第19話『ほんと、契約って罠だらけ』
「これ、ずっとこのままでいいのかな」
それは大きなトラブルじゃなくて、
少しぬるくなった水だったり、
毎月の小さな引き落としだったり、
誰も気に留めない“当たり前”の中に潜んでいるかもしれません。
今回は、団地の集会所にあった古びたウォーターサーバーをきっかけに、
小さな違和感を見つけて、それをちゃんと「終わらせる」までのお話です。
どこにでもありそうな契約と、誰にでも起こりうる“見て見ぬふり”。
それを壊すのは、案外、
制服姿の女子高生かもしれません。
「……ごめんね、ビシ九郎……」
どこか遠くで、誰かの声がした。
懐かしくて、寂しくて、優しくて、冷たい。
何度目だろう、この夢を見るのは。
少女の姿はぼやけていて、表情はもう思い出せない。
だけど、その声だけは、いつも胸の奥に残っていた。
「サオリ!汚いから離れなさい!!」
少女の名を呼ぶ、母親らしき女の声も聞こえる。
「……ああ、またや……なんやねん、ほんまに……」
ビシ九郎は畳の上で目を覚ました。
薄暗い集会所の隅っこ。事故のあと、壁に穴が空いたままの空間。
外の風は春らしく、少し肌寒いはずだった。
でも、なぜか体中が汗ばんでいた。
「……なんでこんな暑いねん。サウナかここは……?」
毛がまとわりついて気持ち悪い。
いつもなら寝返りを打って二度寝へ突入するところだが、今回は違った。
むわっとした空気が体に張りつく。
息を吸うたびに、喉が変に渇く。
「これは……ただごとやない。ワイ、肉饅頭ハクビシンや。完全に蒸されとる……」
スマホをつかみ、LiNEを開いた。
【副会長:哲人】「状況は?」
【ビシ九郎】「暑い。死ぬ。はよ来い」
転生地縛霊のビシ九郎が死ぬことはないだろう。
でも、そのまま畳に崩れ落ちる。
夢の余韻と現実の暑さがごちゃ混ぜになって、意識がもう一度どこかへ沈んでいくのがわかった。
そのころ、風張いのりは制服姿のまま、集会所へ向かっていた。
昨日の事故で現場検証が終わるとそのまま警察は撤収していった。
掃除は会長の役目というわけじゃないが、早く片付けないと。
住民が事故の残骸でケガをしたら困るので近づかないように張り紙をしてある。
まだ昼下がり。空は明るく、団地の風は春らしく心地よい。
だけど、いのりの顔には軽くクマが出ていた。
「寝不足……事故のあと公社へ連絡して、報告書をまとめて、役員へ通知して、住民に集会所へ近づかないように緊急の告知を手書きで作ってと……。」
とにかくやることがたくさんあった。
しかも春の考査期間中。
最低限のテスト勉強もやらなければならない。
ビシ九郎は、穴の開いた集会所でしばらく過ごすことになった。
いま、どうしているだろうか。
そう思いながら、集会所玄関の引き戸を開けた瞬間──
「うわっ……!」
集会所の中から、異様な熱気が噴き出した。
「……うそ、何これ? 暖房ついてる? もう春なんだけど……」
息が苦しい。
まるで梅雨時の蒸し風呂みたいな空気が、部屋の中にこもっている。
天井のエアコンを見る。
でも、電源は入っていない。
「え、なんで……?」
音がした。低い唸り声のような──ブゥゥゥゥ……という音。
それは、部屋の隅に置かれたウォーターサーバーからだった。
「まさか……?」
いのりが近づくと、側面から生ぬるい風が吹いていた。
手をかざすと、じわっと熱を感じる。
「やば……っつ!! 熱っ!」
反射的に手を引っ込める。
これはマズイと思い、ガムテープで補強されたコンセントを引き抜く。
そのとき、畳の上から、くぐもった声がした。
「……ワイ……もうアカン。ぬる湯で煮込まれるハクビシンの気持ちがわかった……」
「ビシ九郎!? え、いたの!? 大丈夫!?」
「大丈夫ちゃうわ。ちょっと夢見てたら蒸し焼きや。サウナより質悪いで、ここ」
「これ、完全に故障してる……よね?」
「ワイ、前からなんか水ぬるいな〜って思ってたけどな。おばちゃんたちは“このぬるさが体にええ”とか言うてわ……」
「意味わかんない……」
いのりは、サーバーの裏に回った。
埃がびっしり。フィルターは、もはや原型を留めていない。
電源コードもカバーが千切れたのであろう申し訳程度の漏電対策でガムテープ補強されたような状態。
かなりの年代モノっぽいウォーターサーバー。
なんなら私も一度だって使ったことがない。
「これ……いつから放置されてたの……」
