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第13話『 みなもとさんといっしょ』

新学期最初の週末。

ひながわ区民公園を訪れたいのりとけいじは、区主催の子供向け野球教室に参加します。

そこには、元プロ野球選手のレジェンド・皆本慎太の姿が。

来賓として招かれ、高齢役員に囲まれながら子供たちを見守る女子高生・いのり。

そんな中、別のテントに現れたのは──黒髪の超清純派美少女で…?

土曜日の朝。

団地の空気は、うんこ臭くないだけでなんて清々しいんだろう、と、いのりは久々に布団の中で深呼吸をした。

前夜の汚水事件から一夜明け、風呂と着替えを済ませた彼女は、ようやく人間としての尊厳を取り戻しつつあった。


「あっぶな……」


寝癖のまま歯磨きしていたいのりは、スマホの通知で今日の予定を見て、血の気が引いた。

「今日、野球教室ある日じゃん!しかも来賓で来いとか言われてたし!」


実は今日、区のスポーツ振興事業として、地域の子供たちを対象にした野球教室が開かれる。

元プロ野球選手を招いて、実際に指導してもらえる、子供にとっては貴重な体験だ。

弟のけいじも参加する。

保育園で仲良くなった同じ小学校の同級生から「一緒に行こう」と誘われたらしい。

その子のお父さんも野球小僧。

けいじはあまり興味がないらしいけど、初めての野球体験をしてくる。

台所で洗い物をしていた母親が振り返った。


「いのり、今日行ってくるの? 昨日の件でお風呂二回も入って、疲れてたでしょ」


「……行くっていうか、行かないと。他の自治会長さんも来てるのに……」


「ともりはどうするの?」


「あたしパス! そもそも来賓で呼ばれてないし、野球興味ないし」


母のきよのは土曜も仕事。

物流は年中無休でいそがしいらしい。

逆に言えば、いつでも自由に働けるメリットがあるみたい。

ともりは相変わらずスマホをいじっている。

いのりとけいじは野球教室へ出かける準備をしていた。

父・よしつぐも朝から仕事。給食センターも責任者はいろいろとやることが多くて大変らしい。

地元の自治会長は主催者から来賓として招待されてるのに、団地の会長が来てないってなったら、めっちゃ気まずい。

あまり興味ないけど、仕方ないから行く。

せっかく招待されているのに、誰も来なかったら主催者がかわいそうだ。

なんなら招待されても、仕事とか体調とか理由をつけて行かない自治会長もたくさんいるだろう。

だからいのりは「自分だけでも」と、変に責任感を感じていた。

彼女は即座に制服……ではなく、部屋干ししていた地味めの私服に着替える。


(昨日の汚水まみれで制服はクリーニング中。そらそうなる)


