第107話『知らない子』
夕暮れの団地。
買い物袋を提げたいのりの胸に、言葉にできない不安が広がっていく。
淡い光と影の中で、彼女の心を揺らす出来事が静かに始まります。
それは、信じることの難しさと、すれ違う心の物語。
どうかいのりの小さな胸の鼓動を感じながら読んでください。
とある日の夕方。
団地のグラウンド脇を、いのりはスーパーの袋を提げて歩いていた。
母に頼まれた買い物。
中には牛乳とにんじん、それから値引きシールの貼られた鶏むね肉。
この時間でも薄着で温かい季節になってきた。
空は淡い茜色に染まり、コンクリートの壁が橙に反射している。
放課後の団地では、まだ子どもたちの笑い声が響いていた。
ボールを蹴る音。
遠くで母親の呼ぶ声。
その全部が、どこか懐かしくて、静かな夕暮れを彩っている。
(……最近、滉平くん、見てないな)
学食のバイトにも来ていない。
自治会のイベントにも顔を出さない。
LiNEは未読のまま。
いつもなら、「了解」とか「助かる」とか、すぐに返してくる人なのに。
(忙しいだけ……だよね?)
そう思おうとした。
でも、胸の奥で小さな不安がひっかかったままだった。
団地の角を曲がったとき。
ふと、前方に二人の人影が見えた。
街灯の下を並んで歩くシルエット。
男の人の背丈と髪の色が、見覚えのあるものだった。
(あれ……?滉平君?)
足が止まった。
風が頬をなでる。
目を凝らすと、男の人は木澤そっくりだった。
だけど、何かが少し違う気がする。
表情。
歩くリズム。
姿勢の保ち方。
木澤なら、もう少し肩を落として、話すときに少しだけ照れるような仕草をする。
けれど今目の前のその人は、どこか余裕があって、まるで“自分に自信のある人”みたいだった。
(でも、似てる……。すごく、似てる……)
違うような、でも違わないような。
そんな曖昧な感覚のまま、胸がざわざわと音を立てる。
そして、隣にいる女性に目がいった。
長い髪をなびかせ、淡いコートの裾が風に揺れる。
横顔を見た瞬間、息が止まった。
「あれ……ガトームソン葉弥……?」
テレビや映画で見ない日はない、国民的女優。
その人が、今、木澤の隣にいた。
街灯の光の中で微笑む姿は、まるで雑誌のグラビアの一枚のように美しかった。
葉弥は笑いながら、木澤の腕にそっと手を添えた。
あまりにも自然な仕草。
まるで、昔からの恋人のように見えた。
(……そんな、うそ)
喉がひりつく。
心臓がドクンドクンと暴れる。
木澤に彼女なんていないと勝手に思い込んでいた。
いつ木澤に彼女ができてもおかしくないとわかっていた。
でもその相手が、ガトームソン葉弥だなんて。
いのりが見入っていると、葉弥がふと彼女に気づいた。
「あら、ファンの子かしら?」
葉弥がふといのりの方へ視線を向けた。
けれど、いのりの困惑した表情を見て何かを察した。
(あの子……どこかで。)
ーーー
夕暮れの風が、髪をやさしく撫でていく。
ガトームソン葉弥は、団地の広場に立つ。
街灯に照らされた灰色の壁を眺めながら、ふと遠い日の光景が脳裏に浮かんだ。
九紅スタジアムの始球式。
嵐で強い風が吹いていたあの日。
別現場の仕事で東亰から遠く離れた場所にいた自分は、予定していた飛行機が欠航した都合で、どうしても現場に行けず、キャンセルするか代理を立てるしかなかった。
その代わりにマウンドに立ったのは、制服姿の少女。
レプリカユニフォームがブカブカで、キャップから飛び出す髪は乱れていた。
それでも、ぎこちない左腕から放たれた一球は、バウンドを繰り返して捕手へと届いた。
その瞬間、観客がどよめき、SNSがざわめいた。
