごくりと喉を鳴らす。


「辞めたくなったこと、ないんですか?」


ともりが素直にたずねた。


「そんなの毎日思ってるよ。でも辞めると何も残らない。……それでも、やってる。手に職だけど、逆に言えばそれしかできないからね。学歴もないから美容師辞めたら高卒と一緒。家族を食わせて生きていくためにやるしかないんだよ。」


その言葉は、どこか遠くを見ているようだった。


「独立したいって思ったことはありますか?」


他の生徒が事前に用意していた質問をする。


「あるよ。っていうか独立してけど、店を潰して廃業したんだ。従業員ともうまくいかなくて、店がぐちゃぐちゃになってね。社長が一番孤独で大変だよ。休みもないし、家族との時間も犠牲にする。従業員に気も使うし、売り上げが少なければ、自分の給料を減らしてでも従業員の給料を優先して絶対に払わなきゃいけない。税金だってたっぷり取られる。雇われている会社員の身分が一番気楽さ」


「……じゃあ、また独立とか復帰するのは難しいんですか?」


「まず戻ってこれないよ。そんな簡単に。数年離れたら、もう指名客は消える。カムバックするなら、また一から築き直し。“前みたいに切らせてください”って頭下げるしかない」


「……」


「それが嫌なら、カット専門店に行くしかない。会話もない、ただ髪を切るだけの回転仕事。しかも、低価格で大量にこなさなきゃいけない薄利多売方式だ。つまり——“安い値段で、あほみたいに体力使って働け”ってなる。工場のロボット状態さ。」


「……うわ……」


「そんな環境で、子ども育てて、家庭支えて、笑って生きていけるか?——まぁ、よほど強くなきゃ無理だな」


そのとき…


「いらっしゃい、ともりちゃん」


後ろから声をかけたのは、樹理だった。


「こっちこっち、ちょっと話そ」


待合の隅に移動し、二人並んで腰を下ろす。

ともりの友達にも聞かれたくない話をするのだろうか?


友達は塩見店長と話を続け、その間に入るようにつぐみ、そして樹理とともりが隣り合う構図になった。

他の従業員が来店した客を担当している様子を九潮学園の生徒が眺めながら、質疑応答の時間が続いていた。


「覚えてる? 最初に来たとき、自分で切っちゃった前髪、ジグザグでさ」


「う……覚えてます……」


ともりが照れると、樹理はふっと笑った。

しばらく沈黙が続いて、ぽつりとつぶやく。


「樹理さんって、どうして美容師になったんですか?」


「…私…好きな人がいてね。その大好きな人が他の女の子に髪触られてるの見たくなくて」


「……えっ」


「だから、美容師になったの。“自分しか触れられない存在になりたかった”って、思った」


——とても重い言葉だった。


「でも、途中で大変だなって思ったことはないんですか?辞めたいとか」


「大変なことはいっぱいあったよ。上手くいかなくて折れそうになったこともあった。でも辞めたいと思ったことは無かったかな。だって絶対にその人の髪を担当するんだって決めてたから」


ともりは、樹理の強い覚悟に、何も言えなかった。

そんな2人のやり取りを見ていた、つぐみがふと口を挟む。


「……樹理は入社したときから強い子だったよね。覚悟があるっていうか……独占欲が強いって言った方が近いかもだけどね」


他の生徒の質問を受けながら、ともりに聞こえるように補足をする。

とても視野が広く、良く周囲が見えているのは美容師ならではかもしれない。


「えへへ。たぶん、そのせいで病みがちなんだけどね、私」


「…そんなことないです。…樹理さんはとても素敵な女性だと思います」


ともりの嘘偽りない瞳と言葉に、樹理は目を丸くする。


「ともりちゃん、ありがとう」


すると、つぐみがふと口を挟んだ。


「そういえば、ともりちゃん、知ってる? お父さん…、よしつぐさんが美容師やめた理由」


「……いえ、特に。なんか、急に……やめたって聞いただけで」


つぐみは言葉を選びながら話し出す。


「よしつぐさん、ある日ね。暴れて動きまくるお子様客の耳を、ほんの少しだけ傷つけちゃったの」


「!」


「大きなケガじゃなかったけど……その日から、手が震えるようになった。“もう手が動かない…切れない”って言ってた」


「つまりトラウマですか?」


「特定の動きができなくなる症状だから…イップス…って言ったりもするらしいよ。でも精神的なブレーキっていう意味では一緒かもね。」


樹理が難しい言葉で説明する。


「実は私も一度、同じようなことがあってね。カットの途中で手が止まっちゃったの」


「…え…つぐみさんも?」


「そう。でも、子どもって動くじゃん? でも親は“丁寧に切ってください”って当然言う。オーナーは“やって差し上げろ”って圧をかける。だから…無理だよね」


「……うん、そう思います…」


「でも…。それでも美容師って……やってる人は、やってる。好きだから、守りたくて、続けてる。……不思議な仕事だよ。私も一度美容師を辞めて離れたんだけど…、結局やりたくなって戻ってきた」


ともりは黙って聞いていた。


正午すぎ。

見学を終えたともりたちは店をあとにして、学校へ戻る道を歩いた。

ともりの胸の中には、言葉にできない重さが残っていた。

これから学校で給食が待っているけど、いつもの食欲はそこまでなかった。


夕方。

学校帰り、団地の階段をのぼるともりの表情は、朝とは違っていた。

玄関で靴を脱ぎながら、小さくつぶやく。


「…お姉ちゃん…つぐみさんから、お父さんのこと、聞いたよ」


リビングのソファで、同じく帰宅したばかりのいのりが、自治会長連絡会のスケジュール表を眺めながらゆっくり振り返る。


「……そっか」


「お父さん、やっぱり……たいへんだったんだね」


「そうだね。でも、だからって美容師がダメってことじゃないと思うよ」


ともりは頷いた。


「うん……だから、ちゃんと考える。自分で、ちゃんと」


【レポート提出用紙:風張ともり】


——今回、美容室の職場見学をして、自分が知らなかったたくさんのことを知りました。

最初はただ「カッコよさそう」「自由そう」と思っていたけど、実際にはとても大変で、責任が重くて、努力も必要な仕事だと感じました。

お父さんが美容師をやめた理由も、美容師のつぐみさんから聞いて、少しだけ理解できました。

私は、今すぐ美容師になりたいとは思いません。

でも、いつか本当にやってみたいと思えたときに、ちゃんと自分の頭で考えて決められるようにしたいです。

それまで、しっかり勉強します。

——今回の経験は、その第一歩になりました。




「キラキラした仕事」って、外から見ると本当に魅力的に映ります。

でも、中に入ってみると想像もしていなかった現実や覚悟が待っている。

今回はともりが、その入口に立って初めて知った“重み”を描きました。

それでも、未来を否定せず、自分で考えて選ぶための一歩にする——。

こういう前向きさは、どの職業を目指すにしても大切だと思います。

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