第14話『足を組むってそんなに悪いことなのかな。』
久々にゆったりした休日。
美容室へ行ったいのりは、担当のつぐみに髪を切ってもらいます。
すると、他の席で足を組んだ男性客が店長とひと悶着。
足を組むことは悪いことなのか?
「姿勢」から見える人の“あり方”について、考えながら読んでいただけると嬉しいです。
いのりはゆっくりと息を吐いた。
新学期最初の日曜日。ようやく訪れた静かな朝だった。
今週末は地獄のようだった。自治会の汚水処理、野球教室の手伝い、配布資料の印刷と会長業が山積み。
今日は違う。
今日はただ、自分のために時間を使うと決めた。
朝、母に
「今日はゆっくりしておいで」
と言われた。
その言葉が、妙に心に染みていた。
彼女はのんびりと桜が舞う心地よい春の風を感じながら、亰浜運河沿いの緑道を散歩していた。
その先にある橋を渡ると敗島という本土の土地に出る。
この辺りも、昔はロジスティクス系企業の巨大倉庫ばかりだったが、近年は再開発で高層マンションがどんどん建築されて地価も上がっているらしい。
少子化と言われる時代に、ファミリーが押し寄せて近隣の小学校では子供たちがあふれている。
陸の孤島と呼ばれる人工島「九潮」をつなぐ重要な橋のひとつが「敗島橋」。
他に島へのアクセスを支える橋が二つ。「九潮橋」と「うみねこ橋」である。
私はこの敗島橋から見える景色が大好きだ。
晴れた日には運河の先に東亰レッドタワー、東亰天空ツリー、東亰レインブリッジという都内の名所が一気に眺めることができる。
これで東亰ゲートブリッジとか文亰区の東亰ビックエッグも見ることができたら最高だったなと贅沢をいう。
引っ越し前、豐島区に暮らしていたころは、家族で国道を歩きながら、幼いけいじと小学生だったともりを連れて、東亰ビックエッグまで散歩に行ったっけ。
当時は、そんな時間が当たり前に続くと思っていた。
なんて思いながら敗島の「ウィア犬井」へ向かっていた。
犬井競馬場のそばにある大型ショッピングモール。島の外に出るのは少しの贅沢だが、それがいい。
目的は二つ。
一つは髪を切ること。もう一つは、クリーニングに出していた制服を受け取ること。
これがないと明日、学校へ体操着で行くことになる。
ついでに、後であずさと待ち合わせもしている。
あずさの制服も引き取って渡すためだ。
あずさには、汚水処理のときに手伝ってもらったし。
いのりは、クリーニングした制服を受け取る前に、予約時間の前に合わせて美容室へ向かった。
「いらっしゃいませ! 風張さまですね。本日は、つぐみが担当させていただきます」
受付の女性がにこやかに告げた。
いのりは少し目を見開いた。
「……え、つぐみさんって……」
冬休みに来たきりで、それ以来、担当が変わったと聞いていた。
「お久しぶり、いのりちゃん!」
声と同時に、懐かしい笑顔が現れた。
彼女は長岡つぐみ。
父・よしつぐの元後輩美容師であり、引っ越し前から、いのりの髪を何年も担当してくれていた美容師だ。
父が美容師時代には、つぐつぐコンビと呼ばれて、共に信頼し合って働いていたらしい。
つぐみも以前は、いのり一家が暮らす豐島区で勤務。
当時は父・よしつぐも現役の美容師で同僚だった。
つぐみは、同系列チェーン店の別店舗で働いていたけど、いのりたちが引っ越したタイミングで偶然にも近所の店舗へ異動となった。
その間に、父・よしつぐは諸事情で美容師の仕事から離れた。
いのりが通っている美容室は、低価格でファミリーが通いやすいアットホームなショッピングモールの美容室チェーン。
地元の中高生も通いやすい店として人気である。
予約なしで飛び込み歓迎の店舗スタイル。
希望すれば美容師の指名や予約にも応じてくれる。
お客さんへ公開する名前は、ワンツーカット株式会社だと美容師個人が自由に決められる。