いのりはサーバー背面のラベルを見た。
薄れた印刷で、かろうじて確認できるのは…
製造元:九紅電機工業製。
誰もが知っている大手メーカー品。
だが、製造年は…
「え?……15年前……?…私と年齢変わんないじゃん…」
思わずつぶやいたその瞬間、サーバーの側面が“ボンッ”と軽く膨らむような音を立てた。
その隙間から、黄ばんだフィルターが剥き出しになっていた。
「フィルター……これ、カビじゃない?てか、毛?」
いのりは一歩引いた。
畳に寝そべったまま、ビシ九郎が口を開く。
「それな、昔、みずぽよカンパニーのキャンペーンで契約させられたやつや。“ぴゅあもん”っていうんやで」
「ぴゅあもん……?」
「そのへんのショッピングモールでガラポン抽選やっとるやろ? “水を飲んだら1回まわせます!”って」
「あっ……私、小学生のとき、別のモールで回したことあるかも……でも契約はしてないはず。」
「せや。ほいでタブレット当たりますとか言いながら、実際当たるのはタブレット型のメモ帳や。それでオルフォードとかのワンボックス乗ってるイキった家族が契約するねん」
「いや…車関係ないでしょ……」
「関係あるんや。ああいう“ワイら生活水準ちょい上やで”って、ステータスにイキってる世帯が一番食いつく。“無料で設置!”って甘い言葉でな。ほんで契約書の隅っこに小さい文字で“2年以内解約時、撤去費用1万5000円”とか書いとるんや」
「えげつな……」
「メンテナンスも有料オプションや。しかもその存在、ほぼ誰も知らん。結果、放置や。水はぬるい。カビる。電気代はかかる。菌は繁殖する。全然ぴゅあやない、完全にどす黒いわ」
「聞きたくなかったけど、ありがとう……」
いのりはスマホを取り出し、ビシ九郎に続いてLiNEで哲人にメッセージを打つ。
(集会所のウォーターサーバー、異常加熱してました。製造15年前。撤去検討)
哲人にメッセージを打った後、いのりは集会所の書類棚を漁り始める。
そこで古びたファイルの中に、ウォーターサーバーのパンフレット一式に挟まれた契約書とメンテナンス作業の請求書を見つけた。
> 「九紅電機工業製 ウォーターサーバー契約更新済み 名義:品川・ロドリゲス・ユウイチ」
やはり、サーバーレンタルの契約が15年ほど前に結ばれているようだ。
ボトルの配送交換は定期的に行われているようだったけど、業者は何も確認をしてくれていなかったのだろう。
ここ何年も、サーバーのメンテナンスすらされていない状態だった。
サーバーメンテナンスが2年ごとに無料対応ってあるのに、提案すらされなかった始末。
「名義……品川……ロドリゲス……って……」
「ああ、ロド兄か…。死んどるで。前前々会長やったかな。確か日苯の真後ろブラジョルから来た日系ブラジョル人や。日苯人の女さんと結婚して帰化したはずやで。
会長を押し付けられて長年やってたけど、5年くらい前に持病の糖尿病が悪化して亡くなったんや。子供は知らんけど、奥さんは団地のどっかで暮らしてるんやないか。」
「そういえば、名簿に品川さんってお宅あったかも」
「たぶんそこやな。でも奥さんは、死んだ旦那の結んだ契約なんか、いちいち覚えとらんやろ」
「じゃあこれ、実質的に契約者がもう存在してないってこと……?」
「まあ、そういうこっちゃな」
その瞬間、いのりのスマホが震えた。
時差でビシ九郎のスマホも震える。
「哲人から『今から向かう』やと。今日は大学の研究終わったらしいわ」
いのりへのメッセージも内容は同じだった。
会長を優先してメッセージを送っているあたり、哲人の律儀な一面が見えた。
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20分後。
「失礼します。風張会長もお疲れ様です」
無駄な音を立てずに、尾花哲人が集会所に現れた。
すぐに異常な室温を察知すると、サーバーに軽く触れ、裏を覗く。
電源が抜かれたのに、こもった熱が室内を巡る。
状態の再確認で、再びガムテープで補強された電源コードを哲人が差し込む。
ブフォーーーー!!っと鈍い音を立て、埃を巻き込んで焼けたようなニオイが広がる。
「……これ、放熱ファンが常時稼働してますね。もう寿命かも。ウォーターサーバーの仕組みはエアコンと同じで、水を冷却するとき熱交換で熱風が出てきます。排熱で室温が上がってサウナ状態になってます。
