第111話『お願いします』
妊婦さんを助けたあの日から、いのりの周りには“期待”と“賞賛”の声が絶えず寄せられるようになりました。
役に立てた喜び。
でも、その裏側にある重さ、責任、そして胸の奥に静かに積もっていく不安。
そんな揺らぎを抱えたまま、いのりはひとつの「答え」を自分の中に見つけようとします。
今回の111話は、いのりの弱さと強さが最も強烈にぶつかり合う回です。
彼女がどんな決断をしようとしているのか。
それをどんな想いで口にしようとしているのか。
ひながわ水族館の青い光の中で、いのりと木澤の“これまで”と“これから”が、静かに、そして大きく揺れ動きます。
少し胸が痛くなるかもしれません。
どうか、いのりの物語を最後まで見届けてください。
六月の夕暮れ。
薄い雲がちぎれて流れ、オレンジ色の光が団地の外壁に縁取るように差していた。
湾岸から流れてくる風は、湿った夏の気配と、誰かの残した吐息みたいな重さを運んでくる。
妊婦を助けた日から、2週間が経った。
どこからか広まった噂、妊婦夫妻からの感謝。
いのりは何度も“ありがとう”を言われた。
自治会も学校も、地域センターも。
見知らぬ住民からも声をかけられた。
言葉を向けられるたびに表のいのりは微笑んだ。
でも、その笑顔の奥で何かが静かに軋んでいた。
「すごいね」
「立派だよ」
「これからも期待してる」
そう言われれば言われるほど、立派じゃなきゃいけない。
自分はもう、弱音を吐いちゃいけない。
胸の奥に硬い石が沈んでいくような感覚。
妊婦さんが震える腕で自分に縋ってきた瞬間を思い返すたび、背中に冷たい汗が流れる。
(あのとき、もし対応を間違っていたら……。もし助けられなかったら……。私、きっと……壊れていたかもしれない……)
思考がぐるぐると回る。
不安と責任と、少しの自分への疑念。
机に勉強道具を広げても、文字が目に入らない。
部屋の電気はついているのに、心の中ではずっと夕暮れのままみたいだった。
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そんなとき。
ポストに入っていた封筒が目に入る。
「九潮地区自治会長様:ひながわ水族館 視察用チケット」
チケットを手に取ると、海の模様が揺れて見えた。
光のせいじゃない。
自分の心が揺れているせいだ。
(……水族館。行ったの、いつ以来だっけ)
目を細める。
小学校の遠足で行った神奈河県の水族館。
遊園地に併設された国内有数のマリンパーク。
クラゲの光、イルカのショー、静かな水槽の青。
思い出すだけで胸が少しだけ温かくなる。
(役員に配っても余るくらい入ってる……)
チケットの紙が、指の間でしっとりと湿った。
そのとき、スマホが振動した。
画面に映る名前を見て、息が詰まる。
「滉平くん?」
LiNEメッセージを開く。
> 『いのりちゃん。ひながわ水族館の視察用チケットもらった?よかったら……二人で一緒に行かない?』
心臓が、胸を内側から叩いた。
痛いくらい、嬉しい。
(……滉平くんと二人……)
彼の顔を思い出す。
穏やかな声。
いつも心配してくれる視線。
だけど同時に胸が少し締め付けられる。
(行きたい……でも、このままじゃだめだよね……)
嬉しさと罪悪感が混ざって、息が浅くなる。
(私、最近ずっと甘えてばかりだった。恋に夢中になって滉平くんに心が寄りかかってた。自治会長として、ちゃんと立たないといけないのに!)