なので、つぐみは下の名前で営業活動をしているのだ。
というわけで、いのりは毎回、父親の紹介でつぐみを指名していた。
「つぐみさん……退職するって聞いてましたけど、戻ってきたんですね」
「うん。いろいろあってね。正社員はやめたけど、今はパートで復帰して働いてるの」
言葉を交わすうちに、はさみの音がリズムよく響きはじめる。
「無理しないでくださいね」
「ありがとう。大丈夫。……それにしても、いのりちゃんの髪、相変わらずきれいだね。透き通ったコバルトブルーの光が反射してるよ」
鏡越しの会話。
つぐみの笑顔は変わらないけれど、どこかに芯の強さが増しているようにも感じた。
前回担当してもらったときに、つぐみから転職すると聞いて、担当が変わることを告げられていた。
きっと社会人も大変なことがたくさんあるんだろう。
でも、こうしてまた担当してもらえるのは素直にうれしい。
つぐみさんが何を考えて、何に悩んでいたのかはわからない。
でも、彼女の決断を私が否定することはできない。
ただ、純粋にもう一度担当してもらえることに安心感を感じる。
「本当なら、私が後任で担当する予定だったんですよ。私もいのりちゃんのきれいな髪を担当したかったな」
と、横からつぐみの後輩美容師である上田樹理が話しかける。
彼女は、一年前から妹のともりを担当している若手の美容師だ。
「残念!いのりちゃんは私が担当でーす!」
「つぐみ先輩ったら、別の業界に行く!って、張り切ってたんですよ。みんなに焼肉屋さんで送迎会までしてもらったんだから(笑)」
「ちょっと!やめてよ樹理!恥ずかしいじゃん…苦笑」
そんな微笑ましいやりとりを私は見ていた。ふと、店内の奥から声が聞こえた。
「……お客様、大変申し訳ありませんが、足をまっすぐにしていただけますか?」
そこには中年の男性客がふんぞり返って足を組んでいた。
店長の塩見が困ったような顔でやんわりと伝える。
「は?まっすぐしてるっしょ。大丈夫だから切ってよ」
「あの、お客様、足を組まれていますと姿勢が乱れてしまいますので。あとクロスから飛び出した足元に毛くずが付着してしまいますから」
「あー、ヘーキ!ヘーキ!気にしなくていいから早く切ってよ!」
「はあ……。わっかんねーかな?足組んでると、こっちが切りにくいんっすよ。素直に応じてもらって良いっすか?」
「は?なんなの?客に指図すんなよ!」
「申し訳ありませんが、これ以上の対応はできません。お帰りください」
「むっかついた!責任者は!?…店長出せよ!!」
「私が店長です。お引き取りください」
静かに、しかしはっきりと。
店長の塩見が表情を変えず、まるでフリーズドライのような接客で淡々と対応した。
店内の空気が一瞬止まったように感じた。
いのりは、ちょこんと椅子に座ったまま、思わずつぐみに話しかけた。
「あの、つぐみさん……すごいですね、店長さん」
「うん、そうだね。でも、昔よりは丸くなったんだよ?あれでも」
つぐみが苦笑する。
「昔はもっと怖かったんですか?」
「たまにいる理不尽なお客様に対して、みんなを守るために徹底的にやりあってたって感じかな。普段は優しいよ」
「美容師って大変なんですね」
「ううん、どんな仕事もそうだと思うよ。でも、接客業はお客様が第一なのはもちろんだけど、“お客様が偉い”って考え方は、ちょっと違うと思うんだ。限度ってあるよね」
鏡の中の自分を見つめながら、いのりは思った。
きっと、自分の親も、他の大人たちも、こんなふうに色んなことに耐えながら働いてるのかもしれない。
「美容師って、技術も接客も“人”が出る仕事だから。相手がどう受け取るかもあるけど、結局、自分がどう在るかが大事なんだよね。だからお客様を喜ばせるためには、噓も方便だったりするのよ」
「え、嘘をつくんですか?」
「そういう時もあるって話。でも、いのりちゃんの髪がきれいだなって思うのは本当よ?