しかも、この集会所は断熱性が高くて空気の逃げ場がない。だから熱がこもる構造なんです。真夏だったら地獄ですね。」
「それって、集会所に穴が空いててもダメなんだ……」
「温かい空気は上に溜まり、徐々に下へ降りてくる。
寝ていたビシ九郎は、分厚い熱気の布団に包まれていたようなものです。
まずは換気しましょう」
哲人はそのまま契約書とメンテナンス作業の請求書を眺めつつ、埃まみれのフィルターに指をかざした。
「……これ、メンテナンス履歴も10年ほど前で止まっているようです。
おそらく内部は水垢、カビ、バクテリアでいっぱいでしょうね。
サーバーの中で加温されて、菌の温床になっていた可能性があります」
「ちょ、ちょっとやめて!!聞きたくないっ……!」
いのりは叫びながら2メートル後ろに下がった。
「住人のおばさんたち、これ飲んでたんだよ!?“ぬるさが体に優しい”って……
いや、優しいどころか腸内フローラ壊滅してない!?10年分の雑菌だよ!!ガチで飲んでたの!?」
哲人は平然とうなずく。
「そんな時はメザメルトで腸活やな。雑菌まみれの腸内も乳酸菌パワーで善玉菌がたちまち復活やで!」
うだる暑さの中、冷蔵庫からキンキンに冷えたメザメルトを取り出し、ビシ九郎が飲み干す。
「会長の提案どおり、まずはウォーターサーバーを解約しましょう。衛生面、電気代、契約費用。
全体的な影響でみると小さいことかもしれませんが、三重苦を取り除けそうです」
いのりはLiNEで会計に引き落とし口座の確認をお願いした。
毎月の支払い履歴の確認、そして必要に迫られたなら本日中に口座を空っぽにする準備をしておいてほしいという内容だ。
すると、すぐに「了解!」と返事が来た。
毎月〇日頃にウォーターサーバー代金として支払い履歴があるとのこと。
いのりも会長に就任して間もないため細かい支出が把握しきれていなかった。
「……うわ、引き落とし明後日!?ギリギリセーフ!今のうちに手続きすれば、まだ間に合うかも!」
定年退職後、いつも在宅している会計さんだったので、返事が早くて助かった。
「名義は故人。契約の実態が不明瞭で、機材は故障、衛生も最悪。
これはもう“放置された亡霊の設備”と同じです。
すぐ業者に連絡して、引き取りを通告してください。応じなければ口座を空っぽにすると。」
哲人が状況を整理する。
「えっ、そんなにあっさりでいいの?」
「“簡単”ではないですが、“確実”です。契約者が死亡している時点で法的にはすでに解除要件に近い。業者がごねたら“消費者庁に報告する”とだけ伝えてください。銀行で手続きすれば引き落としそのものを止めることもできるはずです。」
同時に、ビシ九郎がスマホで契約書に載っていた会社情報を検索していた。
「やっぱり……この業者、雛川シーサイド駅前のショッピングモールで出店してるとこやな。」
ビシ九郎が言ってた通り、ショッピングモールでロド兄こと何世代か前の会長が契約したものらしい。
「土日のガラポンで子どもを釣って、親に契約させるアカンやつや。
『いまならお水無料!』とか言いながら、“オルフォード”みたいなワンボックスカーで乗りつけてきた見栄っ張りファミリーを狙う商売やで。」
ビシ九郎が楽しそうに言う。
「親がノリで契約して、数年後には放置。料金は払い続ける。
“便利”は“無知”を前提にしてるって、こういうことか……」
こういう賑やかな場所へあまり出向かない哲人が理解不能な見栄っ張り人間の行動を想像して眉間にしわを寄せる。
「ちなみにな、この“ぴゅあもん”っちゅうウォーターサーバー、製造メーカーはキュウベニやで。天下の九紅電機工業製。せやからモノ自体はようできとるんや。」
「え?じゃあ九紅電機がこんな商売してるの!?」
いのりが驚きながら聞く。
「ちゃう。水を売ってるんは別会社の“みずぽよカンパニー”ちゅうとこや。九紅とはまったくの別もん。ようあるやろ?大手メーカーの名前だけ前に出して、安心させる商法や。」
「じゃあみずぽよカンパニーがちゃんとしてないの?」
「せや。こういう中小零細企業はな、営業ノルマがキツキツで数さばかんと死ぬんや。ほんで“初月無料!”とか言うて客釣って、契約取ったらあとは放置。やり方がずるいわなぁ……。」
いのりは意を決し、番号を間違えないよう慎重に入力しながら業者へ電話をかけた。
プルルルル…ガチャ
「お電話ありがとうございます。みずぽよカンパニーです。」
