第22話『この場所、なんか懐かしい』
いつもご覧いただきありがとうございます。
今回は、風張いのりがとある「懐かしい場所」を訪れます。
そこはかつて学校だった場所。
今は地域の運動施設として生まれ変わったその空間で、思いがけず“ある人”と再会します。
淡くて、でも確かな心の揺れ。
そんな春の午後のひとときを、お楽しみいただけたら嬉しいです。
「へぇ〜……こんなとこ、あったんだ……」
日曜の午後。
いのりは風張家の近くにある古い校舎の前に立っていた。
引っ越してきてから初めて訪れる公共施設。
足を踏み入れるのも、初めてだった。
建物の外観は、どこか懐かしい匂いのする鉄筋コンクリートの校舎。
でも入り口の横にはピカピカのステンレス製の立て看板があって、こう書かれている。
> 『地域共用型運動施設 旧・九潮南小学校体育館』
フィットネスジム・音楽室・地域会議室など複合利用中
※地域モニター期間中のため、日曜のみ開放中
母から
「新しいジムができたみたいだから、どんな感じか見てきて」
と頼まれて、軽い気持ちでやってきた。
自治会長として視察の意味合いも込めて。
でも中に入ると、その印象は大きく変わる。
床はピカピカに磨かれ、壁もきれいに塗り直されていた。
最新のトレーニングマシンが並ぶ体育館の中には、数人の住民が運動をしている。
でも、日曜の午後なのに意外と静かだった。
地域センターの若い職員さんが
「風張自治会長ですね?」
と挨拶をしてくれた。
話してみると、日曜日だけど今日は勤務日で、後日改めて代休をもらうらしい。
「日曜のほうが地域の人が利用しやすいから」
と言っていた。
それでも──
「かなり空いてる……。まだ知名度ないのかな……?」
そんな独り言を口にしながら見ていると、背後から声が聞こえた。
「やっほ、いのりちゃん?」
聞き覚えのあるチャラい声だった。
振り向くと、汗を拭きながら木澤洸平がラフなジャージ姿で立っていた。
「こうへいくん……?」
「会えると思ってなかったからびっくりした。ジムの視察?オープン記念の見学かな」
「うん、なんかお母さんに“使えそうか見てきて”って言われて……」
「ああ、わかる。うちも母さんに頼まれた(笑)それで筋トレがてら来てみたんだよね」
木澤はにこっと笑うと、飲んでいたペットボトルの水を一口飲んで、いのりを見た。
「この校舎さ、俺が小学生のとき通ってた学校なんだよ。……懐かしいな」
「えっ? ここ?」
「うん、九潮南小。俺が3年生のときに統廃合されて、今の九潮学園に全部まとまった。でもさ、やっぱこの建物、思い出あってさ」
いのりは何かを感じて、小さくうなずいた。
「よかったら、ちょっと案内しようか?」
***
誰もいない古い廊下を歩く。
どこか湿っぽいコンクリートと、床の上に塗られたワックスのような匂いが残っている。
地域センターの名前が入ったスリッパで歩くたびに、ペタペタと2人の足音が校舎に響いた。
「ここ、図書室だった場所だよ。今は防災用の備蓄倉庫になってるけど、俺、昔ここで“海の図鑑”読むのが好きだったんだ」
「……小学生の時から?」
「うん。ウミガメの産卵とか、サンゴの白化とか。意味はよくわかってなかったけど、海って不思議でさ」
「……なんか、意外」
「え、また?」
「ううん。なんか、温かい」
木澤は照れくさそうに笑った。
音楽室には、今も電子ピアノと数台の椅子が残っていた。
地域の音楽会でたまに使われるらしい。
外の窓の向こうには、桜の花びらがゆっくりと舞っていた。
満開を過ぎて、静かに散り始めているその姿は、どこかさみしくて、美しかった。
「この場所、なんか懐かしい。小学校って、こうやって形を変えて生き続けていくんだね。」
「そう。忘れられたくないって思う。子どもたちがいなくなっても、ここに何かが残ってるなら、誰かの記憶になるかもしれない。……俺、この土地を守りたいって思ってる」
木澤の横顔が、ちょっと遠くを見ていた。
その言葉が胸にすっと入ってきて、いのりは小さく深呼吸した。
「……ねぇ、こうへいくん」
「ん?」
「こうやって話してると……なんか、落ち着く」
「え?」
「ううん、なんか、ね。……私、人と話すの得意じゃないし、変に意識しちゃってうまく話せないこと多くて。でもこうへいくんとは……自然っていうか」
「それ、うれしいよ」
木澤が微笑む。
「……こんなふうに誰かと歩くのって、あんまりないから」
「俺もだよ。高校生とこんなふうに話すの、変な感じ。でも……なんか安心するんだよね、いのりちゃんとは。」
しばらく黙って並んで歩いたあと、木澤がふといのりを見た。
「ねぇ、フィットネスマシン、ちょっと試してみる?」
***
トレーニングルームで、いのりはウエストをひねるタイプのストレッチ器具に座っていた。
「うわ、これ、地味にきついかも……!」
「いい感じで効くよね(笑)」
木澤はベンチプレスの軽い重量を持ち上げながら、チラチラといのりをケガさせないようにと注意して見ていた。
汗ばんだ頬。真剣な顔。集中してるときのまっすぐな目。
「……ほんと真面目だね、いのりちゃん」
「えっ、そう?」
「昨日も思った。干潟のときも、ちゃんと子どもたちに目を配ってたし」
「……なんか、褒められるの慣れてないから、恥ずかしい」
いのりは少し俯いて笑った。
「でも……なんかね。こういうの、いいなって思った」
「こういうの?」
「こうへいくんと、話してる時間」
いのりは自分でも、どうしてそんな言葉を言ったのか、わからなかった。
でも口にした瞬間、心が少しだけあたたかくなった。
「……じゃあ、また来る?」
「え?」
「来週も、日曜の午後。ここでフィットネス。予定が合えば、一緒に」
「……うん」
いのりは頷いた。
それが「デート」かどうかなんて、まだわからない。
でもその瞬間、ほんの少しだけ、なにかが芽生えた気がした。
帰り道、いのりはこっそり小さくつぶやいた。
「こうへいくんって、なんか……不思議」
そして胸の中で、まだ名前のない気持ちがふわりと膨らんだ。
それがなんなのか、気づくのは、もう少し先のことだった。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
今回は、「静かな再会」と「少しだけ進むふたりの距離」をテーマに書きました。
小学校の跡地にあるジム、という設定も、現代の地域の変化や記憶の継承を描きたくて選んだ背景です。
いのりの青春は、まだ始まったばかり。
名前のない気持ちに戸惑いながらも、一歩ずつ前に進んでいく姿を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。