第18話『もう、車の運転はやめなさい』
春。
暖かい風にあたりながら、ふと眠くなる季節です。
そんな午後に突然、予想もしない「衝突」が起きたら──
あなたならどうしますか?
今回のお話は、「もしも」の事故と、
それに向き合う少女の“少しだけ大人な決断”の記録です。
ちょっとだけ社会の深い部分をのぞき込むような、
そんなエピソードになればと思っています。
昼下がりの団地には、独特の静けさが漂っていた。
湾岸エリアの風は、ゆっくりと吹いて、埃っぽい空気を転がしていく。
その集会所の片隅、ビシ九郎は畳に突っ伏して昼寝していた。
パチンコから帰宅したあと、景品のお菓子をつまみながら深夜まで新作の春アニメをチェックしていたせいか。
昼飯を食った後に眠気が襲って、そのまま窓から入り込む春の陽気に寝落ちした。
「……ごめんね、ビシ九郎……」
どこかで、誰かの声がする。
優しくて、悲しげで、責めるような——少女の声。
最近、何度も同じ夢を見ていた。
名前も、顔も、はっきりとは思い出せない。
いや…先日、皆本慎太が流した涙で、少女の母親がサオリと呼んでいたような。
そんな名前がうっすら最近思い出したような気がしてる。
ただ、その声だけが心の奥に残っていた。
「うーん……また夢かいな……誰やねん、ほんまに……」
そんなふうに寝返りを打とうとした、その瞬間だった。
——ドンッ!!!
凄まじい破壊音。
空気が揺れ、畳がびくりと跳ねるように波打った。
耳の奥が圧迫されるような、霊体の内臓に響く衝撃。
「…ほげぇ!……なんや!!?」
飛び起きたビシ九郎の目に映ったのは、
ガラスの破片が散らばった床。
そして、壁をぶち抜いて突っ込んできたのは軽自動車だった。
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その頃、風張いのりは制服姿のまま、自宅の部屋から団地を見おろしていた。
新学期の考査期間中。
あずさと学食で早めのランチを済ませたあと、まっすぐ帰って別れた。
テスト期間中は2人で寄り道をしない。(たまにするけど)
午前中で下校できた今日、両親も、弟や妹もまだ帰ってきていない。
「静か……ひさびさに一人だ」
ランドセルも靴も見当たらない玄関を確認し、少しほっとしたそのときだった。
——ドーン!!
まるで団地のどこかに雷が落ちたかのような、重たい音。
空気が跳ね、足元が揺れた。
「えっ…?この音…なに……!?」
その音の方向は、集会所だった。
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現場にはすでに数人の高齢者が集まり始めていた。
その中にはくるくるパーマの前会長もいた。
皆、ただ立ち尽くし、口を閉ざしていた。
集会所の壁には、軽自動車が鼻先から突っ込み、ガラスと壁片が地面を覆っている。
その運転席では、老人が呆然と前を見ていた。
「……ワシ、ブレーキを……踏んだはずなんじゃが……」
いのりが駆け寄ると
「みなさん!あけてください、危ないです!離れて!」
いのりは制服のポケットからスマホを取り出すと、現場の最前線へと駆け寄った。
自分でもビックリするくらい冷静に対応できたと思う。
学校でも消防や警察関係者が来校して避難訓練や人命救助、応急処置、様々なトラブルに対応できるような授業を受けてきた。
まずは通報しましょうと教えられている。
こういう場面が実際に訪れるとは思わなかった。
「救急車をお願いします。団地の集会所に軽トラックが衝突。けが人は一名、意識あり。高齢男性です」
すぐに救急要請をする。
「外傷は額から軽い出血程度ですが、頭をぶつけた可能性もあります。早急に救急搬送を……」
その後は警察にも通報した。
受話器越しに詳細を伝えながら、住民たちに声を張る。
「ガラス片があります! 集会所には入らないでください!」
副会長にも連絡を入れたが、研究室にこもっていて、すぐに来られないという返信だった。
ここは、私が対応するしかない…!
そう思ったら、やけに冷静でいられた。
こんなとき、副会長ならどうするか?