と担当者の女性オペレーターが対応する。
「……もしもし、お世話になっております。雛川区九潮団地117・119号棟会長の風張です。はい、ぴゅあもんというウォーターサーバー契約の件で……はい……。」
「解約と引き取りのお願いをしたいのですが…。」
「え?契約者じゃないと応じられない?サーバーの交換しか対応できない?いや、契約者もう亡くなってますよ。5年も前に……。」
「そもそも今の自治会長は私なので代行しています。」
「え?すでに今年の契約も更新されているから解約金がかかる?でも更新後の定期メンテナンスとか老朽化によるサーバー交換すら今までちゃんとやってもらってないんですけど…。それってどうなんですか…?」
こういう契約問題についての電話をかけるのは慣れていないけど、自治会長になっていろんなところへ電話をかけているうちに緊張はしなくなっていた。
「とにかく、引き落としが明後日ということになっていますので、応じて頂けないなら口座を空っぽにしておきますが。」
しばらく間があり、窓口のオペレーターに代わって会社の上司らしき男性が担当を引き継いで電話対応した。
相手が低い声で言う。
「……あ、あの……申し訳ありませんでした。サーバーの引き取りに……本日中に伺います」
スマホを切ったあと、いのりは呆れ顔で言った。
「……めっちゃ手のひら返しじゃん……」
会話内容で察した哲人は
「“契約者じゃないと解約できない”なんて言ってたくせに、サーバー交換はOK。
ようは、解約されると金が貰えないから、解約されないようにごねる。筋が通ってないんですよね。
そんで詰められると逃げる。そういう構造なんですよ」
「ほんとズルい……」
「でも、誰かが気づいて止めれば、終わらせられる。そんな構図なんです。これは社会も自治会も同じかもしれません。」
哲人の目が、冷静に鋭く光った。
いのりは未成年の女子高生であるため、正式な契約は親に任せるしかない。
自治会でも契約関連は、成人している哲人に最終的な判断と署名を求めることになる。
でも、これからいのりが社会に出る前に、おそらくテスト勉強をする以上の大きな学びがあったと思う。---
その日の夕方。
業者・みずぽよカンパニーの配送担当によってウォーターサーバーは撤去された。
日焼けした床のあとが、何年も対応をしてこなかった事実を訪仏させる。
「……空気が、軽いな」
と哲人。
「こんなに違うんやな……空調いらんやん」
集会所で暮らすビシ九郎も今夜からよく眠れそうだ。
「でも、これからお湯はどうするの?ウォーターサーバーが突然撤去されたって住民が騒いだりしないかな。」
率先して撤去に動いたいのりが今後を心配する。
するとビシ九郎は、倉庫から年季の入った電気ポットを持ってきた。
「これな、茶道サークルが使ってたやつや。
重曹とクエン酸でつけておいたらピッカピカやで。あるもん使えばええんや。」
「そういうお手入れ方法、ちゃんと信じてるんだ……」
「ワイは腹壊したりせえへんけど、やっぱ汚いもん体に入れるのは嫌やからな。雑食とはいえ潔癖なハクビシンなんやで。」
哲人といのりが苦笑いをする。
ポットのスイッチを入れると、ピィィィと音が鳴った。
「お、動いた。ワイ、電熱運あるんや」
「でも、あのウォーターサーバー、ちゃんと使ったことなかったけど、なんか高級感あってかっこよかったよね。裏面は超絶汚かったけど。」
と、いのり。
哲人が即答した。
「その使ったことない高級感に、毎月高い金を払っていた計算になりますね。ミネラルウォーターなら普通に2リットルのペットボトル50本分くらいの費用になります。そんなに毎月消費しますか?しかもそっちのほうが衛生的ですよ。」
哲人の節約魂と正論がウォーターサーバーの現実をぶち抜く。
「…うっ…。そういえば、まだ自宅にネットスーパーで注文した大量のペットボトルが山積みだった。副会長、下ろすの手伝って…。」
「すみません、会長。俺、力仕事は専門外なので。」
「もう!じゃあ、副会長の専門分野は何なのー!?」
いのりが手をパタパタしながら副会長にプンプンした。
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翌日。
駅前モール。
いのりは雑踏の中、この日も午前中で学校が終った。
新学期早々の長い考査期間も明日でおしまい。
あずさと下校途中にイベントスペースの前を通りかかった。