あずさは昨日の夜から返信がない。まだ寝ているんだろう。



けいじの手を引いたいのりが受付を済ませる。

ひながわ区民公園野球グラウンドは、朝から少年少女の熱気に包まれていた。

グラウンドに描かれた白線の先、ピッチングマシンの周囲には、ヘルメット姿の子供たちがずらりと並んでいる。

公園のすぐ横には鎖ヶ森中学校のグラウンド。

土曜練習の中学野球部が、物珍しそうにキャッキャしながらこちらを見ていた。


「みんなー!声出していこー!ナイスキャッチにはナイスボールやぞー!」


野球部員たちの目線の先にいるのは、元気で細身だけど、ガッチリ鍛え抜かれた50代くらいの男性だった。

スピーカーから軽快な関西弁が響く。


元プロ野球界のレジェンド──皆本慎太みなもとしんただ。


50代と思えない、現役の頃と変わらない軽快なフットワークでノックの打球をさばくその姿に、ちびっ子たちは歓声を上げていた。

ベンチ横に立てられた来賓テントのパイプ椅子で、冷たいお茶をごちそうになるいのり。

他の自治会長や主催者側の役員に囲まれ、一際若さが目立つ。


「お嬢ちゃん、知ってるかい? あの皆本慎太をこんな近くで見れるなんて、超ラッキーだよ!」


「そうそう。プロ選手だって皆本慎太に頭下げて、やっと教えてもらえるんだからな。現代の子供たちは本当にラッキーだよ」


やたらと野球に詳しいオジサマたち。


「……わぁ……すご……いのかな? 私、野球よくわかんないんですよね……」


「じゃあ、お嬢ちゃん。今度おじちゃんと野球観に行こうよ」


「やめなさいよ。あんたセクハラよ。奥さんに言いつけるわよ!」


ガッハッハ!と豪快に笑う年配の女性自治会長が、顔見知りの男性会長にツッコミを入れる。

そんな中、区のスポーツ振興部のテントに、驚くほどの美少女がいた。

サラサラのストレート黒髪で、超がつくほどの清純派美人だ。


「なんであんなキレイな娘が……」

いのりがふと見とれた瞬間、彼女と目が合った。

すると、彼女はひょこひょことこちらへやってきた。


「ワイやで、いのすけ」


「え? 誰? こんな美少女の知り合いいたっけ??」


「ワイや、ビシ九郎や。昨日会ったばかりやん」


現れたのは、人間の姿をしたビシ九郎だった。

しかも美少女バージョン。なぜかスケッチブックを片手に持っている。


「うわ! ビシ九郎!? なんで人間モードなの!?…てか、なにその今どき珍しい黒髪超清純派美少女は!? ……しかも、めっちゃスタイル良いんだけど……」


立ち上がった姿と、歩くたびに揺れる胸。

女でも惚れそうなくらい、圧倒的なビジュアルだった。


「これがワイ本来の姿や。意図的にこの姿を作り出してるわけやない。人間の姿になろうとすると、これがワイのベースになっとるんや」


あずさが「ビシ九郎は美少女になる」って言ってたのを思い出す。


「美少女になるって噂、本当だったんだ。その黒髪もめっちゃきれい……触っていい?」


「ハクビシンといえば、この黒髪やんな。いのすけと同じ、ピチピチのメスやでって言うたやんけ。触られて喜ぶ趣味はないけど、ええで。いのすけに比べたら、ちょっと滑ってるって感じるかもしれん」


スケッチブックを手に持った、ビシ九郎美少女バージョンの登場だった。


今日は島の外やから、自由やねん。それにしても鎖ヶ森はええところやな。皆本慎太が野球教室やるって聞いたから来てみたんや。みんなのビシ九郎はお休みやで」


ビシ九郎の手元にあるスケッチブックには、でかでかと


「本日はお休み中」


と書かれていた。


「それ、誰に向けて言ってるの?」


と、いのりが突っ込む。

その時、来賓席にいるビシ九郎に皆本慎太が気づいた。


「あっ、来てくれてありがとなー! ビッシー!」


皆本は、ビシ九郎の肩にポンと手を置いた。

元プロだけあって、細身に見えてもアスリートだった名残を感じる肉体だ。


「あ、スマンスマン。うかつに触ったら、皆本慎太がセクハラしてるやん! ってなるとこやった。妻と娘にも怒られるからアカンな」


「ええんやで、ワイらの仲やん」


「いやいや、今日だけはマスコットでいてくれや。マスコミにネタにされたら、週刊誌のおもちゃやで。解説の仕事がなくなってしまうやん」


「しゃーないわ。ほな、いつものビシ九郎モードになるで」


すると、ビシ九郎はいつものマスコット姿(九潮住民にとって)に戻った。

あっという間の出来事だったが、その光景を誰も不思議に思わないらしい。


「元に戻るんも、意外と疲れるんやで」


いのりはビシ九郎の変身に驚きつつ、横目に小声で問いかける。


「てかさ……知り合いなの? ビシ九郎と…皆本慎太……さん?」


「せやで。まぁ昔、ちょっとした勝負で知り合ったんや。あん時はワイの予想が完璧に当たってもうてな」


この「勝負」とは、競馬イベントでの出来事。詳細は、また今度。


グラウンドでは、野球教室の中盤が始まっていた。

皆本慎太のノックは、ちびっ子たちにもわかりやすく、かつ全力。

コーチの1人がこっそり言う。


「皆本さん、先週までギックリ腰で入院してたのに……。休めって言ってたんですけど、どうしても子供たちが待ってるって聞かなくて……」


その時、ノックを終えた皆本がグラウンドの真ん中で、子供たちに話し始めた。


「……昔な、俺がまだ新人だったころ大事な試合でミスしたことがあるんや。エラーばっかして、それでも監督がずっと使ってくれた。でも期待に応えられず、プロに入ってから、ずっと自分を責めてばっかやった。けどな、そんな俺を応援してくれる人がたくさんいてくれて……」