妊婦さんが倒れたあの時、自分は覚悟を決めたはずだった。
もう、泣きたくない。
誰かのために強くなりたい。
もっと、しっかりしよう。
なのに。
「……滉平くんと水族館、行きたいな……」
声に出した瞬間、胸が痛くなった。
恋に溺れて楽になりたい気持ちと、逃げたくない気持ちが同じ重さで心の中に沈んでいる。
スマホの返信画面を開いて閉じる。
何度も開いて閉じる。
言葉が決まらない。
送れない。
送りたい。
ベッドに座ったまま膝を抱えて深呼吸する。
頬が火照って、目の奥がじんわり熱い。
(視察なんだから自治会長同士で行ってもおかしくないよね。それなら行ってもいいじゃん……。でも……)
いのりの中で、ふたつの声がぶつかる。
行けば楽しい。
でも甘える。
また弱くなる。
また迷惑かける。
けど……好きな人と離れるのは……もっと怖い。
自分が何を望んでいるのか、自分がどうするべきなのか、答えがどこにも見つからない。
でも、ひとつだけ確かなことがあった。
「……私、このままじゃ、ダメだ……」
一線を引いて自分を律する。
自治会長として新しい形で立ちたい。
それは逃げじゃなくて、前に進むための覚悟。
(これで最後にしよう……。今日だけ。今日で終わりにするの。そしたら、私は……ちゃんと頑張れるから)
震える指で、返信を打つ。
> 『はい。行きます』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
嬉しさと、寂しさと、決意と、怖さがぐちゃぐちゃに混ざる。
でも、今日だけは。
最後の一日だけは。
(滉平くんに今までありがとうって、ちゃんと言わなきゃ……)
そう願いながら、いのりはスマホを胸に抱きしめた。
---
翌日。
休日のひながわ水族館には多くの子連れやカップルが訪れていた。
でも、いのりにとって水族館のエントランスは、昼下がりの海みたいに静かだった。
大きなガラス扉を通して差し込む光はどこか冷たくて、でもその下に立つ木澤の横顔は、不思議なくらい温かかった。
「いのりちゃん、こっち。」
軽く手を振られただけで心臓がふわっと跳ねた。
胸の奥が一瞬だけ軽くなる。
そして、すぐ重くなる。
(……今日で最後なんだ……)
その決意が、白い砂の上に落ちた影みたいに、つねに心のどこかに貼りついている。
チケットを渡すとき、指がほんの少し触れた。
その一瞬だけ、いのりは息をのんだ。
(……だめ……期待しちゃ……)
そう思うのに、涙の手前みたいな微熱が胸に漂い続ける。
---
クラゲ展示のフロア。
青い水槽に無数の小さな光が漂い、
世界がゆっくりと時間を遅らせていくようだった。
いのりは、水槽の前で立ち止まる。
「きれい……」
気づけば、声が漏れていた。
木澤も隣でクラゲを見つめ、優しく微笑む。
「いのりちゃん、こういうの好きそうだよね。」
「え……どうして……?」
「雰囲気。あと…なんとなく。」
“なんとなく”が嬉しい。
名前を呼ばれるだけで泣きそうになる。
でも泣いちゃだめだ。
心が揺れるたびに、決意も揺れる。
(……いけない、もう甘えないって……決めたでしょ……)
水槽の光が揺れるたび、いのりの胸の奥も揺れる。
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クラゲ水槽の青が2人を照らす。
木澤は、迷うように、でも優しく、
そっと手を差し出してきた。
いのりの胸が大きく跳ねた。
(どうしよう……このまま手を繋いじゃったら……私、もう引き返せなくなる……)
「……っ!」
反射的に、いのりは手を引っ込めてしまった。
木澤の指先が、空気を掴んだまま止まる。
「あ……ごめ」
謝ろうとした瞬間、
「ううん、大丈夫だよ。行こっか。次、イルカだよ」
木澤は気にしないふりをして微笑む。
その優しさが、いのりの胸を痛いほど締めつけた。
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イルカショーの席。
潮の匂いが少し混ざった風が吹いてくる。
木澤が、観客が混んでいるほうへ腕を伸ばし、
「危ないから、こっち側においでよ。」
そう言って、さりげなく自分のほうに寄せるように促した。
(……ずるいよ……そんなの……)
優しい。
優しすぎる。
優しくされればされるほど胸が痛くなる。
ショーが始まる。
イルカが大きく跳ね、光る水しぶきが観客席まで届く。
「わっ……!」
いのりの肩に冷たい水がかかる。
木澤が、自然にタオルを差し出す。
「大丈夫?風邪ひくよ。」
「……うん、大丈夫……ありがとう……」
言葉にすると、また胸が熱くなる。
(……これで最後にするって、決めたんだよ……なのに、なんでこんなに……離れたくないって思うの……?)