「可愛すぎるJK自治会長」
「奇跡のサウスポー女子高生」
「キュートな左利き」
そのすべてが、あの日のガトームソン葉弥の名前を一瞬でかき消した。
「忘れられる痛みって、こんな感じなのね。」
でも、彼女を責めることはできなかった。
映像を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
その姿は、まっすぐで、嘘がなかったから。
「……思い出した。……ベニスタの視線を全部持っていった子。名前は確か……風張いのり」
小さく呟く。
自分の代わりにマウンドに立った少女。
自分の光を奪った。
でも同時に自分の代わりに夢を守ってくれた少女。
感謝と、嫉妬と、ほんの少しの憧れ。
それらが、今も心の底で渦を巻いている。
「やっと会えたわね。あの日の“私”に。」
ガトームソンの瞳が、いのりを捉える。
その奥に宿る光は、懐かしさと競争心がないまぜになったような、
複雑なきらめきを放っていた。
---
すぐに葉弥は優雅な笑みを浮かべて隣の男へ言った。
> 「ねえ、あの子……あなたの知り合い?」
その声に、木澤が軽く振り向く。
その横顔は、やっぱり木澤にしか見えなかった。
> 「いや……知らない子」
静かな声。
けれど、その一言が、いのりの胸を一瞬で凍らせた。
(知らない子……?)
視界がぐらりと揺れた。
冷たい風が頬をかすめる。
袋の中で氷の包まれた牛乳パックの水滴が滴る。
違う。
あの声、少し低い。
言い方も少し大人っぽい。
たぶん木澤じゃない。
頭ではそう思った。
けれど、心がそれを否定する。
(……でも、あの顔で、あの声で、“知らない子”なんて言われたら……。信じられないよ……滉平くん……)
胸の奥が熱くなり、目の奥がじんとした。
唇を噛んで、いのりは足元を見つめる。
滉平くんじゃない“かもしれない”。
でも、“そうであってほしくない”気持ちがそれを打ち消す。
(なんで……隠してたの?……どうして始球式のとき、ガトームソン葉弥と知り合いだって教えてくれなかったの?……私が知らなかっただけ?)
街灯の光がにじみ、世界の色が滲む。
息を吸いこもうとしても、喉の奥が痛い。
しかしガトームソン葉弥は、いのりの表情をじっと見つめる。
その瞳の奥に浮かんだのは、どこか既視感のような光。
(……この感じ。なんだか懐かしいわね)
風が吹き抜け、葉弥の髪が揺れる。
彼女は小さく微笑んで、隣の木澤に囁いた。
「行きましょう。……なんかまた、すぐ会えそうな気がするの」
木澤が軽くうなずき、ふたりは街灯の向こうへと消えていった。
夕暮れのオレンジの中、買い物袋を抱きしめるように胸に押し当てながら、いのりは立ち尽くしていた。
浜風のせいじゃなく、胸の奥から広がる“ざわめき”に震えながら。
---
自宅に戻ったいのりは、スマホを確認するも木澤へ送ったメッセージには既読がつかないまま。
一向に返信が来ない。
(……やっぱり、あれ、滉平くんだったのかな?
でも、声が……少し違った気もする。……でも、あんなに似てたんだよ……)
自分に言い聞かせるように、
そしてそのたびに心がぐちゃぐちゃになっていく。
思い出す。
街灯の下で見た笑顔。
あの余裕のある立ち姿。
ガトームソン葉弥の、自然すぎる笑み。
(あの人、本当に綺麗だった……。滉平くんにあんな人が似合うなんて、当たり前だよね)
胸の奥がちくちく痛い。
喉の奥に何かがつっかえたまま、息がしづらい。
(でも……私のこと“知らない子”って、どうして……。あれが本当に滉平くんなら……そんな言葉、言わないよね?)
