第108話『自治会長って、こんな時間まで働くものなの?』
夕方の西日が団地の駐輪場を照らしていた。
いのりたちは副会長の哲人、防災係の増居とともに、自転車整理に取り組む。
壊れた自転車、放置された自転車、そして行き場を失った住民の不満。
静かな作業の裏で、少しずついのりの心には疲労が積み重なっていく。
誰かを守るために動いても、全員を納得させることはできない。
それでもいのりは、一つひとつに向き合おうとしていた。
夕方の九潮団地。
117・119号棟の駐輪場は、鉄とゴムと汗の匂いが混ざっていた。
学校帰りのいのりは軍手を外し、腕についた黒い汚れをタオルで拭った。
「これで全部……かな」
防災係の増居がチェックリストをめくりながら頷いた。
「壊れてる自転車は撤去済み。ナンバーも控えました。バイクも新しいレーンへ移動完了です。」
副会長の哲人はメジャーを持ち、白線の位置を確認していた。
「ここ、子ども用自転車レーンで。一列すべて専用にしましょう」
いのりがチョークを握り、地面に新しい白線を描いた。
夏の残り香のような日差しがアスファルトに反射して、目がチカチカする。
一通りの作業が終わると、駐輪場は見違えるほど整然としていた。
いのりはロープを片付けながら、ふうっと長い息を吐いた。
「……やっと終わったね」
増居が笑って答える。
「久しぶりに“整理した”って感じだね。誰も文句言えない仕上がりだよ」
その言葉にいのりは笑顔を見せたが、心の奥ではまだ不安がくすぶっていた。
『誰かがまた文句を言ってくるんじゃないか。』
そんな予感が、ずっと胸の中で小さく鳴っていた。
哲人が腕時計を見て言った。
「今日の報告書、俺がまとめておきますよ。あとで自転車整理完了のチラシに反映しましょう」
「はい。じゃあ、お知らせ文は私が作りますね」
増居は自然とそう答えていた。
彼女の声は明るかったが、その裏で、身体はもう限界に近づいていた。
昼間の熱気と作業の重さがじわじわと蓄積し、背中の奥に鈍い痛みが残っている。
けれど、自治会長として弱音を吐くわけにはいかなかった。
「ちゃんと伝えないとね。みんなに」
そう呟いたいのりの横顔は、どこか張りつめていた。
整然と並ぶ自転車の列の向こう、彼女の心だけがまだ片付かないままだった。
ロープを片付け終えたところで、いのりが一息ついた。
「これで終わりだね。私は次の業務に向けた企画書を……」
と、言いかけたその時。
ガチャリ。
金属音を響かせて駐輪場のゲートが開いた。
強い足取りで入ってきたのは、ひとりの女性。
顔には苛立ちがはっきりと浮かび、手にはヘルメットを握りしめていた。
整然と並んだ自転車をぐるりと見回すと、 女性は突然、子供用自転車のかごにそのヘルメットを叩きつけた。
「これ、あなたたちがやったの!?」
いのりも増居も一瞬、声が出なかった。
哲人が前に出て落ち着いた声で答える。
「はい。お知らせしてあった通り、本日自転車整理を完了しました」
「自転車整理って何よ!?うち、まだ許可シールをもらってない自転車があるのよ!どうしたらいいの!?シールもらいに行きたいんだけど!!」
女性の声は駐輪場に響き渡った。
自転車のハンドルが小刻みに揺れ、風鈴のようにベルが鳴った。
増居が困惑した表情でいのりを見る。
いのりも返事ができず、ただその場に立ち尽くしていた。
その代わりに、哲人が冷静に問い返す。
「自転車所有数の調査書は提出されていますか?」
「は?出してないわよ。なんでそんなの出さなきゃいけないの?」
「提出していただけないと、許可を出すことができません。ご協力をお願いします」
静かだが、はっきりとした口調だった。
その瞬間、女性の顔がぐっと険しくなる。
けれど哲人は怯まず、真っ直ぐに相手を見据えていた。
「こちらから改めてお手紙を出します。お部屋番号とお名前を教えてください」
女性はため息をつきながら、短く号棟と名字を告げた。
「……117号棟のデラクルス!」
そう言い捨てるように自転車を引き、勢いよく駐輪場を出ていった。
「部屋番号言いませんでしたね……」
増居が呟く。
「あとで住民の名簿を確認すればわかるでしょう」
副会長も呆れたように言う。
残された空気は、まるで冬のように冷たかった。
いのりはその名前を聞いた瞬間、動きを止めた。
どこかで聞いたことがある。
頭の奥で、けいじの顔がよぎった。
「……あの人、けいじの同級生の親だ」
増居が驚いて目を丸くする。
「え、ほんとに?」
「うん……入学後のクラス名簿で見たことある名前。たぶんご主人が外国の人」
そう言いながら、いのりは視線を落とした。
指先が少し震えている。
身近な存在から向けられた敵意が、心にじんわりと突き刺さった。
「うちの号棟か。見かけたことがないから、総会も不参加で掃除当番にも出てこいない人だろう。」