ショーではみんな笑っているのに、
いのりの心だけ、静かに沈んでいた。
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ペンギンの水槽。
ガラス越しにペンギンがよちよち歩く。
かわいくて、面白くて、いつものいのりなら思わず笑ってしまうはずだった。
「いのりちゃん、今日はいつもより静かだね。なんか無理してない?もしかしてまだ体調悪かった?」
「えっ……そうかな……?」
いのりは驚いて、無理やり笑顔を作って見せた。
「うん。その方が可愛いよ。」
木澤は笑ってみせた。
でもその瞬間、時が止まったようにも感じた。
耳が熱くなる。手が震える。
そして、胸が痛む。
(……だめ……その言葉……聞きたくないよ……そんなこと言われたら……“最後”になんて、できなくなる。)
距離は近い。
ほんの数十センチ。
でも、その数十センチが一生埋まらない距離みたいに感じる。
(滉平くん……私……どうしたらいいの……)
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二人はカフェに入り、静かな席に座る。
涼しい風が吹いて、少し落ち着く。
木澤がアイスコーヒーのストローを指でくるくる回しながら言う。
「最近、いのりちゃん……凄く頑張ってるよね。」
いのりの心臓が、また痛む。
助けた妊婦のことを思い出す。
役員や住民から言われた「感謝」の言葉。
責任感、焦り、自分への疑い。
(……ほんとは凄くなんかないよ……)
でも口には出せない。
きっと口に出したら
「そんなことないよ。」
って、言ってもらえる。
さらには
「誰よりも頑張っているよ」
なんて、微笑みながら労ってもらえるだろう。
そうやって笑い合えたら幸せだと思う。
本当なら頭を撫でてほしいなんて思ったりもしている。
だけど甘えたら離れられなくなる。
好きな人に依存して、自分で何も考えなくなってしまう。
そのまま大事なことを忘れて、自分が自分で無くなってしまう気がした。
「……ありがとう。」
いのりは、短いその一言だけを出した。
それ以上言えば、崩れてしまいそうで。
カフェの窓に映る自分の顔は、笑ってるようで、泣きそうだった。
(やっぱり、これが最後。今日だけは……恋してる私でいられるけど……ここから先は……ちゃんとしなきゃ)
決意が、また胸を締めつける。
暗い水族館の水槽から跳ね返る青い光がふたりを照らす。
その美しさとは裏腹に、いのりの心は静かに、痛みを増していた。
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ひながわ水族館の最深部。
天井まで伸びた巨大水槽の前は、人がまばらで静かだった。
青い光が、静かに揺れている。
水がきらめくたびに光と影が交互に踊り、まるで世界が海の底に沈んだみたいな感覚になる。
ここだけ、時間が遅い。
息を吸っても胸の奥まで届かない。
心臓だけが、不自然に速く脈を打っている。
木澤が、水槽を見上げながら
「いのりちゃん、来てよかったね。また二人で来ようか。チケットも余ってるし」
と微笑む。
あまりにも優しくて、胸がぎゅっと苦しくなる。
(……やめて。また一緒になんて言われたら断れなくなっちゃう……)
気づいたら、いのりは木澤の横顔をジッと見つめていた。
柔らかい光に照らされて、影が頬にかかる。
いつもの穏やかさがそのまま形になったような表情。
その横顔を、たぶん、もう近くで見ることはない。
そう思うだけで、呼吸が震えた。
木澤は気づかずに言う。
「最近のいのりちゃん、ほんとに頑張ってるよ。音楽祭のときも……すごかった。」
優しい声。
優しい言葉。
優しい人。
全部がつらい。
(……やめて。そんなふうに褒めないで。崩れちゃうよ……)
胸の奥の「最後」が、そっと疼く。
今日ここに来た理由を思い出す。
楽しい時間を過ごすためじゃない。
甘えたくて来たんじゃない。
今日で終わりにするためだ。
