第104話『この団地で平穏に暮らしたいなら』
今回のお話は、いのりにとってひとつの“限界点”を描いた回です。
誰かのために動くことが、いつのまにか自分を追い詰めてしまう。
そんな経験をしたことがある人には、少し胸が痛む内容かもしれません。
けれど、それでも前に進もうとするいのりの姿を見て、「責任」や「正しさ」について、もう一度考えてもらえたら嬉しいです。
6月の初夏。
小雨で肌寒い夕方の空は薄暗く、九潮団地の壁を乱層雲の影が覆っていた。
風張いのりは119号棟の自宅から、湿った風に混じる大きな笑い声を聞いた。
その声は、117・119号棟敷地内の共有集会所の方角からだった。
共有集会所。
117号棟・119号棟と120号棟が合同で管理する施設で、東亰都住宅提供公社(JTK)が住宅と一緒に住民へ提供している。
自治会の規定により、使用希望者はホワイトボードの日程表に先着で予約を書き込む仕組みになっている。
この日も、スケジュール表には「120号棟自治会」としっかり記載されていた。
つまり、申請の形式的には問題ない。
けれど、利用者達の声の大きさと響き方が、どう考えても普通ではなかった。
いのりがベランダからのぞき込むと、開かれた集会所の扉から漏れる宴会の盛り上がりが耳に突き刺さるように響いてきた。。
「なにこれ……めちゃくちゃうるさいんだけど……」
カーテンの隙間から漏れる明かりの中で、大勢の影が動いている。
まるでお祭りのような、尋常じゃない歓声が夕空に弾けていた。。
ガラス戸の外には子供載せ自転車がずらりと並び、集会所から出入りする子どもたちが、追いかけっこをして集会所の周りを駆け回る。
小学生だけでなく、未就学の子供たちも野放しにされている。
団地敷地内の地面は小雨でぬかるみ、水滴を纏った雑草に足を取られやすくなっていた。
「……それに子供たち、滑って転んだら危ないよね」
思わず独り言が漏れた。
小さな靴がアスファルトを叩く音。
そのすぐ後ろで灰皿を囲うように、缶チューハイを片手にした大人たちが笑っている。
薄暗い集会所の脇でタバコの煙が霧のように白く曇り、手に持ったカップからアルコールの匂いが風に混ざった。
いのりは通路の手すりに手をかけて、下を見下ろした。
敷地内の通路に数十人。
子どもだけじゃない。
よく見れば、親も一緒になって外で走り回っている。
公園でもない、団地内の私道に面したすぐ横。
自転車や宅配業者の車もひっきりなしに通行する。
弟のけいじも小学校から
「道路で遊ぶな」
と普段から指導されているくらい。
目を凝らすと、道路に飛び出す影。
ギリギリのところで配送車がブレーキをかけ、運転手が驚いたようにクラクションを鳴らした。
いのりの背筋に冷たいものが走る。
「……このままじゃダメだ、これ」
心臓が早鐘を打つ。
これ以上放置したら事故になる。
それは、自治会長としての直感だった。
団地の廊下を歩いてくる足音。
防災係の増居が、書類を抱えて風張家にやってきた。
「会長、聞こえました?なんか騒音が酷いって戸部さんから言われまして……」
彼女は子育てがひと段落した40代のママさん役員。
防災係として積極的にいのりのことを支えてくれる役員のひとりでもある。
「集会所からです。120号棟の人たちが使ってるみたいなんですけど……あれ、もう“集会”じゃなくて“宴会”です。うちの自宅にも響いてきて、めちゃくちゃうるさいです」
いのりは困惑した表情を浮かべなら増居に目にした光景を伝える。
風張家の玄関前にある階段の踊り場からもしっかりと見える。
「……うわ、ほんとだ。子どもたちも外に出てる。っていうか、戸部さんの花壇で追いかけっこしてる!?きれいに咲いた花が踏みつぶされているじゃん……」
「子供が騒ぐことは仕方ないとしても、このままじゃ危ないですよね……」
「そうですね。戸部さんも子供だから直接言えなくて困っているのかも……」
「大人も一緒に道路へ飛び出して追いかけっこしてるんです。しかも缶チューハイ持って。あんな酔った状態じゃ、大人だって車にぶつかってもおかしくないです」
「中もすごい音ですね。音楽までかけてる……」
「自転車があんなに置かれているってことは、120号棟の住民さんと無関係な人もたくさん集まっているのかもしれません。すぐ目の前の集会所に、わざわざ自転車で来ないですよね。」
「確かに……」
増居が呆れたように息を吐いた。