スマホの画面がぼやけた。
涙が落ちる音が小さく響いた。
---
翌日。
いのりは目を腫らしたまま登校した。
あずさと楓がすぐ気づく。
> 「ねぇいのり、顔……大丈夫?」
「……寝不足」
「また自治会?」
「ちがう……」
声が少し硬い。
二人が顔を見合わせる。
「あー、恋愛関係だね」
「ち、ちがうってば!」
即答したけど、心臓がドキンと鳴る。
“恋愛”なんて言葉、いま一番触れられたくなかった。
あずさがにやにや笑いながら茶化す。
「でも、恋するとさ。見たくないのに、見ちゃうじゃん。信じたいのに、信じられない時あるよね」
「……そんなの、あるわけないじゃん」
そう言いながら、どこかで否定できない自分がいた。
---
放課後。
団地へ戻ったいのりは、玄関の前で小さく息をつく。
今日も木澤から返信はない。
その瞬間、未読のままだったトークルームが突然、“既読”に変わった。
そして、すぐにメッセージが届いた。
> 「ごめん、いのりちゃん。季節外れのインフルエンザでずっと寝込んでた。なんかスマホの電源も切れたままだったみたい」
>「大丈夫?最近、学食や自治会イベントに来てなかったのって……」
> 「うん、みんなに心配させたくなくて。お見舞いに来てもらって感染させたら悪いから。役員にも所用って伝えてた。でも、もう大丈夫」
画面を見た瞬間、心臓が跳ねた。
けれど同時に、ぐしゃぐしゃに乱れるような感情がこみあげる。
(……ずっと寝込んでた? 嘘……。だって、見たもん。ガトームソン葉弥と……。あれが滉平くんじゃないなら誰なの……)
画面の“既読”マークがじっとこちらを見ているように感じて、スマホを胸に押し当てた。
頭では“違うかも”ってわかってるのに、心が勝手にヤキモチを焼いて、どうしようもない。
(でも、滉平くんが嘘をつく理由ってある?……ないよね。滉平くんは、そんな人じゃない。……と思う。でも、私のこと“知らない子”なんて言われたら、信じられなくなる……)
目を閉じると、昨日の光景が蘇る。
葉弥が木澤に見えた彼の腕を軽くつかんだ瞬間。
あの距離。
あの空気。
思い出すたびに胸が熱くなって、息が詰まる。
(……なんでだろう。泣きそう)
—
部屋の机にスマホを置き直したいのりは、木澤からのメッセージを読み返して、思わず口をとがらせた。
「滉平くん……寝込んでた、って……本当かな」
ホットコーヒーに使った牛乳パックを冷蔵庫にしまいながら、声に出してつぶやく。
その口調は明らかにすねていた。
「っていうかさ……インフルで寝込んでた人が、ガトームソン葉弥と散歩なんてできるの?」
言ってから、自分でも子どもみたいだと思った。
でも、だんだん湧き上がる怒りが止まらない。
「私のこと、知らない子って言ったくせに……」
その一言を思い出すたび、胸の奥がムカムカしてくる。
「っていうか、なんで私がイライラしなきゃいけないわけ?悪いのは滉平くんじゃん!!」
スマホを机に置いて、両頬をパンッと叩いた。
「……ちがう!そうじゃない!もう、なに怒ってるの、私!」
自分で自分に突っ込みながらも、顔が熱くなる。
「だって……だって、あんなの見たら誰だって動揺するでしょ……」
そのあと、ため息。
(……滉平くんに八つ当たりなんて、絶対ダメだよ……)
そうわかっているのに、胸の奥のもやもやは消えなかった。
---
翌日。
団地の中央広場に、黒いロケ車が停まっていた。
スタッフが機材を運び、照明を調整している。
その中心に立つのは、長い髪の女優・ガトームソン葉弥。
昼下がりの光が眩しくて、風に乗ってスタッフの掛け声と機材の音が混じり合う。
葉弥は取材スタッフに微笑みながら、ふと視線を滑らせる。
そして、立ち尽くしているいのりを見つけた。
軽く目を細め、穏やかな笑みを浮かべる。
(あら……昨日の子?)