いのりはゆっくり息を吸った。
「……滉平くん。」
声が震えた。
自分でも驚くほど弱い声。
木澤が振り向く。
やさしい目で見てくる。
逃げられない。
「……今日ね、すごく、楽しかった。」
そう言うと、涙腺が一気に熱を持った。
胸が痛い。
でも言わなきゃ。
言わなきゃ前に進めない。
「クラゲもきれいだったし……ペンギンも笑っちゃうくらい可愛くて……イルカショーも……私……本当に……」
言おうとすると、声が喉でつまった。
楽しかった。
幸せだった。
でも言葉にすればするほど心が壊れる。
木澤が心配そうに覗き込む。
「いのりちゃん……?」
その優しさが、決意を強くする。
(……だめだよ。優しさに甘えたら……私はまた弱くなる。また壊れる。また迷惑をかける……)
いのりは拳をぎゅっと握りしめる。
手のひらに爪が食い込む。
そして、ゆっくりと言葉を落とした。
「あのね……これで、最後にしようと思ってるの。」
木澤の表情が、はっきり止まった。
青い水槽の光がふたりの間に揺れ、時間そのものが静まり返る。
いのりは続ける。
「今日みたいに、二人で遊ぶの……もう、やめようって……そう思って来たの。」
息を吸う音も、心臓の音も大きすぎる。
「私が自治会長をやっていることで救われた人がいて……自分でもびっくりするくらい、気持ちが変わった……。私……もっとちゃんと、しなきゃって。もう甘えちゃいけないって……本気で思ったの。」
木澤のまなざしが、ゆっくりと揺れる。
「私、ほんとに全然凄くなんかないの……。むしろ私の行動で、多くの人に迷惑もかけてきた……。正しいことだって思って行動しても……変な噂を流されて家族にも心配させて……。もう誰のことも傷つけたくない……そんなの私だけで十分すぎる」
いのりの声は震え続けている。
「だから……滉平くんに、これ以上……頼ってばかりじゃ……だめなの。……滉平くんにも、みんなにも……。きっと迷惑、かけちゃうから……。私、」
最後の言葉は、かすれて消えた。
自分の喉から出たとは思えないほど弱い声だった。
水槽のクラゲがふわりと漂い、その光がいのりの頬を伝う涙をうっすら照らした。
言ってしまった。
「だから私、……“木澤さん”とは明日から普通の自治会長同士に戻ります……。もう、これで最後にしてください……」
決別の言葉を。
もう戻れない。
戻りたくても戻れない。
木澤は、いのりを見つめたまま固まっていた。
表情が動かない。
呼吸も、言葉も、出てこない。
“失う痛み”が、木澤の胸にもゆっくり落ちていく。
巨大水槽の前。
青い光が揺れ続けているのに、ふたりの間だけは完全に静止していた。
いのりの「最後にしよう」という言葉が、木澤の胸の奥に、重い石のように沈んでいる。
しばらく何も言えなかった。
呼吸を整えるように、木澤はゆっくりと瞬きをした。
「……いのりちゃん。」
その一言には、驚きと、痛みと、理解と、決意が全部混ざっていた。
いのりは顔を上げられない。
涙が落ちそうで、落ちたら戻れなくなる気がした。
木澤は、いのりの前まで一歩近づく。
「……迷惑なんかじゃないよ。」
いのりの肩が小さく震える。
「俺、いのりちゃんに……一度でも迷惑だなんて思ったこと、ないから。」
声は震えていない。
むしろ静かで、強くて、揺らがない。
いのりは唇を噛む。
言い返せない。
言ったら泣いてしまう。
木澤は、いのりをじっと見つめた。
「それでも最後にしようって……本気で言ったの?」
いのりは少しだけうなずいた。
震えたまま。
「……うん……だって……甘えてたら……私が私でいられなくなるって……このままじゃだめだと思って……弱いままじゃ、いけないから……」
木澤は小さく息を吐く。
その言葉が、巨大水槽の青にゆっくり沈んでいった。
木澤は、息を飲んだまましばらく動かなかった。
そして、ゆっくり静かに、まるで何かを受け入れるように目を伏せた。
「……そっか。」
たったそれだけで、いのりの心臓がぎゅっと縮まった。