何ができるかを考えつつ、頼りになる大人を呼ばなければ。
そのとき現場に来たのは——
のそりと姿を現した相談役・大矢だった。
「……若松さん。ワシ、言ったじゃろ……あんたもうすぐ90になるんだから。もう、車の運転はやめなさいて……」
「ああ……すまんのう……ワシ……ちょっとスーパーに行こうと思ってつい……」
「わかっとる。でもな……これ、小学生の下校時間と被っとったら、どえらいことになっとったんじゃ。息子さんも車乗るのやめなさいって言っとったじゃろ…。誰も巻き込まれなかったのが不幸中の幸いじゃ。」
ひとまず、車から若松さんをおろし、救急車が来るまで、近くのベンチで休んでもらうことにした。
団地内に消防署があるので、10分もかからずに到着するだろう。
そのやりとりの中で、ラフなジャケットを着た背の高い男が歩いてきた。
「相談役から聞いて来たで。『ワシの団地で事故や!』って」
風を切るようにやってきたその男——元プロ野球選手、皆本慎太だった。
現役時代は、財閥系大企業の九紅ホールディングス傘下にある飲料メーカー・メザメルト社が所有する球団の東亰メザメルトシャークスに所属するスター選手だった。
いまは引退し、解説や指導を通じて、九紅が本社を置く雛川地域に根を張っている。
今夜、ナイターの解説で現場入りするまで暇だったとのこと。
連絡を受けて様子を見に来たらしい。
皆本は、現場を見渡して
「ビシは平気か?…それにしても派手に突っ込んだな。」
と、ビシ九郎の安否を気遣う。
「ワイは平気や。でもホンマに…一瞬、死んだかと思ったで。」
ひょこりと集会所からビシ九郎が出てくる。
「おー無事か!って、いっぺん死んどるんやろ?不死身やないんか?」
と、怪我人の前で少し不謹慎なワードが飛び交う。
すると、皆本がいのりを見て
「……あれ? 君、雛川シーサイド学院の制服やな?うちの娘と同じ学校やで。」
いのりが一礼する。
「……はい。2年生の風張いのりと申します。この団地で自治会長をしています。先日、弟のけいじが野球教室でお世話になりました」
「おお! あの子の姉ちゃんだったんか!お姉さんが自治会長やっとるって言ってたで。」
皆本が声を上げて笑う。
「来賓席にいたやろ。ワイが慎太にJKがおるでって言ったやん。その子やで。」
ビシ九郎が補足する。
「ああ!おったおった! 来賓席のテントで高齢者にまじってJKがひとり、ピシッと座っとった!なかなか目立っとったわ。」
「弟が皆本さんにサインもらって喜んでました。ありがとうございます。」
「ええんやで。あの弟くん、ええスローイングしとったな。将来、シャークスのショートやで、ほんまに!」
冗談交じりに話しながら、皆本は現場を見て、すっと表情を引き締めた。
「……で、事故の運転手は誰や?」
「若松さんです。そこのベンチに座ってもらってます。アクセルとブレーキを……踏み間違えたようで」
「そうか……高齢者にあるあるやな。」
皆本は一歩近づき、地面のタイヤ痕を眺めたあと、車内を眺めてぽつりとつぶやいた。
「……やっぱりな。オレ、ずっと思っとったんや。
これ、年齢の問題やない。ATの構造そのもんが危ないんや」
いのりが目を見開く。
「……どういう、意味ですか?」
皆本は自分の足元を指さした。
「俺はマニュアル車しか乗らんからわかるんやけど。オートマは運転が簡単すぎて危ないんや。MT車やったらな、クラッチ踏まんと発進できへんし、ミスったらエンストしてエンジンが止まる。意識して手順を踏まなあかんから安全なんや。
でもATは、シフト入れて、ブレーキから足離せばもう動く。子供でもゴーカートみたいに簡単に発進させられるし、寝とっても走るっちゅう車や。
高齢者のミスっていうより、“無意識で運転できてしまう”構造に問題がある仕様なんやで。しかも、足がもつれてとっさにブレーキと思い込んだままアクセルをさらに踏み込んでしまう。そうなったらパニック状態になって、もうどうにもならへん。どこかへ突っ込んで止まるまで地獄のドライブや。」
いのりはその言葉をしっかりと受け止めた。
責めるのではなく、原因を見つける——
それが、大人の“本当の責任の取り方”なのだと気づいた。
皆本は、現役時代に乗りたかった高級スポーツカーがマニュアル車しかなかった。
それに乗るためにマニュアル操作に慣れたという現代では珍しいマニュアル信者。
「なんか免許取るの怖くなりますね。私も高校卒業したら教習所へ行くつもりでしたけど、不安になります。」
「そうや。車は危険で人の命を奪うかもしれん凶器や。だから安易な気持ちで運転したらあかんのやで。特に今の若い子はオートマ限定で免許取って乗るやろ。せやから、いのり会長もマニュアルで免許取って、自分で運転するときはマニュアル車を運転した方がええ。それだけでもだいぶ安心感が得られると思う。とはいえ、レンタカーなんかは、ほとんどオートマやけどな。」
皆本が親切に教えてくれた。
連日ニュースで取り上げられる、高齢者の踏み間違い事故。
ただ高齢者の不注意が原因だとばかり思っていた。
でも、これだけ多発するということは、構造上の問題だったのかもしれない
車を発進させることが簡単すぎることが欠陥。
便利が故の問題なのだ。
まだ免許を持っていない、車を運転したこともない高校生のいのりにも何となく理解できた。