集会所の前に置ききれなかった自転車が、さらに危険を増していた。
溢れた自転車が歩道をふさぎ、防災用具倉庫の扉を完全に塞いでいる。
いのりの頭に、防災倉庫の緊急対応マニュアルが浮かんだ。
(災害時、ここを開けられなかったらどうしよう……)
一つひとつの状況が積み重なって、胃の奥がきゅっと痛んだ。
(行かなきゃ。)
そう思ったときには、もう足が階段へと動いていた。
「増居さん。私、行きます」
「え?いのりちゃん、一人で大丈夫?」
「大丈夫です。あれは注意しなきゃダメです。誰かがうちの敷地内で怪我をしたら、私たちの責任になります」
「わかりました。防災係の私も行きます!」
---
増居が傘を手に取り、二人で集会所の前まで歩く。
近づくたびに、騒音と人の気配が増していく。
暑くなったのか、ガラス戸は開け放たれ、内部の空気が熱を帯びて外へ溢れ出ていた。
ピザの箱、紙皿、紙コップ、倒れたジュース缶。
あちこちに散らばるゴミ。
床には水たまりのようなシミ。
唐揚げとジュースと笑い声。
ママ友たちの輪の中から、ひときわ明るい声が響いた。
「ねぇねぇ〜、有夢羅ちゃんの妹ちゃん、もうすぐ出産なんでしょ〜?」
ママ友同士、お互いのことを下の名前や○○君ママと呼び合い、まるで女子中高生のような親密な空気が流れている。
「そうなの〜♪ 来月には男の子!名前どうしようかって言ってて〜」
「きまってんじゃ〜ん!ママ友会の“銀河倶楽部(コスモ☆クラブ)”に入ってもらおうよ!」
「そうそう!銀河系の名前をつけて、うちらの仲間入り〜!」
「宇宙を継ぐ者たちに、ようこそ〜!」
「じゃあ、まだ使ってない名前どれだっけ?」
「ガンマ!ガンマはどう? ガンマくん!」
「え〜!かわい〜♡ マジ宇宙っぽい〜!」
「うちの緒芽我と兄弟みたいじゃん!」
「名前でΩとか∑の記号が使えないのヤバいよね。マジで戸籍課何してんのって感じ!ちゃんと仕事してほしいよね」
「ねぇ、コスモ☆クラブもそろそろ公式ロゴ作ろっか〜? 銀河モチーフでさ」
缶チューハイが次々に開き、笑い声が天井に響いた。
床にはお菓子の袋とストローが散乱している。
その端で、灰色の影。
ビシ九郎が黙々と出前のピザをつまんで食べていた。
いのりは耳を押さえながら、増居に小声で言う。
「……あれ、宗教ですか?」
「……多分、銀河系ですね」
玄関にスリッパと缶チューハイが転がり、唐揚げの匂いが充満している。
子どもたちは走り回り、外では自転車のベルがひっきりなしに鳴っている。
「勉雅君ママ〜!そこのポテチ取ってぇ〜!」
「夢音愛ちゃんママ、あんたの唐揚げ落ちてんじゃん!(笑)」
「駆歩君ママ、どうせ自治会のおじさんがきれいにしてくれるって!」
「班頭君ママ〜!柚実流ちゃんママ来たよぉ〜!」
「華倫ちゃんママ〜!その缶チューハイ新しい味だよねぇ〜!」
その賑わいの中。
今度は誰も気づかぬまま、机の端に置かれたスナック菓子を、ふさふさした尻尾がそっとさらっていた。
古びたエアコンの下、小さなちゃぶ台にちょこんと腰かけ、缶ビール片手に指を舐める影。
風張いのりは、ちらりと視線を向けて固まった。
「っていうか……ビシ九郎、やっぱりいる。」
まるで当たり前のように、紙皿の唐揚げをつまみながら。
誰にも気づかれず、誰とも話さず。
ただちゃっかりと宴の一員になっていた。
増居が小声で、
「……あれ、誰の親戚ですかね?」
と呟く。
いのりは首を横に振り、
「……うちの自治会所属ハクビシンです」
と小さく返した。
すると中から、ひとりの女性がこちらを見た。
ギラリと光るネイルで掴んだ缶チューハイを持ったまま、いのりと目が合う。
その表情は、なぜか“敵を見るような”色をしていた。
いのりは一度、息を吸い込み、自治会の名札をそっと握った。
「増居さん……行きます」
いのりたちの足音が霧雨の煙る空気に響いた。
扉をのぞき込んだ瞬間、むっとする熱気とアルコールの匂いが押し寄せた。
テーブルの上にはピザの箱、スナック菓子、紙皿の山。
スピーカーからは音楽が流れ、子どもたちが床を滑りながら笑っていた。
「……完全に飲み会ですね」
増居が小さくつぶやく。
いのりは頷き、近くのママさんに声をかけた。
「すみません、117・119号棟自治会の者です。主催の方を呼んでいただけますか?」
大声で盛り上がる宴の中から返ってきたのは、笑い混じりの軽い声だった。
「え? なに? あー……ちょっと待って」