青い世界が急に遠くなる。
息が苦しい。
喉がひきつる。
胸の奥から冷たいものが広がっていく。
手の指先が震えて、視界の光が滲む。
木澤は続けた。
「たしかに……自治会長同士で、これ以上近くなるのは……よくないのかもしれない。」
その言葉が、矢みたいに心に刺さる。
自分が望んだはずの言葉なのに、 胸の奥が裂けるように痛い。
木澤は、水槽の青を見つめたまま、静かに言った。
「他の住民から贔屓してるって言われてもおかしくない。それが、いのりちゃんの負担になるなら……距離を置くべき、なのかもしれない。」
いのりの呼吸が止まった。
完全に自分から“切り出した言葉”が現実になっていく。
(……そう。……これでいいんだ)
自分で言った言葉だから何も言えない。
なのに反論したら、その瞬間に涙がこぼれる。
泣いたら、絶対に崩れる。
唇を噛んでも震えが止まらない。
木澤は、静かに続ける。
「……そうだよね。いのりちゃん……いや、風張さんの言う通り、“これで終わり”に……するべきなのかも。」
背中が折れるような痛みが走る。
いのりは、思わず目を閉じた。
涙が今にも落ちそうだった。
(風張さん……か。……ううん、これは私が望んだこと……。何を今さら……動揺しているの、私……)
心の中で叫びながら、言葉は喉で止まった。
クラゲの光だけが2人の間で揺れている。
「今までありがとう。風張さん」
「……うん。ありがとうございました、木澤さん……」
いのりは、目を閉じたまま動けなかった。
(……これで、いい……。これで、終わり……。でも……どうして……どうしてこんなに……苦しいの……?)
凍り付いた空気の中で、溢れそうな涙も完全に凍り付いてしまった。
このままどうやって帰ろうか。
何とも言えない空気感が、もう完全に終わったことを物語っていた。
二人の出会いから、たった数カ月。
短い時間ではあったけど、たった3年間しかない女子高生の青春、
いのりにとっては、貴重すぎる濃厚な時間だった。
そのかけがえのない時間。
好きな人に夢中になる幸せを学んだ。
そんないのりにとって、初めての恋が、今この場で完全に“終わった瞬間”だった。
さっきまで隣にいたはずの“好きな人”が、急に遠くの大人みたいに感じる。
その瞬間、木澤がふっと笑った。
悲しそうな、でもどこか決意の混ざった微笑。
そして
「……なんて、言うと思った?」
いのりは目を開いた。
木澤は一歩、彼女へ踏み込んでいた。
「たとえ自治会長として、その決断が全部正しくても。たとえ周りに何を言われても。それでも俺は、いのりちゃんを手放したくない。」
空気が震える。
さっきまでの“受け入れる態度”なんて微塵もない。
真っ直ぐで、逃げも隠れもしない目をしていた。
「これで終わり?無理だよ。そんなの……俺の心が許さない。」
沈んだ巨大水槽の青が、二人の間で揺れた。
「だから言うよ。」
木澤は、はっきりと言った。
迷わず。
揺らがず。
そして、いのりに向かってゆっくり手を伸ばした。
触れそうで触れない距離。
「……じゃあ、さ。」
青い光の中、木澤の瞳が強く光った。
「一緒に強くなればいいじゃん。」
いのりの呼吸が止まる。
「一人で抱えようとしなくていいよ。自治会のことも、未来のことも……。いのりちゃんの弱さだって、全部。」
木澤の指が少し震える。
「一緒に考えて……一緒に進めばいい。俺は逃げないよ。」
それは確かな声だった。
重荷を取り上げる言葉でも、甘えさせる言葉でもない。
“横に立つ”
と言ってくれる言葉。
「いのりちゃんはひとりじゃない。」
呼び方が戻った。
しかも、これまでで一番優しい。
「俺は……誰にも渡したくないんだ。君と、もっと近づきたいって……本気で思ってる。」
いのりの胸に温かい何かが広がる。
でも、その温かさに触れた途端、心がガラガラと崩れそうになった。
「滉平くん……やめて……。そんなこと言わないでよ……」
いのりも無意識に呼び方が戻っていた。
声が震えて、涙が落ちそうになる。