「しかも、この車両はシフトレバーが特殊やな。手元でカチカチ操作するやつや。バックに入れる時にわかりにくいやつやで。この車両と同じタイプのシフトレバーで操作ミスって踏み間違い事故起こしたやつ知っとる。試合前のクラブハウスで球団職員がシフトレバーミスって踏み間違えてぶつけたんや。監督のレグザースがベッコリへこんで気まずくなってたわ。大事には至らんかったけど。球団職員も踏み間違えるような年齢じゃなかった。つまり誰でも踏み間違えるときは踏み間違えるんやで。」
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若松は、ベンチに座っていた。
肩を落とし、視線は膝に落ちている。
「若松さん、言うたな。あんたマニュアル車じゃアカンのか?マニュアルなら急発進せずにエンストで済んだやろ。」
レジェンド・皆本が若松に歩み寄る。
「昔、乗ってたんじゃが、だんだん操作が大変になってのう…。クラッチが固くて膝が痛くて…。80歳の時、新車で運転が簡単なオートマに買い替えたんじゃよ…。」
「マニュアル車が操作できなくなった時点で免許返納を考えるべきやったな…。」
若松を責めるわけじゃないが、なんとも煮え切らない返答が続く。
「ワシ、免許返すのが怖くてな……息子にも妻や子供がいるし、誰にも頼れんし、買い物もどうしたらええか……通院で少し離れた大学病院もいかなきゃいかん…」
いのりは静かに、若松の正面にしゃがんだ。
「若松さん。団地はバスもありますし、スーパーも配達してくれます。必要ならタクシーだってたくさん走ってますよ。スマホで注文したり、タクシーを呼ぶこともできます。」
「でも、ワシ…スマホなんて使っとらんから…」
「スマホが難しくても、電話で注文もできます。なんなら団地でもスマホ教室やりますよ。だから免許返納を考えてみてください。」
「でも…。デジタルは怖いし…」
「必要なら、私が手伝います。スマホでお孫さんとテレビ電話できますよ。」
「そんな……会長さんに迷惑じゃろ?」
「自治会長ですから。当たり前です。もしご家族が離れて暮らしているようなら、私が免許返納にも付き添います。」
その言葉に、空気が凪いだように静まり返る。
皆本が腕を組み、ふっと小さく笑った。
「……よう言うたな。ええ根性しとる。ほんま、あの子は“会長”や。うちの娘にも見習ってほしいもんや。」
ビシ九郎も
「な、おもろい存在やろ?ただの女子高生自治会長やないで。」
風が、集会所の壊れた壁を抜けて吹き抜ける。
いのりの青く光る髪がなびいた。
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この日の事故は、被害としては小さなものだった。
集会所の壁に少し穴が開いたものの、集会所が全然使えないほどではなさそうである。
でも、「女子高生が自治会長をやっている」ということが、冗談ではなく“現実”なのだと、住民に知らしめた日でもあった。
「そらそうと、ワイの寝泊まりするところどうなるんや!?」
ビシ九郎が現実に戻る。
「元々、雨晒しでも平気なハクビシンやろ?しばらくこのまま我慢して暮らせ。畳の部屋は無事やろ。差し入れも持って行ってやるから。」
「そんな冷たいで、慎太!!ってか、慎太んとこも部屋余っとるやろ。立派なタワマンなんやけん。しばらく泊めてや。」
「アカン。お前なんか連れて帰ったら嫁にキレられるわ。お前、団地から出ると女の姿になるやろ。」
「なら、いのすけのとこに…」
「うちは、家族多くて部屋が足りないくらいだから…。地域センターでしばらく空いてる部屋を間借りしたらいいんじゃない?茶道やってる畳の部屋とかあるじゃん。」
「ないわ。公務員と警備員の監視付きじゃ気が休まらん。しゃーない。しばらく穴あき集会所で過ごしたるわ。夏までに直してな。」
というわけで、今すぐ私にできることは特になさそうだ。
ひとまず、公社に連絡して修理を依頼するしかない。
若松さんが任意保険をかけていれば、修理費用も問題ないだろう。
最悪、自治会保険も掛けてあるから、修理費はなんとかなるはず。
これから連絡とか申請とか、やることがまた増えた。
とにかく自治会長としてしっかりしないと。
「あ、そうだ。副会長にも経過報告しておかなきゃ。」
そうこうしているうちに救急車が到着し、若松さんは病院に搬送されて検査を受けることになった。
警察も到着し、車をレッカー移動をしてくれた。
どちらにしても車は衝突時にエンジンがダメージを負ったため即廃車。
さすがに若松さんも、これから新車を買って乗り回すことはしないだろう。
団地には自動車を所有している高齢者もまだまだ多い。
これからこういう問題がさらに大きくなるかもしれない。
自治会長として、何ができるのかを考えなければと思った。
その後、幸いにも若松さんに大きなケガはなかったらしい。
入院もすることなく、当日のうちに帰宅できたそうだ。
ホントに子供たちが下校する時間じゃなくて良かったと思う。
副会長がいなくても、いのりが自分で考えて行動ができた。
それだけで、いのりにとって大きな自信になった一日である。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
18話では、いのりが“事故”という突発的な現実に対して、
自分で判断し、行動し、責任を持つ姿を描きました。
また、ここから少しずつ、「この社会はどんな仕組みでできているのか」、
という裏側も見えてきます。
いのりの言葉やまっすぐな目線が、読んでくれたあなたの心にも、
なにか届いていたら嬉しいです。
次回も、ぜひよろしくお願いします!