あの瞳。
あの繊細な揺れ。
見間違えるはずがない。
(やっぱり……すぐに会えたわね)
周囲に好奇心の目で集まった住民たちをスタッフが遮りながらテレビ番組の収録が始まった。
「九紅テレビです!本日、“君と、地元を歩こう。”のロケを行います!ご迷惑をおかけします!」
拡声器を持ったADの声が響く。
いのりが足を止めると、スタッフがカメラを設置し、照明の角度を確認していた。
番組のタイトル『君と、地元を歩こう。』。
芸能人が“恋人役”のゲストと共に、自身の生まれ育った街を巡る人気企画だ。
地元の名所や思い出の場所を紹介しながら、
ふたりが恋人同士のように寄り添って歩く。
そんな“恋人ごっこ”をテーマにしたトークバラエティで若者にも人気な番組である。
その声の先に立っていたのは、白いジャケット姿の女優、ガトームソン葉弥。
テレビで何度も見たことのある、あの柔らかな笑顔。
カメラが回り始めると、司会のタレントが軽快な挨拶とトークを始めた。
「では、ゲストをご紹介します。人気若手女優のガトームソン葉弥さんと東亰大学の現役学生タレント・木澤雄平さん!」
スタッフの声とともに拍手が起きた。
「本日は木澤さんの生まれ育った雛川区の九潮団地からお届けしていまーす!」
雄平は軽く頭を下げ、マイクを受け取る。
「ありがとうございます。僕の地元、こうしてまた来られて嬉しいです。
この団地は、弟とよく走り回ってた場所なんですよ」
「まあ、弟さんがいるのね」
ガトームソンが笑顔で返す。
「そうなんです。小さい頃は僕より元気で……弟のほうが女の子にもモテていました(笑)」
「今はどっちが人気かしら?」
雄平は肩をすくめて笑った。
「さあ、どうでしょうね。僕はどちらでも嬉しいです」
「あら、余裕のある返し。さすが東大生タレントさん」
「いえ、葉弥さんの前では誰でも余裕がなくなると思いますけど」
「あら、上手いこと言うわね」
ふたりの間に軽やかな笑いが弾け、スタッフからも小さな拍手が起きた。
カメラが回り、葉弥が軽く腕を組んで寄り添う。
「ねえ、このシーン、恋人っぽくしていい?」
「演出上なら、どうぞ。僕、慣れてます」
「ふふ、慣れてるのね?」
「ええ、“撮影で”なら」
そのやりとりが、まるで本物の恋人のようで。
スタッフが笑い、現場が一層明るくなる。
そして、それを見ていたいのりの心は穏やかではいられなかった。
(……木澤、雄平?)
頭の中が真っ白になった。
聞き慣れた“木澤”という名前。
でも“雄平”は知らない。
(あの人……滉平くん……じゃないの?)
雄平はカメラに向かって、落ち着いた口調で話す。
「ここも懐かしいですね。子どもの頃はこの公園で日が暮れるまで追いかけっこしてました」
その瞬間、胸が痛くなった。
木澤もいつか似たようなことを話していた。
でも“兄弟がいる”なんて言葉、聞いたことがなかった。
スタッフが笑い、司会のタレントが雄平にマイクを向ける。
「雄平さん、弟さんもいらっしゃるってことでしたね」
「ええ、双子なので同じ顔してるんですよ。名前も滉平って言うので、よく間違われます(笑)」
「なら私が狙っていいですか?」
ガトームソン葉弥が肉食系女優のような返しで笑いを誘う。
それを聞いて雄平が照れ笑いを浮かべる。
その笑顔は、木澤にそっくりだった。
(……滉平君に双子のお兄さん?……もしかして、あの時に見たのは雄平さんの方……?)