「私……今日で最後にするって……。頑張って……決めてきたんだよ……。自分で……ちゃんとしようって……。頑張って……」
木澤は、そっとその言葉を遮るように一歩踏み込む。
そして
「好きだよ、いのりちゃん。」
世界が、完全に止まった。
水槽の泡の音も、周りのざわめきも、
全部が遠くへ流れて消えていく。
「……うそ……」
いのりの目から涙がこぼれる。
「嘘じゃない。いのりちゃんのこと、同じ自治会長仲間じゃなくて、たったひとりの大事にしたい女性として見ている」
力の抜けた声。
自分でも制御できない涙。
「……そんなの……ずるい……。距離を置こうって……。覚悟してきたのに……。ずるいよ……滉平くん……」
膝が少し震える。
木澤が、そっとその手を取る。
しっかりと、でも優しく。
「ごめん。でも……このままいのりちゃんを手放すほうが……俺、ずっと後悔するから。」
涙が次々と落ちていく。
「うっ……ひっく……ふぇぇ……」
いのりは、そのまま木澤の胸に飛び込み泣き崩れた。
「……ずるいよ。……そんなこと言われたら。……私、滉平くんのこと何も考えずに信じちゃうよ?」
そう呟いた瞬間、いのりの全ての強がりが、青い水の中に溶けて消えていった。
「君のことは俺が守る。約束するよ」
負けた。
自分に。
気持ちに。
恋に。
そして木澤に。
「……やっぱり……。チョロいのは……私だ……」
泣きながら微笑むいのりを、青い光が静かに包んでいた。
その瞬間、いのりの世界は、一度壊れて、優しく繋ぎなおされた。
二人の距離は、もう誰にも引き離せなかった。
---
ひながわ水族館を出ると、夕暮れの風が手を握ったふたりを包んだ。
青だった世界が、今は淡い橙色に染まっている。
ひながわ区民公園の大きな池と広場が見えるベンチに腰を下ろすと、遠くから羽根場空港へ向かう旅客機のエンジン音が響いてきた。
空からゆっくりと飛行機が降りていく。
同時に街灯がひとつ、またひとつ灯る。
いのりはまだ涙の名残を目に抱えたまま、少し恥ずかしそうに下を向いていた。
沈黙は、苦しいものじゃない。
さっきまでと違って、柔らかくて、温かい。
木澤が、口を開いた。
「……いのりちゃん。」
その声に、いのりはそっと顔を上げる。
「今まで……ごめん。そこまで追い詰めてたなんて……ちゃんと気づいてあげられなくて。」
いのりは小さく首を振る。
「違うよ……私が勝手に……弱いとこ隠して、自分で抱え込んでただけ……」
「いや、違うんだ。」
木澤は夕陽に照らされた横顔をいのりへ向けた。
「俺が……いつまでもハッキリしないせいだよ。自分の気持ち、ちゃんと伝えなかったから。ずっと逃げてたから。」
いのりの胸が少しだけ熱くなる。
木澤は、真剣な顔で言葉を絞り出すように続けた。
「だって、いのりちゃん……絶対モテるって思ってた。真面目だし、優しいし、そして凄く可愛いし。俺が持っていないものをたくさん持ってる。正直……俺なんかじゃ釣り合わない……。他の男が放っておくはずないって……。こんな子に彼氏がいないなんてあるわけないだろって。ずっとそう思ってた。」
「……っ!」
いのりの目が丸くなる。
そして、涙の跡の残る顔で叫んだ。
「なにそれ……あたしのセリフなんだけど!!」
ぷくーっと膨れた顔で、木澤は呆気に取られた後、ふっと優しく笑った。
「……そうなんだ?」
「そうだよ!ずっと……滉平くんのこと……誰にも渡したくないって……思ってたのに……。周りの女の子がみんな滉平くんのこと狙ってるって言うから。私なんかが言えるわけないでしょ、そんなの……」
夕陽に染まったいのりの横顔は、泣きそうで、笑っていて、そして何より誰よりも愛おしかった。
木澤は、少し息を吸って、真正面からいのりを見つめた。
そして、もう一度はっきり言った。
「いのりちゃん、改めて言うよ。君のことが好きだ……。俺と……付き合ってくれないか?」
青く沈む空に、飛行機の機体が光る。
遠くで風が梢を揺らす。
いのりは胸の奥が熱くなって、目を閉じて、ゆっくり開いた。