お肌も透き通るほどきめ細かくて、かわいらしいし。ほんとにうらやましいんだから。若いっていいな。」
「ありがとうございます。うれしいです。つぐみさん。」
つぐみは笑った。
彼女も年齢的には20代後半。
決して若くないわけじゃない。
でも、その笑顔には年齢以上の経験と温かさがにじんでいた。
「いのりちゃんは、きっと今のままでも素敵よ。ちゃんと向き合っていれば誰とでも分かり合えるわ」
そんな話をしながら、美容室のひと時は過ぎた。
つぐみに、また次回も担当をお願いすることを伝えて、いのりは店を出る。
髪を整えた後、いのりはモール内のクリーニング店へ向かった。
自分とあずさの制服を引き取り、支払いを済ませる。
レシートは丁寧に自治会費の帳簿に回す予定。
必要経費として落とす。
会長である自分と、手伝ってくれた仲間のため。
そのあとモール内のファミレスへ行き、あずさと合流して制服を返した。
ふたりで笑いあうその席に、なぜかビシ九郎がいた。
「なんでビシ九郎がいるの?しかもめっちゃ美少女モードじゃん。大丈夫なの?」
「私がたまたま集会所の前を通ったときに、ビシ九郎に会ったんだ。これからいのりとサイゼニヤ行くって言ったら、“ワイも行く”って」
「そうなの? まあ、私は別にかまわないけど。でも…そんなに持ち合わせてないよ?」
「ワイのことは気にせんでええよ。ちゃんと区長からワイの小遣いが予算で工面されとるからな。でも奢るほど余裕があるわけやない。せやから割り勘やけどな(笑)」
「え、そうなの!?区から貰ってるのマジで?」
「せや。でもワイは一人でこういう人が多い大衆ファミレスに来るんは苦手でな。だから近所のコンビニばかりや。孤独にひっそり生きていたハクビシンやからやろか。せっかくもろた小遣いも使わなかったら返還せなアカン。やから一緒について来れてちょうどよかったわ」
と話しながら注文を終えると、それぞれドリンクバーへ向かった。
ドリンクバーに向かう途中、いのりは店内を見渡した。
店内には足を組んで食べている人がちらほら。
席に戻り、あずさとビシ九郎にいのりが語りかける。
「なんか……足組んでる人、意外と多いね」
「うん?どうしたの、急に。そういわれると確かに多いかもね。」
とあずさ。
「そもそも、飯食うときに足組むってどうなんや?普通は組まんやろ。」
と、ビシ九郎。
その流れで、さっき美容室であった出来事をいのりが話すと、あずさが答えた。
「美容室で足を組むの? さすがに私は組まないかな。なんか落ち着かないし」
「うん、私も組んだことないよ」
といのり。
「あ、飲食店でスマホいじりながらごはん食べたりすることはある。気を付けないとだね(笑)」
と、あずさがはにかむ。
「スマン、それはワイもや。反省やな。」
ふっと笑いが漏れたあと、あずさが少し真面目な表情で言った。
「でも……外国では普通なんじゃない?足を組むってそんなに悪いことなのかな。」
と、理解を示す意見も。
「たとえそうでも、ここは日苯や。そういう目で見られることもある。“世界がスタンダード”とか言うやつに限って、自分勝手で輪を乱すもんや」
「みんながみんな許容してくれるわけじゃないってことか。確かに怖い先生の前で足組んだら、怒鳴られそうだね」
あずさがぽつりと同意するように言う。
「せや。ワイも、たまに学校に潜入して休んだ生徒の給食もらって食べるんやけどな。
ある男子が飯食いながら足組んでたら、先生に“なにやってんだ!”って怒鳴られとった。あの空気、ピキピキやったわ。」
「授業中に足を組んでいたらもっと怒られそうだよね」
「結局な、相手への敬意ってのは、そういう姿勢に出るもんや。“私はあんたを下に見てませんよ”っていう態度。それが信用を生む」
「……ビシ九郎って、たまに本当に深いこと言うよね。美容室の店長もお客さんに、しっかりと向き合っているからこそ、そういう態度や姿勢に不快感を感じるのかも。」
