第21話『大人になるって、こういうことなのかな』
こんにちは。いつも読んでくださってありがとうございます。
今回は、春のやわらかな風に誘われて、風張家のきょうだいが“干潟のイベント”に出かけます。
ちょっと泥まみれ、でもどこか心が温かくなるような、そんな一日が描けていたらうれしいです。
制服でもなく、自治会長でもなく、ただの一人の女の子として。
いのりにとって少しだけ特別な春の週末、どうぞお楽しみください。
それでは、第21話をどうぞ。
「春の干潟イベント……?」
日差しのやわらかい春の土曜、いのりはけいじの手を引きながら団地を出た。
干潟って、潮が引くと現れる、ぬるっとした泥の海辺。
カニとかヤドカリとか、小さな生き物たちの隠れ家みたいな場所。
都内にもこんな場所があるなんて、ちょっと意外だった。
風張家が引っ越してきてから、初めての干潟イベントにけいじが大はしゃぎ。
「行きたい行きたい! カニさわりたいー!」
けいじのテンションはすでにマックス。
その隣、ともりがいつもより無表情のまま、でもスマホをポケットにしまって歩いていた。
「……子ども向けイベントって、意外とガチで面白かったりするよね。」
と、ついこの間まで小学生のともり。
「ともり、やっぱ来てくれてよかった。いつも冷めてるのに、こういうのちゃんと付き合ってくれるとこ好き」
「うるさい。たまには泥でも踏む」
ちょっとはにかむともり。
いのりはスマホで会場を確認する。
> 『こうへい先生と学ぼう! 九潮干潟ふれあい探検隊』 主催:雛川区環境保護協会 協力:東亰海洋大学・地域ボランティア 案内役:木澤滉平(東亰海洋大学在籍)
「え……木澤会長、ここに来るの……?」
ついこの前、自治会長連絡会でいのりに軽く声をかけてきたあの青年自治会長。 見た目はちょっとチャラくて、男性アイドルグループ・キンプルの水瀬レンみたいな雰囲気。 でも周囲からの信頼は厚い。
いのりが入ってくるまでは、彼が最年少だった。
スマホのイベント写真には、子どもたちに囲まれて笑う彼の姿が写っている。
ちょっとチャラくて軽そうな雰囲気なのに、なぜか自然と人が集まる。
いのりはつい、写真の中のその笑顔をじっと見つめてしまった。
***
九潮干潟には、すでに家族連れが大勢集まっていた。
風の匂いがほんのり磯っぽい。
潮が引いたばかりの砂地に、ぬるっとした海水と小さな生き物がうごめく。
埋め立てられた人工島の人工的な干潟。
でもそこにはちゃんと自然の生き物が生活をしていた。
そんな中でひときわ目立っていたのは、黒いキャップを逆向きにかぶった青年。
ラッシュガードの袖をまくり、日焼けした前腕には程よく筋肉がついていて、でも全身がどこか細身で整っていた。
ムダ毛の処理も丁寧で、ハーフパンツから伸びる脚には無駄がない。
それでいて全体にチャラいオーラを保っていて、まるでアイドルの※水瀬レンを干潟に落としたみたいな青年だった。
※この世界で人気アイドルグループ・金柑&プルーン(キンプル)のメンバーである水瀬レン
「おー、風張会長……!」
いのりにもしっかり聞こえるほど、木澤の声が響く。
「うわ、本当にいた……」
自治会長連絡会とは、また雰囲気が違っているような気がした。
その自治会長・木澤滉平は、スコップ片手に手を振った。
「あ、子ども達がメインのイベントだから、今日は自治会長じゃないね」
「え?」
「うん、そうしよう。今日は肩書きなしで。会長とかナシ!ここでは“こうへい先生”って呼ばれてるし。そっちも会長モードじゃなくて高校生ってことで良いかな。」
「えっと…はい。」
「じゃあ、風張会長改めていのりちゃん。ようこそ九潮干潟へ!」
「……あの……よろしくお願いします。…こうへい…せんせい?…」
「うーん、違和感あるなぁ。“先生”って呼ばれるのも練習だけど、なんか固くてやだな。いのりちゃんが年の近い高校生だからかな。普通にそのまま呼んでよ。友達からも普段は“こうへい”って呼ばれてるし。」
「え、でもそれはちょっと……失礼というか……こうへいさん…とか?」
「まだ、硬いな…」
「じゃあ、……こうへい、くん……?」
「うん!いい感じ!よろしくね!」
いのりの口からその音が出た瞬間、どこか遠くで「ポクン……!」という主の心臓音が聞こえた気がした。
「なんか、不思議な感じがします。きざわ…こうへいくん…?」
木澤は笑った。
「よし、合格」
「なにが?」
「いや、子どもたちにも名前で呼んでもらうようにしてんだ。会話のハードル下げたくてさ。」
「……あれ、意外とちゃんとしてる……」