そして、小さく、でも確かに頷く。
「……うん。……よろしくお願いします。……私も滉平くんのこと、大好きです…」
いのりは照れくさそうに俯いて頬の髪を耳にかける。
その瞬間、滉平くんがいのりの手を取った。
指と指がそっと絡む。
「ありがとう、いのりちゃん。そう言ってくれて嬉しいよ。」
その手は温かくて、震えていて、そして、離れない。
ふたりで見上げた空を、羽根場空港へ向かう旅客機がゆっくりと飛んでいく。
夕空を裂くように伸びた白い軌跡は、まるでふたりの未来を乗せて飛び立つ翼みたいだった。
いのりは木澤の肩にもたれながら、その光を静かに見つめた。
風が優しく吹き抜ける。
次の空へ、次の季節へ。
ふたりの物語は、ここから始まる。
第一部 完。
読者の皆様へ
第一部完結の最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
第111話は、第一部のクライマックスとして、いのりの“決別”と“再生”を描く、もっとも繊細で重たい回でした。
いのりが口にした「最後にしよう」という言葉は、強さからでも、潔さからでもなく、「弱さを見せちゃいけない」という彼女の真面目さが生んだ苦しい決断です。
自分で切り出した言葉なのに、それが現実になりかけた瞬間に胸が裂けるように痛む。
好きなのに離れようとする矛盾。
強くならないといけないのに、強がれば強がるほど崩れてしまう心理。
いのりはこの回で、初めて“ヒロインとしての感情の核”に触れたと思います。
そして木澤もまた、同じタイミングで追い込まれ、最後の最後で腹を括る男としての姿を見せています。
完全に“終わった”と思われたいのりの初恋は、ちゃんと「運命の赤い糸」で結ばれていました。
ほどけないように、二人の指にはしっかりと結び付けられています。
それぞれ辿った先には、ふたりがいるんです。
この111話で、いのりはもう「負けヒロイン」じゃなくなりました。
正真正銘の主人公ヒロインになりました。
第一部はここで一区切りとなりますが、物語はまだ続きます。
どうか、第二部も見守ってくれると嬉しいです。
そして最後に、ひとつだけお伝えしておきたいことがあります。
これまでの予告では「最終回」とお知らせしていましたが、
本当は――第一部の完結であって、物語そのものの終わりではありませんでした。
誤解させてしまった読者の皆さまには、お詫び申し上げます。
作者としては、111話で積み上げてきた伏線をすべて回収し、
美しく終わらせるつもりでプロットを組んでいました。
でも、書き進めるほどにどうしても思ってしまったんです。
「いのりの成長を、まだ見届けたい」
「もう少しだけ、彼女が幸せになっていく姿を書きたい」
「いのりの未来に寄り添いたい」
気づけば筆が止まらなくなっていました。
読者の皆さまが大切にしてくれているキャラの息遣いを、もう少しだけ一緒に感じていたいと思いました。
なので、物語はまだ続きます。
第二部の更新は少し先になりますが、時間をいただいた分、より深く、より優しく、そして第一部の数倍スケールの“雛川ワールド”をお届けするつもりです。
その前に、ずっと温めてきた じちまか外伝 を投稿します。
次の主役は、
・長岡つぐみ
・星詩帆
・そして、異世界から団地に舞い降りる悪役令嬢のリオス・ラルー・オーレンドルフ嬢(リオス嬢)
という、まさかの三本柱を予定しています。
配信時期は未定ですが、ご期待ください。
雛川区に悪役令嬢が転移してくるという、作者渾身の“狂気の一手”です。
ここからさらに世界が横にも縦にも広がり、じちまかは本当の意味で「世界観を持った作品」へと踏み込みます。
もしよければ「誰の物語をもっと読みたいか」、「第二部で見たい展開」、「気になるキャラ」
など、感想欄やメッセージで教えていただければ嬉しいです。
では、少しのあいだお別れです。
また近いうちに、雛川区でお会いしましょう。




