第23話『でも気になるんでしょ?』
日曜の夜。
ジム帰りのいのりを待っていたのは、
肉じゃがの香りと、少し騒がしい家族の詮索だった。
ただ笑っただけのはずなのに。
ただ話しただけのつもりなのに。
どうしてこんなに、顔が熱くなるんだろう。
本人は気づかないまま、
誰かが気づいて、まわりがざわつく。
そんな夜の風張家です。
日曜の夜。
夕飯の肉じゃがの香りが、ゆるく部屋を包んでいた。
台所では母・きよのが台拭き片手に夕食の支度を終え、一段落したところ。
リビングには、いつもの家族。
暖かい食卓。
なのに、どこか空気が違う。
いのりは、サラダをつまみながらどこか遠くを眺めていた。
いつも通り、のはずなのに。
なんとなく口元が緩い。
ふわっと微笑んでいる。
なんだか視界がカラフルで明るい。
機嫌がいいような、なにか考えごとをしているような。
母・きよのが、首をかしげた。
「いのり?」
「え?」
「ジム、どうだったの?」
「あ、うん。すごくきれいで、マシンもそろってて。職員さんも親切で……」
そこまで話して、ふっと笑った。
「なんか……懐かしい場所だったっていうか、落ち着いた」
きよのの目が、細くなる。
なにかある。
ほぼ確信レベルの母親の勘。
そのとき、小1の弟・けいじが肉じゃがを頬張りながら顔を上げた。
「えー、そこってさー、こうへいくんがいたとこー?」
「えっ?」
時が止まった。
「けいじ、それどういうこと?」
中1の妹・ともりがすかさず口を挟む。
「だからー。いのりねーちゃんが言ってたじゃん。ニコニコしながら『こうへいくん』って」
「え……!? 言ってないし!」
「ううん!さっき言ってたもん!こうへいくんとジムに行ってきたって」
——それは、私が自宅に帰ってきたとき。
チンパン系小学生のけいじに
「いのりねーちゃん、どこ行ってきたの?ジムってなに?どんなところなの?誰がいるの?ねぇねぇ?誰と行ってきたの?」
と、マシンガントークを浴びせられ、
うるさくて適当にあしらおうとして、盛大に口を滑らせた記憶が……。
てか、覚えてるんかい。
このチンパンジー、記憶力いいのかよ。
あなどれん。
「……」
「……」
「……っっっ!!」
家族の視線が、いのりに集中する。
「ねぇ、その“こうへいくん”って誰?」
ともりの目が光った。
いのりはおろおろしながら、フォークを握ったまま口を動かす。
「ち、ちがうの!そんなんじゃなくて!あの、えっと……他の号棟の自治会長の人で……たまたま!」
「……あー!」
ともりが手を叩いた。
「昨日の干潟で会った、あの大学生ボランティア!たしか“こうへい先生”って呼ばれてた!あの人でしょ!」
「ちょ…ちが……ちがわない……けど!」
「うわ〜、下の名前で呼んでるんだ……いつの間に!」
「いや、それはその……向こうが“いのりちゃん”って呼ぶから、対等に……!」
「……」
「……」
きよのが、静かにお茶を啜った。
「へぇ〜。なるほどね」
「な、なにが……?」
「つまり、“いのりちゃん”って呼ばれて、年上の大学生に“こうへいくん”って返してるわけよね?」
「いやでも……」
「彼、どこの大学なの?」
「えっと……東亰海洋大学、って言ってた……」
「あら、国立じゃない!合格した子ならちゃんとしてるわよ!将来どうするって?」
「一応、雛川区で教員志望って聞いたよ。理科の先生だって」
「あなた!公務員よ、公務員!」
そのとき父・よしつぐが、まったく反応しないことに気づいた。
「ちょ、ちょっと待ってってば!」
きよのが前のめりで言った。
「むしろいのり。行き遅れる前に、早く嫁に貰っていただけた方がいいわ。優良物件はね、今日にも市場から消えるのよ!」
「ちょ…不動産じゃないんだから!!」
「いやいや、パート先じゃそうよ?最近の若い子、良い子ほどすぐ売れるんだから!」
「や、やめて……!」
その瞬間だった。
「ぐふっ……っっ」
父・よしつぐが、箸を落とし、椅子からずるっと滑り落ちた。
「なぁ……こうへいくんって誰だよおおおおおおおお!!」
盛大に白目を剥いて、床で泡を吹いた。
「お父さん!?ちょ、だいじょぶ!?」
しかしきよのは一歩も動かず、腕を組んで言い放った。
「あなた、言っとくけどね。あなたが私を妊娠させたの、私が19歳のときよ?
私の父…、いのりのおじいちゃんが白目むいて寝込んだの、覚えてる?」
「ぐ、ぐはあ……う……それは……」
「人のこと言えないのよ。白目むいて、泡吹いて、寝込んで……って、まるで今のあなただわね」
「……ギャフッ」
「私がいのりを妊娠したときみたいに、いのりが妊娠してきたらどうするの?あなた、おじいちゃんよ!白目を剥いてる場合じゃないわ!」
「妊娠とか言わないでぇええええ!」
いのりは顔を真っ赤にして、クッションに顔をうずめた。
「ちょっと!そんなんじゃない!!彼氏とかじゃないし!!」
ともりが、ニヤリと笑う。
「でも気になるんでしょ?」
「な、なんで……?」
「だって、お姉ってば。さっきから顔、ツヤッツヤだし。お肌の調子めっちゃいいし。たぶん、恋愛ホルモンじゃない?」
「そんなの、ないし!!もう!!」
真っ赤になるいのりを見て、きよのがふふっと微笑む。
「あら、いのりってば。ずいぶんチョロいわね。気をつけなさいよ。わかりやすすぎ」
ぎゃーぎゃー叫ぶいのりの横で、けいじが唐突につぶやいた。
「こうへいせんせー、やさしかったもん。ひがたで、僕のこと、頭なでてくれたー」
いのりは、ちょっとだけ目を細めた。
「…うん…やさしいよね、こうへいくん」
「しかも、かっこいいよね。お姉ちゃん、けっこうタイプでしょ?」
「え!?…いや、なんか…その。かっこいいとは思うけど…向こうもモテそうだし、私なんか眼中ないっていうか…って、ああああ!」
完全にともりに乗せられて、さらに口を滑らせるいのり。
顔がりんごのように真っ赤になる。
そしてまた、床の父が爆発した。
「ぐはぁ!こうへいくんって言うなああああ!!」
「あらあら。もうすっかり夢中じゃない。いのりってば、こんなにチョロかったのね」
きよのは満足げに微笑む。
よしつぐは、そっと老け込んだ。
風張家の夜は、しばらく騒がしいままだった。
今回は、日常の中にほんの少しだけ揺らぎが生まれるお話でした。
本人はまだ、何かをはっきりとは認めていません。
けれど、表情や声色、仕草のひとつひとつに、何かがにじみ出てきている気がします。
たぶん、今はまだその正体に名前なんていらない。
ただの出来事のひとつかもしれないし、ちょっとしたきっかけだっただけかもしれない。
でももしよければ――これからのいのりの変化を、そっと見守ってやってください。