彼の目に、うっすら涙が浮かぶ。


「だからな、今こうして、ここで子供たちと野球できることが、俺にとっての“未来”なんや。ありがとうな。みんな」


グラウンドが静まり返る。

その言葉に、大人も子供も胸を打たれていた。


「皆本慎太……泣いてる……」


いのりが呟く。


「ワイな、慎太が涙を流したところ、見たん初めてやで。ほんまに、心の奥から絞り出すような涙やったな」


ビシ九郎の目も、少し潤んでいた気がした。



そんなこんなで、皆本慎太と子供たちの交流イベントは進んでいく。

区のスポーツ振興部は、こういう仕事もしているのだと、いのりは改めて感じた。


(公務員って、土日ゆっくりできるわけじゃないんだ。忙しそうだな)


と心の中でつぶやく。

午前中いっぱい続いた野球教室は、九潮団地の少年たちにとって夢の時間だった。

けいじも泥だらけになりながら、必死でボールを追いかけていた。

そんなけいじは、皆本からスローイングを褒められる。

そのセンスのよさに、


「ショートやってみないか?」


と声をかけられる。


「ぼく、野球は楽しいぞ! 野球選手、なってみないか?」


「ぼく、将来は電車の運転手になりたい!」


とニコニコで返すけいじ。


「そうか、鉄道会社にも野球チームあるからな、よかったら目指してや!」


と、けいじの夢と野球挑戦をひっそりと応援する皆本だった。


野球教室の最後は、記念撮影とサイン会。

皆本慎太のサインをもらう子供たちで長蛇の列ができていた。

その中に、けいじの姿もあった。


「いのりおねーちゃーん! 慎太さんにサインもらったよー!」


ぴかぴかのボールにサインを貰ってご満悦のけいじ。

子供たちに配るファンサービス用として、あらかじめ皆本慎太が用意していたらしい。

子供が投げても危なくないように、柔らかい素材のサイン用ボールにペンを走らせている皆本。


「おぉ、すごいじゃん!」


いのりは嬉しそうに握るけいじに頭をなでながら言った。


「あとぼく、ホームラン打ったんだよ! ちょっとだけ!」


ピッチングマシンのボールがたまたまバットに当たって、ポヨンと飛んだだけだったらしい。

でも、けいじは誇らしげに胸を張っていた。


「ええやん、未来の四番やで。どこの球団行くか、今から決めとき」


ビシ九郎が、そう言ってけいじの頭をポンと撫でた。


「ねえ、ビシ九郎。今日、皆本さん見て思ったんだ。私、別に……すごくないし、誰かの役に立てているかもわかんない。ただ来賓で見ていることしかできなかった。こんなに夢や希望を与えられる人っているんだね。」


いのりが、ぽつりと呟いた。

ビシ九郎は、畳んだスケッチブックを膝に乗せて、空を見上げた。


「それでも、自治会長をやると決めたのは、いのすけ自身やろ? 未来に残せるもんなんて、そんなに多くはない。けど、ここで生まれたつながりは、ずっと残るんや。ほんまにな。大丈夫。いのすけにしか持ってへんもん、ちゃんとあるで。」