いのりは、もともとテレビをあまり観ないタイプだった。
恋愛ドラマやバラエティ番組には関心がなく、“誰が誰と付き合っている”といった話題にもほとんど興味を示さなかった。
他人の恋愛を眺めるより、自治会の議事録をまとめている方が落ち着く。
そんな性格だから、芸能界の話題にも疎かった。
九紅テレビの人気番組『君と、地元を歩こう。』がSNSやGOTUBEでバズっていることも、いのりは知らなかった。
芸能人が恋人役のゲストと地元を歩き、まるで本物のカップルのように見せる“恋人ごっこ番組”。
若者の間ではトレンドになっていたが、いのりにとってはどこか遠い世界の話だった。
だからこそ、木澤滉平に“東大生タレントの兄がいる”なんてことも知らなかった。
真実を知ったいのりは、安堵すると同時に頬が熱くなる。
勘違いして怒ってた自分が恥ずかしくて、その場から逃げ出したくなった。
収録を重ねながら、合間でガトームソン葉弥が雄平の腕を軽く掴み、顔を近づけた。
「ねぇ、この角度だと逆光ね。もう少し寄ったほうが映えると思わない?」
カメラマンは頷く。
「なるほど。じゃあ、ここで立ち位置を確認しておきましょうか」
「そうそう、私がこうやって手を添える感じで」
その仕草があまりにも自然で、まるで恋人同士みたいだった。
笑顔で話す二人。
「下見で事前に収録コースを回っておいてよかったですね。時間帯で日の当たり方もまるで違う」
雄平が言うと
「そうね。台本通りとは言え、あまりベタベタしすぎて週刊誌に好き勝手書かれるのが心配だけど」
と笑う葉弥。
その言葉に、いのりは思わず顔を上げた。
(……下見?)
ディレクターがスケジュール表をめくりながら話す声が耳に入る。
「今日の流れ、バッチリでした。葉弥ちゃんさすが女優さんだね!見てるこっちがドキドキするよ(笑)」
(え……じゃあ昨日見たのも……?)
街灯の下で並んで歩いていた、あのふたりの姿。
あれは“デート”じゃなかった。
たぶん、このロケのための事前視察。
(……私、勝手に誤解して怒ってたんだ)
恥ずかしさが一気に込み上げて、頬が熱くなる。
胸の奥がじんわりと温かくなって、目の奥が少し潤んだ。
(滉平くん、ほんとに……嘘ついてなかったんだ)
ガトームソンがスタッフに笑顔を向ける。
「雄平、さすがね。落ち着いてる」
「ありがとうございます。こう見えて、慣れてるんで」
「あら、普段から大学でも女の子に囲まれているってことかしら」
微笑むふたり。
その穏やかなやりとりを見つめながら、 いのりの胸の中で、ようやく重たい霧が晴れていった。
でも次の瞬間、ガトームソン葉弥の目が、確かにいのりを捉えた。
葉弥の笑顔が、一瞬止まる。
(ふふ……やっぱり。彼のこと、勘違いしているみたいね)
心の中で、ガトームソンは小さく笑った。
その微笑みの奥には、
“試してみたい”という小さな好奇心が光っていた。
ほんの一瞬だけ、目の奥に複雑な色が宿った葉弥がスタッフに
「すみません、少しだけ休憩させてください」
と告げ、彼女はゆっくりといのりの方へ歩み出した。
---
「こんにちは。可愛らしい自治会長さん。……また会えたわね」
いのりの肩がびくっと跳ねた。
近づくガトームソンは、画面で見るよりもずっと綺麗だった。
けれど、その美しさの奥に、どこか鋭いものがある。
「え、えっと……」
「あなた、覚えてるわよ。あの始球式のときの子でしょ?」
(……え?)