いのりが美容室での出来事を分析する。
「ワイは、ただの受け売りや。皆本慎太もそう言ってたで。
監督の話を真剣に聞かないと、すぐレギュラー外されるって。
監督の前でヘラヘラしたり、ベンチで足組んだりしてたら、二軍に落とされて干される。そんで二度と一軍へ這い上がれなくなるんやってさ。
だから“話を聞く姿勢”も、プレーと同じくらい大事やって――。
この前、試合の解説に呼んでもらって、そのとき本人が中継中に言ってたわ。プロ野球はホンマに厳しい世界なんやて。」
いのりとあずさは、思わず顔を見合わせた。
「え、ビシ九郎……解説席にいたの?」
「せや。皆本が“空いてるから来いや”って呼んでくれてな。
実況の横でワイも聞いてた。さすがにしゃべらんかったけど、飲み物ももろたし、めっちゃええ席やったで」
確かにテレビ中継でビシ九郎が映っていたことを思い出すいのり。
「……ええと、それって動物NGじゃないの?」
「いや、そもそも部外者は立ち入り禁止でしょ…。」
「ワイは例外や。いのすけらの世界に生きとる、唯一の自治体所属ハクビシンやからな」
ビシ九郎は悪びれる様子もなく、ストローをチュッと鳴らした。
誰もその“潜入”や“皆本との関係”にツッコまない。
それくらい、彼の言葉には不思議な説得力があった。
そのとき、ふと美容室の帰りぎわ、つぐみが言っていたことを思い出す。
「足を組むなって、私も最初、無意識にやっちゃって先輩に叱られたよ。
お客様の前はもちろん、休憩中でも“見習いのくせに”って。
同期なんか、入社初日に入社式で足を組んでたら、幹部に怒鳴られたって」
「厳しいですね……」
「でもね、それで姿勢がゆがむと、腰痛とかになるんだって。長く美容師を続けるには、体をちゃんと使わないといけない。私は足を組む癖、意図的にやめたよ。今思えば、注意されてよかった。あれが私にとって大きな学びだった」
ただ叱られただけじゃない。
そこから自分を見直して、行動を変えていく――
つぐみのそういうところ、いのりは心から素敵だと思った。
注意されても、それを直そうとしない人もいる。
そういう人は、結果的に慢性的な痛みを抱えながら、いつまでも無理して働き続けるしかないのだという。
自分の心を守るプライドが、自分の身体を守れずに傷つけてしまう皮肉な話だ。
そんな話をしながら、あっという間に数時間が過ぎた。
帰り道。雛川の風が少し冷たくなってきた。
春とは言え、まだまだ冷える。
今日はなんだか、いろんなことを考えた。
髪を整えて、制服を受け取って、あずさと話して、ビシ九郎のド正論を聞いて。
でも、全部大事なことだった気がする。
姿勢って、誰かに見せるためのものじゃない。
でもきっと、自分の“あり方”が足元ににじみ出る。
例えば、高校受験の面接で、足なんて誰も組まない。
そりゃ落ちたくないから、誰もがきちんと背筋を伸ばして座る。
面接官だって態度が悪い生徒を見つけたら、その場で不合格候補にするよね。
つまり、足を組んでも良いって思われてる相手は、敬意を払わなくて良い相手ってみなされていること。
そう思うと、なんとなく……
今日、つぐみさんの前で背筋をまっすぐにして椅子にちょこんと座っていた自分を、ちょっとだけ誇らしく思えた。
つかの間の休日。2人と1匹?で過ごした午後。
夕陽に照らされた歩道の影が、3つ、長く伸びていく。
気づけばビシ九郎は、いつの間にか通常のハクビシンスタイルに戻っていた。
最後までご覧いただきありがとうございます。
今回は「足を組むこと」をテーマに書いてみました。
いのりは足を組まず、背筋を伸ばしてちょこんと座っていられる、育ちの良さがにじみ出る女の子です。
ちょっとした所作にも、彼女の真面目さや誠実さが現れています。
これからも、そんな彼女を温かく見守ってあげてください。