哲人が言うと、増居が小さくため息をついた。
「なんかさ……駐輪場使ってる人ほど掃除当番出ないんだよね。逆に掃除してるのは自転車持ってない世帯ばっかり。そのくせ、あんな偉そうな態度で役員に当たってくるなんて」
哲人が静かに頷く。
「そうですね。だからこそ、ルールに従ってもらうしかない」
いのりは小さく
「うん……」
と答えた。
けれど胸の奥では、別の声が響いていた。
(どうして、わかってもらえないんだろう。こっちだって、みんなのためにやってるのに。)
午後の陽射しがゆっくりと傾き、駐輪場の白線が長く影を落とした。
いのりの瞳にも、わずかに疲れの色がにじんでいた。
怒鳴り声が消え、駐輪場に再び静けさが戻る。
風が、散らばったチョークの粉をさらっていく。
いのりは小さく息を吐きながら呟いた。
「……怖かった」
増居が肩に手を置く。
「もう、あんな人の相手しなくていいよ。書面で対応しよう。自宅に自転車の許可シール取りに来られても怖いし」
哲人は腕時計を見てから、カバンの中を探り、クリアファイルから一枚の紙を取り出した。
「……実は、前からこういうことが起きたときのために、準備してたんです」
紙を広げると、白地に黒文字で整った文面が印刷されていた。
タイトルは、太字でこう書かれている。
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住民の皆さまへのお願い
日頃より自治会活動にご理解とご協力をいただき、誠にありがとうございます。
最近、一部の方から自治会役員に対し、高圧的な態度(大きな声での発言・一方的な主張・恐怖を与える言動など)で意見や質問をされる事例が見受けられます。
また、掲示物への書き込みや、差出人不明の手紙の投函といった行為も確認されています。
さらに、役員の自宅を訪問される際に、扉の中へ入り込む、長時間居座るといった行動により、防犯上の不安を感じる役員もおります。
自治会役員も、皆さまと同じ住民であり、無償のボランティアとして地域のために活動しています。
役員に限らず、住民同士が敬意を持って、マナーある対応をしていただくようお願いいたします。
落ち着いてご相談いただければ、こちらも誠意を持って対応いたします。
「今後の対応方針」
・役員に対して高圧的な言動が見られた場合は、その場で対話を打ち切らせていただきます。
・その場で判断できないご要望については、自治会で検討のうえ改めてご連絡します。
・役員が恐怖や危険を感じた場合には、警察への通報・介入も辞しません。
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哲人は静かに言った。
「ほんとは、こんなの出したくないです。でも、こういうことが続くなら、もう“注意喚起”として掲示板に貼らないと。役員も住民も、怖い思いをしないようにするために」
増居が頷いた。
「……他の号棟の人に迷惑かける前にも、線を引くしかないね」
いのりは紙を見つめたまま、何も言えなかった。
(出来るなら、こんなもの出したくない。 でも、これを出さなきゃ守れない人たちがいる)
風が白線を揺らした。
その音が、いのりの胸に痛く響いた。
「私、掃除に出ない駐輪中利用者に掃除に出てもらうようにお願いするチラシ作ります」
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団地の窓という窓が次々と暗くなっていく中、119号棟の一室だけが小さく灯りを放っていた。
いのりとともりの部屋。
机の上にはノートパソコンと印刷途中のチラシ、 冷めかけたマグカップ。
そして、九紅AIのウィンドウが淡い青い光を放っている。
「……どう書けば、伝わるんだろう」
昼間の光景が何度も頭をよぎる。
怒鳴り声、叩きつけられたヘルメット、
無表情で去っていく女性の背中。
あれが弟・けいじの同級生の母親だと気づいた時の、胸のざわつき。
(きっと、悪気があるわけじゃない。ただ、理解してもらえてないだけ……)
そう思いたかった。
でも、怖かった。
自分の名前を、顔を、知っている人からあんな目で見られるのが。
いのりは深呼吸して、キーボードを叩いた。
「九紅AI、駐輪場を利用する住民さんに掃除に参加にするようにお願いするお知らせ文を作りたいです。トラブルを避けながら、住民の方に冷静に受け取ってもらえる内容にして」
画面が一瞬暗転し、文字が浮かぶ。
『“自転車利用者は駐輪場の掃除をお願いいたします。自転車を利用していない住民さんが中心になって駐輪場をきれいにしてくれています。ご理解とご協力をお願いいたします。なお個別の対応は公平性を保つため、控えさせていただきます。”はいかがですか?』
「……うーん、ちょっと冷たいかな」