「代役で投げてくれたでしょ? 私の代わりに」
(本当なら、あの日マウンドに立っていたのは私だったはずなのに……)
葉弥の何か渦巻く言葉に、いのりの心臓が止まりそうになった。
約2ヶ月前、九紅スタジアムの土の上でボールを投げたあの日。
本来はガトームソン葉弥が登場予定だった。
でも、急遽彼女が台風による飛行機の欠航で出演できず、“地元の女子高生自治会長”として代役でマウンドに立った。
そのことを、本人が覚えていた。
「あの時の、あなた……最後まで笑って投げてた。覚えてるわ」
「……っ……」
「まさか、またここで会うなんて思わなかったわ」
葉弥の瞳がいのりの奥を覗き込むように光る。
柔らかい笑顔なのに、どこか試すような、
底知れない感情が見えた。
「雄平のこと、弟君から聞いてる?」
「え……」
「あなたが投げた日、雄平の弟もずっとスタンドで見てたわよね。あなたと手をつないでた。同じ顔だからわかるわよ」
「っ……!」
いのりの頭が真っ白になる。
「……どうして、そのことを……」
「ネットで有名になっているわよ。あと雄平に聞いたの。滉平くんだったからしら。彼、あなたの話をしてたわよ。“弟”が夢中になっている子がいるって」
その言葉の“弟”の部分が、なぜか胸に刺さる。
「滉平くん……雄平さんの弟、なんですね」
「ええ。私は弟君と面識ないけど。……でも、あなた、兄弟の存在に気づいてなかったのね?」
ガトームソンの声は優しい。
けれどその奥には、“わざと”を感じた。
「まあ、無理もないか。雄平は実家を出て事務所が用意したマンションに暮らしているし」
「そうだったんですね……。滉平くんから何も聞いてなかったから」
「ふふ。あのとき、あなた……弟くんのこと、恋してる乙女の顔してたわね」
「……っ!」
風が吹いて、いのりの髪が揺れた。
言葉が出ない。
視界がぼやける。
「あなた、わかりやすいわね。……意地悪したくなる。でも、そういう気持ち、嫌いじゃない」
微笑みながら、葉弥は撮影現場を見ると
「そろそろ戻るわね。可愛いらしい自治会長さん?」
彼女は振り返る前に、小さくいのりに囁いた。
「雄平の弟なら大丈夫よ。信じてあげて」
スタッフが再び声をかけた。
「撮影、再開します!」
その一言が、
まるで“試験の答え”のように
いのりの胸に突き刺さった。
---
その日の夕方。
空は朱色に染まり、団地の影が長く伸びていた。
いのりは団地の中央広場のベンチに座っていた。
胸の奥にずっと残る言葉――
> 「雄平の弟なら大丈夫よ。信じてあげて」
あの瞬間から、何度もその言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
信じたいのに、どうしても素直になれない。
ヤキモチと恥ずかしさと、ちょっとした後悔が混じり合って、心がまとまらない。
スマホを開くと、木澤からメッセージが届いていた。
> 「体調、だいぶ良くなった。来週から学食バイトも復帰するよ」
画面を見つめながら、いのりは唇をかんだ。
(滉平くん……今すぐ会いたい。なのに、どうしよう。勝手に怒ってたの、知られたくない……)
指が勝手に動く。
> 「うん。会えるの楽しみにしてる」
たったそれだけを打って、送信した。
---
その日の夜。
いのりが集会所で書類を整理していると、ドアがノックされた。
「いのりちゃん、入っていい?」
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
顔を上げると、マスクを外した木澤が立っていた。
白いシャツに黒のジャケット。
風で髪が少し乱れている。
「滉平くん?どうして」
「病み上がりのリハビリ。コンビニのポストに申請書類を出そうと思って。近くまで来たら、いのりちゃんが集会所にいるのが見えたから」
