第20話『〇〇じゃなくていいです』
こんにちは。いつも読んでくださって、ありがとうございます。
今回は、いのりが長年お世話になってきた美容師さん──
長岡つぐみさんが改めて登場するお話です。
思いがけないカフェでの再会から、ちょっと不思議で、でもあたたかい時間が流れていきます。
何気ない会話の中で、言葉にできない想いが少しずつ形になって、
お互いの気持ちに、ふと寄り添える瞬間があります。
それはきっと、日々の中で少し疲れてしまった心に、そっと効く優しい出来事。
今日のいのりが、どんな風に過ごし、何を感じたのか。
読んでくださるあなたにも、そっと見届けていただけたら嬉しいです。
春の考査テストは、例年どおり長く、重たく、そして終わった後の脱力感も例年どおりだった。
帰り道の団地商店街で、いのりとあずさは制服のまま並んで歩いていた。
「……やっと終わったぁ……長かったね……」
「マジで今回は地獄だった。古文の助動詞で意識飛びかけたよ……」
2人とも、どこか抜け殻のような足取りだったが、ひとつだけ気力を取り戻させるものがあった。
「クロノワール、まだあるかな……?」
カメダコーヒーのガラスドアを押しながら、いのりが期待まじりにつぶやく。 あずさが苦笑しながらあとに続く。
「言うほど売り切れることあるの? いのりもあの真っ黒うんこにハマったね!」
団地の汚水騒動でしばらく食べたくないと思っていたのに、結局食べに来る。 まるで某マシマシラーメンのような依存っぷり。
「うんこ言うな! 竹炭! テスト終わったご褒美って決めてたもん!」
混み合うランチタイムの店内。 カウンター近くの空席はほぼ埋まっていた。
2人で座れそうな席はない。
店内を回りながら空席を探していると、4人掛けのゆったりテーブルに先客の女性がひとりでいるのを見かけた。
アイスコーヒーを前に、ぼんやりと外を眺めている。
「あれ……つぐみさん?」
いのりが声をかけると、その女性がゆっくりと振り向いた。
「え? いのりちゃん……わあ、久しぶり!」
「いや…先週、髪を切ってもらったばかりですけど…」
いのりは苦笑いを浮かべる。
彼女の名は長岡つぐみ。 いのりの髪を長年担当していた美容師。
一度現場を離れていたが、最近またパートで復帰したらしい。
今日は午前中に仕事を引き上げてきたらしい。
制服姿のいのりを見て、少し驚きながらも笑顔を浮かべる。
「店内混んでて……ご一緒してもいいですか?」
「あ、もちろん! どうぞどうぞ!」
——こうして、偶然の再会と相席のランチタイムが始まった。
「はじめまして、あずさです」
「素敵。キレイな桜色の髪ね。地毛? やっぱり高校生って若いわ〜」
軽い会話の中で、つぐみといのりの深い付き合いが明らかになっていく。
実は、いのりの父・よしつぐと、つぐみはかつて美容師として同じ職場に勤めていた“つぐつぐコンビ”。
いのりが小学生の頃から、彼女の髪を担当していたこともあり、親戚のような関係が続いていた。
しばらく他愛のない近況を語り合ったあと。 ふと、つぐみがコーヒーを一口すすって、ぽつりとつぶやいた。
「今日お客さんにね……“刈り上げなくていいです”って言われたの」
「え?」
「朝のお客さん。前髪も“軽くしなくていいです”って。……これってさ、伝えたいのは『刈り上げないでほしい』『前髪は重めに残して』ってことなんだけど……なんか、“やってほしくないこと”の言い方がまどろっこしいっていうか」
「で、結局もっと切りたい、長いって。だから最終的に刈り上げした。なんか二度手間になってこっちが悪いみたいになって」
あずさが小首をかしげる。
「たしかに……“〇〇じゃなくていいです”って、ちょっと曖昧かも……?」
いのりは頷きながら、つぐみに聞いた。
「なんでそんな言い方、気になるの?」
「うん……たぶんね、自分の希望をハッキリ言わずに“責任を逃れたい”って心理が見えちゃうからだと思う」
「責任逃れ?」
「たとえば仕上がりが気に入らなかったとき、“私、やってって言ってないですよね?”って言える逃げ道を作ってるんだよ、無意識に」
沈黙。
「よくあるんだけどね。他にも子供を相手すると、子供の希望と親の希望が食い違って、仕事量が増えて疲れるの。ほんとに大変よ」
「小さいときから担当してもらってたけど、そんな苦労があったなんて…」
あずさも、いのりも、その言葉に言いようのないざわつきを感じた。
「それ、なんか……」
「うん……わかるかも」
いのりがふと口を開く。
「自治会でもあるよ。役員さんに会議の日程どうするか聞いて回ってると、“火曜じゃなくていいです”とか。みんながバラバラだから日程調整が大変なんだよね。でもじゃあ“火曜がダメ”ってこと? “水曜がいい”ってこと? ……こっちが全部察しないといけない」
「そうそう、それ! すっごいモヤモヤするよね!」
つぐみが思わず身を乗り出した。いのりとぴったり目が合う。
「だから今日いのりちゃんに話せてスッキリした。ありがとう。なんか……私の中の“もやもや”が、いのりちゃんの声で晴れていくみたいで……」
「え、そんな大げさな……!」
「……ねぇ、いのりちゃん。小さい頃から知ってるけど、改めて言ってもいい……?」