彼女は文章を消し、言葉を足していく。
「“いつも駐輪場のご利用ありがとうございます”」
「“みんなでキレイに使えるように掃除にも積極的に参加しましょう”」
「“一部の方にはご不便をおかけしますが、ご理解ください”」
何度も打ち直しては、読み返す。
語尾を整え、フォントを変え、改行位置を調整して。
しかし、どんなに直しても「完璧な文」にはならなかった。
(……やっぱり、これじゃ伝わらないのかな)
パソコンの時計は、24時を過ぎていた。
外からは、風の音とエアコンの低い唸りだけが聞こえる。
同じ部屋のともりは、部活で疲れているのか、すでに眠りに落ちていた。
隣の寝室では家族が眠っている。
けいじの寝息がかすかに壁越しに伝わった。
「けいじの友達のお母さんに、嫌われたかもしれないな……」
ぽつりと漏れた言葉が、静かな部屋に沈んだ。
九紅AIが新しい提案を出す。
『“強い言葉を使わず、協力を促す文面を維持しますか?”』
「うん……お願い」
指がかすかに震えていた。
印刷ボタンを押すと、プリンターが低く唸り始めた。
紙が一枚、二枚と吐き出されていく音が、夜の静寂にやけに響いた。
彼女は肩を回しながらつぶやいた。
「毎度毎度……自治会長って、こんな時間まで働くものなの?」
自嘲のような笑みがこぼれた。
パソコンの光の中で、その笑顔は少しだけ寂しげだった。
机の隅に置かれた時計は、午前1時を指していた。
蛍光灯の光がじんわりと滲み、視界がぼやける。
まぶたが重くなっていく。
(あと少しだけ……あと一行直したら、寝よう)
そう思いながら、いのりは再び画面に向かった。
指先が動くたびに、AIの文字が新しく生まれる。
けれど、どこか遠くで警告灯が灯っていた。
(もう、休まなきゃ。)
それでも彼女は、画面を閉じなかった。
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薄明かりがカーテンの隙間から差し込む。
空はまだ白み始めたばかりで、街は眠りの名残を残していた。
いのりとともりの部屋。
机の上には、印刷しきれなかったチラシの束と、空になった紅茶のカップ。
パソコンの画面には「保存しますか?」の文字がぼんやりと浮かんでいる。
いのりは椅子に突っ伏したまま、目を開けた。
視界がぼやける。
喉の奥が焼けるように熱く、頭がじんじんと痛い。
「……朝?」
声に出すと、掠れた音しか出なかった。
昨夜の記憶が断片的によみがえる。
九紅AIと何度も文面を直して、印刷設定を変えて……そのまま意識が途切れた。
机の上のチラシに目をやる。
一番上には、彼女が最後に打った文面が印刷されていた。
『安全で快適な環境づくりのために、自転車利用者は月に一度の掃除当番に参加してください。皆さまのご理解とご協力が大事です。なお個別のご相談には公平性の観点から対応できない場合があります。』
自分の手で作ったはずの文。
それなのに、今見ると、どこか他人が書いたもののように感じた。
(……ほんとに、これでよかったのかな)
ベッドの時計を見ると、もう朝の6時を過ぎていた。
ともりは、まだ寝息を立てている。
外では、ラジオ体操のピアノが鳴っている。
けいじのランドセルの音が廊下から聞こえた。
「……いのりおねえちゃん、起きてる?」
けいじの声がドア越しにした。
「うん……起きてる」
そう返そうとした瞬間、頭がぐらりと揺れた。
全身の力が抜けて、視界の端が白くなる。
(あれ……体、動かない……)
倒れ込む音が、小さく響いた。
床に散らばる紙の音が重なり、静かな部屋に乾いた風が流れ込む。
ドアの向こうで、けいじの声が少し焦った。
「いのりおねえちゃん? ……おねえちゃん!」
返事はなかった。
それでも机の上のパソコンだけが、まだ光を放っていた。
九紅AIのチャット欄に、最後の文字が残っていた。
『おつかれさまでした。テキストを出力保存しておきますか?』
その光が、朝の陽ざしの中でゆっくりと滲んでいった。
この回では、自治会活動の中でもっとも繊細なテーマのひとつ「役員と住民の関係」を描きました。
感情的な意見、理不尽な言葉、それでも誠実に対応しようとする若い自治会長の姿は、現実でも決して他人事ではありません。
哲人が防犯チラシを見せる場面には、「守るためには時に厳しさも必要」という現実が込められています。
そしていのりが作ろうとするチラシには、「それでも対話を続けたい」という祈りのような優しさが残っています。
夜、自宅で九紅AIを使いながらチラシの文面を考えるいのり。
彼女の頑張りは誰にも見えない場所で続いていて、その静かな努力が、体を蝕んでいきます。
この回は“誰かを守るために無理をしてしまう人”に、少しでも寄り添えるエピソードになればと思っています。