彼はそっと書類をテーブルに置いた。
そして、真っ直ぐこちらを見る。
少しだけ笑うけど、その表情は真剣だった。
「いのりちゃん、兄貴と……会った?」
いのりはハッとして頷いた。
「うん……ガトームソン葉弥さんと撮影してたよね。なんかロケの前に一緒にいるところも見かけた」
「やっぱり」
木澤は苦笑した。
「兄貴から聞いたんだ。ガトームソン葉弥さんと事前ロケしてるとき、自治会長の女の子と会ったって。もしかして自治会やってる滉平の知り合い?って連絡来てさ。いのりちゃん俺と兄貴を勘違いしていないかなって心配になった」
「……うん。ちょっとだけ」
「ごめんな。俺も連絡できなくて」
「……私も、ごめんなさい。何も知らなくて」
「あいつ、東亰大学の学生でテレビの仕事もしててさ。“地元ロケする”って聞いてたけど、まさか九潮団地でやるとは思ってなくてさ。」
「……すごい人なんだね。東大生で、テレビに出てて。ガトームソン葉弥さんとも親しそうだったし」
「まぁ……昔からそうだったよ。俺より勉強も運動もできて要領も良い。俺とは正反対さ」
「そんなことないじゃん。私からみたら滉平くんだって十分凄いよ」
思わず口から出てしまった。
木澤が目を丸くする。
いのりは慌てて言葉を継いだ。
「滉平くん、ちゃんと人の話聞いてくれて、みんなに優しくて。私、そういうところが大好き。」
最後の“大好き”が、どうしても止められなかった。
声が震えて、顔が真っ赤になる。
木澤は一瞬固まったあと、ゆっくり笑った。
「ありがとう、いのりちゃん」
その言葉が、すべての誤解を溶かすように優しかった。
いのりは居ても立っても居られなくなり本音を漏らした。
「……実はね、あのとき、滉平くんにすごく怒ってたの」
「え、俺、何かした?」
「してない。……私が勝手に怒ってたの。 寝込んでたのに、ガトームソン葉弥さんと歩いてたんだ?と思って」
「それ、俺じゃないよ……」
「わかってる。でも、あの時はもう頭の中ぐちゃぐちゃで。」
「ふふ、いのりちゃん可愛いな」
「可愛くない!」
いのりがプクーっと膨れると、ふたりの間に、少しだけ笑いがこぼれた。
木澤は続けた。
「ガトームソン葉弥さんとも話したんだって?」
「うん……始球式の話とか」
「そっか。……俺も兄貴がガトームソンさんと親しいって知らなかったんだよね。ガトームソンさんが話していたらしいよ。悔しいくらい“代役の子、すごく頑張ってた”って。少し前に兄貴が言ってた」
「え……」
「たぶん、それがいのりちゃんのこと」
いのりは言葉を失った。
あのときの努力が、ちゃんと誰かに届いていた。
胸が熱くなった。
「……嬉しい」
「俺も嬉しいよ。だって、あの日の写真、ちゃんとスマホにあるもん」
「えっ、撮ってたの!?」
「うん、当たり前じゃん。すげー頑張ってたし」
恥ずかしさと嬉しさが一気に込み上げて、いのりは俯いたまま小さく笑った。
---
外の風が吹き抜け、
カーテンがふわりと揺れる。
「滉平くん」
「ん?」
「……あのね、私、すごく情けないんだけど……」
「?」
「雄平さんがガトームソンさんに私のこと“知らない子”って言ってたのが聞こえちゃって。……すごくショックだったの」
「え……?」
「滉平くんと違うかもしれないって、頭ではわかってたのに……あの顔で、あの声で“知らない子”って言われたら、信じられなくなっちゃって。それで……勝手に怒っちゃって、落ち込んで」
滉平は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく息をついた。
「……そうだったんだ」
「……うん」
「俺、いのりちゃんのことを“知らない子”なんて言わないよ。兄貴とは違って、俺は人の顔覚えるの得意だからね」
その冗談に、思わず笑ってしまった。