「…ありがとう。ビシ九郎。」


そして、野球教室が終了の時間となった。


「皆本さん! ありがとうございましたー!!」


教室の最後、全員が整列してお礼を言う。


「みんな、またなー!これからも野球たのしんでー!」


と、あいさつのあとで解散となった

すると、皆本が子供たちの背後にいたビシ九郎を見て、ハッとする。

いつの間にやら、ビシ九郎(通常マスコットモード)の周りには子供たちが集まっている。

その子供たちに囲まれたビシ九郎がスケッチブックで、


≪きょうはつかれた。このあと、しんたとうちあげ。またね~。≫


とメッセージを見せていた。


「声に出すより、スケッチブックに書くほうが疲れない?」


いのりは小声で突っ込む。

子供たちに大人気のビシ九郎。

ビシ九郎も子供たちへのファンサービスが嫌いなわけじゃないが、普段集会所で引きこもっているのは、体力を使わず平穏に暮らすためなのだろう。

その瞬間、皆本慎太が大粒の涙を流して大号泣した。

ボロボロとガチ泣き。まさにボロ泣きだった。


「ううっ……なんでや……なんでや……」


スケッチブックを開いたビシ九郎が、黙ってページをめくる。


《今日は、よぉ泣くなぁ、慎太》


子供と大人で漢字を使い分けているらしい。

皆本は言葉にならず、顔を上げる。


「あかんねん。先日、シャークスのマスコットの中身やってた同級生が病気で亡くなったんや。」


≪知っとるで。テレビでもニュースになっとったな。≫


「 ずっと俺が現役中の時もシャー九郎として支えてくれてたんや。 まるで、そのシャー九郎が蘇ったのかと思ったわ」


皆本慎太が現役一筋で所属した東亰メザメルト・シャークスのマスコット、鮫巣サメの「シャー九郎」と、ビシ九郎の姿が重なって見えたそうだ。

最近のつらい出来事を思い出し――突然、涙があふれてしまった。

そりゃもう仕方ないだろう。

その皆本の涙を見て、ビシ九郎もまた、遠い記憶がよみがえった。


――あの日の声。


「ビシ九郎……ごめんね! ごめんね!」


毒餌を食べて死亡した、ハクビシンだった頃のビシ九郎を抱きしめて号泣する少女。


『サオリーーっ!! やめなさいっ!! 汚いから離れなさい!!』


「……あの子の親が、叫んでたな。サオリ、って……」


ずっと昔の遠い記憶。すっかり忘れていた少女の名前だけが、フラッシュバックする。


「…サオリ…。……なんか聞いたことある気がするわ……」


目を細めたビシ九郎の脳裏に、うっすらと声だけが蘇る。


けれど、顔は思い出せない。


「……もう、かなり昔のことやからなぁ……」


皆本は初めてビシ九郎に抱きつき、大粒の涙を流した。

泣き腫らした顔の皆本が、鼻をすすりながらビシ九郎を振り返る。


「すまんな……ビシ。こんな姿を見せて……」


「ええんやで。いつでもワイの胸に飛び込んできてや」


「アカンねん、そんなことしたら、将来、娘に結婚式呼んでもらえなくなるわ!」


冗談まじりに、少し笑顔が戻る皆本。


「そうや……今夜、試合の解説やるねん。中継席、空いてるか聞いてみるわ。よかったら、また来てや」


「VIP席やんけ……そりゃもう…」


≪もちろんいくで≫


スケッチブックには、皆本慎太の涙の痕と一緒に、そう書かれていた。


***


――その夜。


よしつぐがいつも通り、プロ野球の中継をつける。


「今日負けるとシャークスは最下位転落だよ!たのむよー!!」


と、ファンの魂を見せつける。

ホントはよしつぐも皆本慎太と交流したかったが、グラウンドに入れるのは応募した小学生限定。

遠くから見ているしかなかった。

いのりも普段は野球なんてほとんど観ないが、今日はなんとなく気になって観ていた。


「そういえば、今夜の解説って皆本さんだっけ。このしゃべっている人がそうなのかな?」


と、いのりが呟く。

すると、テレビ中継の最中に実況席が映った。

実況担当の隣には、皆本慎太が座っている。

そして、画面の隅っこに、皆本の隣に座る謎の美少女がしっかり映り込む。


「ぶっ……!」


それを見ていたいのりは、飲んでた麦茶を吹いた。


「おぃおぃ!なんだよ!あの美少女!」


と、よしつぐ。


「皆本、また浮気か!?いやアイドルか!?」


と、ネット界隈もざわつく。

だが不思議と、ビシ九郎が大きく話題になって、それ以上追及されることはないのだ。

これが、ビシ九郎の不思議な力なのだろうか。

とりあえず、皆本慎太が奥さんに怒られ、娘に軽蔑される流れは心配ないのだろう。


いのりの横にいたけいじが画面をのぞき込む。


「いのりおねーちゃん、あれ、ビシくろう? みなもとさんといっしょだね!」


きよのは皿を洗い、ともりは興味なさそうにスマホをいじっていた。


***


その頃、尾花家では――


「あの野郎……また勝手にテレビ出やがって……!!」


副会長・哲人もビシ九郎に持たせたスマホのGPSから察して中継を観ていた。

でも、解説席へ連れて行ってもらっているのは、これが初めてじゃないらしい。

球場の関係者口から実況席へ普通に入れているのだから、よほど根回しがあるのだろう。

――こうして、団地の異世界転生?地縛霊?のような存在である元ハクビシンのビシ九郎は、また一歩、表の世界へ進出するのだった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

今回は、皆本慎太がついに初登場。

そして、あのビシ九郎が“超絶美少女”として再降臨──!?

日常の殻を少しずつ破っていく「じちまかワールド」。

いのりの成長と、団地の変化をこれからも見守っていただけたら嬉しいです。

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