「ん?」
「ううん、なんでもない」
いのりが小さく頬を赤らめる。
その背後――
「……おっ、春か……?」
泥の中からマスコット姿のビシ九郎が、ひょっこり現れた。
スケッチブックにペンを走らせたビシ九郎が掲げる。
《春ですね(ニチャア)》
「えっ!? なんでビシ九郎ここに!?どろだらけじゃん!」
「ワイか? このへんの干潟、縄張りやからな。元々ハクビシンは泥まみれやし。汗でベタついた毛皮もキレイにせなあかん。入浴ついでや。」
「入浴って、泥の干潟で?いや、もうちょい隠れててよ!!」
いのりの頬がさらに赤くなる。
—
その時、けいじがバケツを手に駆けてきた。
「お姉ちゃん! 泥の中にカニさんがいたよ! あの人、いっぱい教えてくれる! 生き物の博士!」
木澤がけいじの頭を撫でる。
ともりも「これ毒ある?」とカニをつかんで無表情で聞いてくる。
「大丈夫!そいつはスナガニ。干潟の最強捕食者だね。ウミガメの卵も食べるよ。」
今度はけいじが干潟に穴を開けて呼吸をする貝を拾い上げた。
「おー! アサリ見つけたか! じゃあ今度は“アカクラゲ”探してみような! 触るとビリビリくるから気をつけろよ」
「ビリビリ!?」
けいじが嬉しそうに走っていく。その姿を見ながら、ともりも追いかけていく。
その姿を見て、いのりはポツリとつぶやいた。
「……なんか、いいね。木澤会長……じゃなくて…こうへいくん?」
「なにがいいの?いのりちゃん。」
泥にまみれた木澤がニコニコして聞き返す。
「えっと…子どもたち、すごい楽しそうで。なんか、ちゃんと伝わってる感じする」
「いやー、こっちは練習させてもらってるって感じだよ。将来は中学校で理科を教えたり、高校で水産の先生になりたいんだ。4年生になったら教育実習にも行く!」
「……へぇ。意外だね。」
「なにが?」
「いや……こうへいくんも自治会長だけど、見た目はチャラいし。もっと適当な人かと思ってた。」
「ヒドいなー。でもまあ、それは否定しない。……けど目指すもんは真面目よ。雛川区で教師になって、地元の…九潮の良さを子どもたちに伝えたいんだ。でも九潮の環境を守る仕事もしたいって思ってる。だから学校で働く前に、最初は海洋系企業に就職して知見を広げようかなと思ったり。」
いのりは、何かを飲み込むように黙って頷いた。
風が吹いて、いのりの髪が少し揺れた。
「……そういうの、ちょっとかっこいい、かも」
「ん?」
「ううん、なんでもない!」
その横で、ビシ九郎がまたスケッチブックを掲げる。
《好みのタイプ?》
「ちょっ……やめてーー!!」
といのりは真っ赤になった。
ビシ九郎がスケッチブックで
「お前ら春か?青春か!?果てるぞ!?」
と書いて、さらに煽る。
イベントはにぎやかに、でもどこか青春っぽく終わっていった。
干潟の風がふわりと吹いて、夕方の光が差し込む。 太陽が低くなって、いのりの影と木澤ことこうへいくんの影が、すこし重なって見えた。
さっきまで賑やかだった子どもたちの声も、少しだけ遠く感じる。
いのりは足元の泥を見ながら、ゆっくりとつぶやく。
「……ねぇ、こうへいくん」
「ん?」
「先生になるって、すごいことだね。私には、まだ自分が将来どうなりたいのか、よくわかんないや。」
「そっか。でも、それでいいと思うよ。俺だって途中で変わるかもしれないし」
「うん。でもなんか……今日、ちょっとだけ思ったんだ」
「なにを?」
「大人になるって、こういうことなのかなって」
風がまた吹いて、いのりの髪が頬にかかる。
木澤はその表情を黙って見つめていた。
——その帰り道、いのりはずっと「こうへいくん」と呼んだ感触を、口の中に残していた。
なんだかこそばゆくて、でも心地よくて。
ちゃんと声に出せた自分が、ほんの少しだけ大人になった気がした。
そして。
いのりの中に芽生えた“こうへいくん”への気持ちは、
まだ本人にもよくわからない、
春のようにあたたかくて、フワフワしていて、
泥の上に芽を出したばかりの、小さな芽のようだった。
今回のエピソードでは、風張いのりが日常の中で少しだけ立ち止まり、
“今の自分”と“これからの自分”を、静かに見つめる場面を描きました。
特別な出来事があるわけではなくても、
誰かの言葉や表情が、心に残る瞬間があります。
それが“成長”という言葉に近づいていくのかもしれません。
風のにおいや、泥の感触、素直な言葉たち。
もし、そんなささやかなものが、読んでくださった方の心に少しでも残ってくれていたら、
作者としてこれほど嬉しいことはありません。
次回もまた、よろしくお願いいたします。