同時にいのりの目に涙がにじむ。
「いのりちゃんがそんな風に感じてたなんて、気づかなかった。ごめん。ちゃんと双子の兄貴がいるって言っておけばよかったね。もし俺にそんなこと言われたら……やっぱり悲しいよな」
いのりは目を潤ませながら、うなずいた。
「……悲しかった。でも、もう大丈夫。ちゃんと話せてよかった」
滉平は少し笑って、いのりの頭をそっと撫でた。
「俺も、ちゃんと話してくれて嬉しいよ。いのりちゃんが泣くの、もう見たくないから」
その空気の中で、木澤が静かに言った。
「いのりちゃん」
「……?」
「信じてくれて、ありがとう」
「……ごめんなさい。最初は信じてなかった。疑って、勝手に怒って……」
「でも、今は信じてくれてるでしょ?」
「……うん」
木澤が優しく笑う。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で“何か”がほどけた気がした。
(私、もう大丈夫だ。滉平くんのこと、ちゃんと信じられる)
ガトームソン葉弥の言葉が、ようやく意味を持って響いてくる。
> 「雄平の弟なら大丈夫よ。信じてあげて」
いのりは小さく呟いた。
「……本当に、大丈夫でした」
木澤は首を傾げて笑う。
「何それ、急に」
「なんでもないです」
木澤は、いのりの言葉を聞いたあと、少しだけ視線を落とした。
「……実はさ」
「うん」
「いのりちゃんに兄貴のこと、ずっと言えなかった理由……あるんだ」
いのりは静かに頷く。
「あいつ、小さいころから何でもできた。勉強もスポーツも、人付き合いもうまくて。
家族も先生も、みんな兄貴を褒めてた。同じ双子なのに、俺より多くのものを持ってた」
「……」
「俺が何しても“雄平の弟”で。ずっとその影から抜け出せなかったんだ」
「……滉平くん」
「だからさ……いのりちゃんが初めて、“俺”を見てくれた人だったんだ」
木澤は少し笑った。
でもその笑顔はどこか切なかった。
「いのりちゃんに兄貴の話を出したら、また“比べられる”気がして。それに……」
「それに?」
「……兄貴に、いのりちゃんを取られたくなかった。」
空気が止まる。
いのりは一瞬、息を忘れた。
「え?そんなの……取られるわけないのに」
「わかってる。自分でも変なこと言ってるって。でも、そう思っちゃったんだ」
「……滉平くん」
「いのりちゃんは凄く魅力的だよ。だから兄貴が放っておかない気がして。」
「私はそんなにチョロくありません!」
いのりが微笑む。
二人の間に、あたたかい沈黙が流れた。
外の風がカーテンを揺らし、
蛍光灯の光が二人の影を重ねていた。
(やっぱり、滉平くんが好き。どんなに不器用でも、この人が私の“大好きな滉平くん”だ)
団地の草むらで鈴虫が鳴く。
風が団地の屋上を抜ける。
その穏やかな音の中で、いのりの心は安堵に満ちた。
あの日の不安も、誤解も、もう遠い。
代わりに心に残ったのは、信じる勇気と、少しだけ大人になった自分の鼓動だった。
今回登場したのは、人気女優・ガトームソン葉弥と、滉平の双子の兄・木澤雄平。
“知らない子”というたった一言が、いのりの心を大きく揺らしました。
恋愛における誤解は、誰にでもある。
相手を信じたいのに、目の前の現実がそれを許してくれない瞬間。
いのりはその痛みを知り、そして乗り越えました。
葉弥は表向きはスターだけれど、内面では“忘れられた痛み”を抱えていた。
雄平は輝く兄として、滉平の影を象徴する存在でもある。
三人の出会いは偶然でありながら、それぞれの心を映し出す鏡のようでした。
今回のエピソードは、嫉妬や誤解の中にも“信じる力”が芽生えていく過程を描いています。
滉平の「俺はいのりちゃんのことを“知らない子”なんて言わないよ」という言葉は、ふたりの信頼関係の象徴になりました。