「えっ、なに?」
「つぐみお姉ちゃんって呼んで……」
突然の提案に一瞬戸惑いながらも、いのりが恐る恐る声にした。
「えっと……つぐみお姉ちゃん?」
「っ……!!!」
顔を真っ赤にして、テーブルに突っ伏すつぐみ。
「あーっ! もうダメだぁ! 癒されすぎてヤバい……ハアハア……!」
あずさが恐る恐る口を開く。
「……え、いのり、ちょっとヤバい人に懐かれてない……?…なんか、丸太持って突撃しそうなほどハァハァしてるけど…。」
「大丈夫。つぐみお姉ちゃん、昔からちょっと変態だから」
「いやダメじゃん!!」
もう完全に白目を剥いて果てているつぐみを前に2人は笑う。
いのりとあずさ、2人でしばらく談笑していると、つぐみは突っ伏したまま、両手で顔を覆っていた。
「……はあ……やばい……いのりちゃん尊い……やばすぎて息苦しい……」
「え、つぐみさん、大丈夫ですか……?」
「ごめん、いのりちゃん……ちょっと感情が……予想以上に……うれしすぎて……っ」
あずさがドン引きしながらクロノワールをつついている横で、つぐみはじわじわと顔を上げた。
「……実はさ、わたし……一人っ子なんだ。だから昔から“妹”ってものにすっごい憧れててさ。小さい頃からいのりちゃんの髪を切らせてもらってたでしょ? あの頃から、ずっと、密かに“妹がいたらこんな感じなのかな”って思ってたの」
いのりは目を丸くしてつぐみの告白を聞いていたが、ふと、ふにゃっと笑った。
「……私も、お姉ちゃん欲しかったなぁ」
「……え?」
「うちは弟と妹いるけど、私が一番上でお姉ちゃんだから。上にお姉ちゃんいるってずっと憧れだった」
「そうなの? 私、お姉ちゃんいるけど全然優しくないし、話もあんまり合わないし……彼氏と同棲して出てっちゃったから接点ないな」
「あずさはお姉ちゃんと歳が離れてるからじゃない? でも、つぐみお姉ちゃんみたいな人、ずっといたらよかったのにって思ってた」
その言葉に、つぐみの全細胞が目覚めた。
「いのりちゃぁぁぁああん!!!!!!(バンッ)」
テーブルを叩きながら、つぐみは席を立ち上がりそうな勢いで感極まった。
「それはもう……もう、正式に……妹認定していいってことでいいですか!? 呼んで、もっと呼んで、“お姉ちゃん”ってぇえ!!」
「えぇ!? あ、えっと……つぐみ、お姉ちゃん……?」
「ぐはああああぁぁーーーーーー!!!!!!」
つぐみは椅子の背にもたれかかり、天井を仰いで再び白目を剥いた。
その白目を剥いた先にある瞳の奥に、彼女は確かに見ていた。
いのりの、サラサラと揺れる絹のような髪。
爪の先まで透き通るような艶と、血色すら美しい指先。
制服の袖から見える、きめ細かく陶器のような肌。
耳元でそっと囁かれたような、クリスタルのように澄んだ美声。
何も塗らずとも影を落とすほど長いまつ毛。
しゃべるたび、ほんのり潤んでプルンと弾ける唇――。
「やばい……妹かわいい……いのりちゃん妹にほしい……もう今日から長岡姓にしよ……」
「え、え、え、私、今日から長岡いのり……???」
あずさはアイスコーヒーのストローを噛みながら、目を細めた。
「なにこの……カフェで行われる変態姉妹成立の儀式……」
「……でも、ちょっと嬉しかった、かも」
いのりはぽつりとつぶやいた。
「誰かに、ちゃんと“必要とされる”っていうの。……最近、自治会とかいろんなことあって、周りに合わせたり、気を遣ってばかりで……。でも今、すごくストレートに“お姉ちゃんになりたい”って言ってもらえて、なんかホッとした」
「いのりちゃん……!」
つぐみは椅子の上で正座して、手を合わせた。
「そんな君のために、クロノワール5個くらいご馳走したい……いや、もう、髪一生無料で切りたい……」
「えっ、ほんとに!?」
「いや、そんなに食べられないでしょ…」
「ほんとに! 妹だからね! もう私は君の姉! いのりちゃん、今日から私の人生の生きがい! ハアハア!」
「やっぱこの人やべぇな……」と、あずさが冷静にまとめる。
——そして、このあと“哲人”が通りかかって巻き込まれるのは、また別のお話。
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最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございます。
今回は、つぐみさんとの再会を通して、
いのりが誰かに“妹として”大切にされるような、ちょっと特別な時間を描いてみました。
彼女は一見しっかり者の大人に見えて、
じつは全力でハアハアしてしまうような“変態お姉さん”でもあって(笑)
そんなギャップも、いのりにとってはどこか心地よくて、安心できるものだったんじゃないかなと思います。
気を張る毎日や、誰かに合わせることが多い中で、
無条件に「妹になってほしい」って言われることって、すごくまっすぐな肯定ですよね。
いのりの心が少しだけ軽くなったこの午後。
それは、彼女がまた少し前に進むための、大事な時間だったように思います。
どうかこれからも、そんな彼女の日々を、あたたかく見守っていただけたら嬉しいです。
次回も、またお楽しみにお待ちくださいね。