「平日限定の大チャンス!無料試飲!抽選で豪華プレゼント!」
“オルフォード”の鍵をぶら下げた父親らしき男性が妻と生後間もない幼い娘をベビーカーに乗せてスタッフに勧誘されているのを見た。
「我が家には子ども3人とジジババがいるからね!上の子は学校から帰ってきたらたくさん飲むし、生まれたばかりの娘のためにも水にはこだわりたいんだよ!」
「それならぜひ、うちのぴゅあもんですよ!安心安全の天然水です!サーバーはチャイルドロック付きでお子様がいる大家族にも安心ですよ!大容量ボトルを毎月無料配送もします!もちろん配送時に空ボトルも回収しますし、定期メンテナンスも無料でやりますから!」
「そりゃいい!これで酒も進むぞ!美味い水割りが楽しみだ!親父も喜ぶぞ!」
「ミルクにも使えますよね?3人目で待望の女の子がやっと生まれたから、大事に育てたいんです!」
と妻もノリノリ。
「はい、もちろんです!安心安全!ミルク作るのにぴったりな温度設定もできますからジャンジャン使ってください!しかも初月無料!今なら同時にインターネット契約で無料のタブレットがもらえますよ!」
ニコニコの笑顔で家族はそのまま契約ブースへ。
「……ああやって、吸い込まれるんだ……」
すぐ近くでは携帯キャリアのキャンペーンも。
「親子で乗り換え!新学期応援!今だけギガ50倍!固定回線とセット契約ならさらにお得!」
「…いや…家にWi-Fiあるのに、ギガ盛らせてくるやつ……しかも解約金ありか。
ほんと、契約って罠だらけ……」
あずさも子供の頃にガラポン抽選会をやりたくて近づこうとしたら、親に止められたことがあるらしい。
世の中には様々なトラップが張り巡らされている。
これらは家族の問題だけじゃなく、自治会の場合も、何かと備品を買ったり契約をする場面がある。
だから、みんなのお金を使っている自覚を持たないといけない。
すでにあるもの、いらないものにお金を払っていないか、考えることも自治会にとって大事なことだなと、いのりは学んだ。
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その夜。集会所。
ポットで入れたインスタントコーヒーを飲みながら、いのりは報告書をスマホで作成していた。
【報告】
・ウォーターサーバー撤去完了
・故人契約につき費用発生なし
・代替設備:電気ポット。清掃済
・衛生改善:排熱・バクテリア問題解消
・高齢者対応:冷水希望なし、影響軽微
小さいことかもしれませんが、みんなから集めた自治会費を節約できたと思います。
今後も明朗会計に努めていきます。
以上。
と、報告書をまとめ哲人にLiNEで送る。
記録係も副会長の仕事である。
そしてLiNEで届いた哲人のメッセージを見返す。
> 「承知しました!これは小さなことじゃありません。
何年分もの損失を“見なかったこと”にしてきたのを、昨日で終わらせただけです。未来につながります。」
「……そうだよね」
いのりは、哲人にありがとうスタンプを送る。
一昨日は“副会長がいないから代わりに”だった。
でも昨日は、“私がやる”だった。
もちろん副会長の提案とかアドバイスも貰った。
完全に自分だけで決めることはできないが、最終的にどうするかを決めたのは私。
誰に頼まれたわけでもなく、自分で動いて、自分で終わらせた。
「これが……自治会長の責務なんだな…。」
一口飲んだコーヒーの苦味を嚙み締めつつ、壁の穴から吹き込む夜風が、ようやく春らしさを思い出させてくれた。
「安心の九紅電機製です!」
そんなふうに書かれていると、なんとなく安心してしまう。
でも、実際に売ってるのは、
営業ノルマに追われてガラポンを回すしかない“みずぽよカンパニー”です。
契約書の隅に小さな文字で書かれた解約金。
放置されたまま加熱し続けるウォーターサーバー。
「なんか変だな」と思っても、
誰も責任を取らないまま月日だけが流れていく。
今回は、そんな“生活に染み込んだ不透明さ”に、
風張いのりがひとり気づいて、ひとつ終わらせた物語です。
そして──
何気なく出てきた「契約者の名前」も、
実はあとあと、思わぬ形で物語に爪痕を残すかもしれません。
じちまかは、
「気づいてしまった人」が動くことで、
少しずつ世界が変わっていく話です。
ではまた次回、団地のどこかでお会いしましょう。