面倒くさそうに立ち上がった女性が、奥に向かって声を張った。
「銀河君ママ!なんか自治会の子が来てるー!」
軽く告げられた“自治会の子”という言葉。
いのりの胸の奥に、嫌な予感が走った。
しばらくして、奥の方から派手な服を着た女性が現れた。
髪は明るい金髪、つけまつ毛とアイライナーがバッチリすぎて、目が黒く塗りつぶされたマンガキャラのようだった。
年齢は40歳前後、見るからに気の強そうな風貌をしている。
缶チューハイを片手に持ち、軽く腰を揺らしながら近づいてきた。
「なに?どうしたの?」
「すみません。117・119号棟自治会長の風張です。集会所の外で子どもたちが走り回っていて、車道に飛び出しそうになってました。あと、歩道に溢れた自転車が倉庫の前を塞いでいます。歩行者が危ないので、すぐに中へ入ってもらえませんか?」
いのりはできるだけ丁寧に伝えた。
しかし女性は、口の端をゆるめて笑った。
「はーい、気をつけまーす」
軽い、投げやりな返事だが、それ以上を追求することもできなかった。
「失礼しました。」
と、いのりと増居が場を離れたその時。
部屋の中のママ友たちが
「クレームつけて来たらしいよ」
とクスクスと笑っている。
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ふたりが集会所を離れても、騒音はまったく止まらなかった。
ふたりで20分ほど周囲の様子を見ていたが、とどまる気配はない。
中からは笑い声と音楽、缶を開ける音。
安全面の改善は見られず、外で子どもたちが道路を占領して追いかけっこを続けている。
「……子供たちに注意するどころか、完全に野放し。むしろ悪化しているかも。全然気をつけてくれていませんね」
増居の声が低く沈む。
いのりは頷いた。
「はい。やっぱりこのままだと危ないです。私たちが何もしないで、もしうちの敷地内で事故になったら……」
「自治会として、責任を問われるかもしれませんね」
「だから、もう一度だけ言いに行きます。今度は、“今すぐやめてください”って」
いのりの声は静かだったが、その瞳は強かった。
洋服の袖が少し濡れていた。
小雨が再び降り始めている。
薄暗い団地の照明が滲んで、地面が光って見えた。
時間を置いて、二人はもう一度、集会所へ向かった。
集会所の扉を開けると、音と熱気があふれ出る。
さっきよりも騒ぎは大きくなっていた。
床には紙皿やペットボトルが散乱し、防災倉庫の前には新たに自転車が三台増えていた。
いのりは深く息を吸って、声を張った。
「たびたびすみません!117・119号棟自治会です。先ほどもお伝えしましたが、うちの敷地内や道路を走り回るのは危険です。今すぐ子供たちの遊びをやめさせてください!」
一瞬、場の音が止まった。
数人がこちらを見たが、すぐにまたざわめきが戻る。
缶チューハイを手にした主催の女が立ち上がり、面倒そうに近づいてきた。
「……まだいたの?あんた、しつこいね」
「本当に危険なんです。子どもが道路に飛び出しています。自転車が歩道を塞いだままだと、うちの住民も安全に通れません。今すぐ対応してください」
「だからー、気をつけまーす」
「でも、さっきから全然変わってないですよね」
「だってさー、子供って注意しても言うこと聞くわけないじゃん?子供なんだし仕方ないでしょ。大目に見てよ」
「わかりました。自治会長として、ハッキリ言います。“気をつける”じゃなくて、今すぐ保護者として遊びをやめさせてください。」
主催者の女性は眉をひそめ、あからさまに睨んだ。
「は?あんた子供いないからわかんないでしょ!子どもが走るのは当たり前。そんな神経質なこと言われたの初めてよ」
「じゃあ、生まれて初めて言われた意見として耳を傾けてください。何人も道路で走り回っていて、歩行者や車の運転手が困っているんです。」
「は?そいつらが困ってるって言ってるの!?うちらちゃんと集会所の使用許可とってるし。時間も21時まで使えるのよ?あんた何言ってんの?」
「住民であり会長の私が歩行者や運転手の立場で迷惑だと思うから言っています。これは使用時間の問題じゃありませんし、集会所の使用許可があるからって、何をしても良いわけじゃありません。そもそも許可を得ていない集会所の外で事故になったらどうするんですか」
背後で別のママ達が笑いながら口を挟む。
「銀河君ママ~。若い子は頭固いんだよ〜。九潮団地は『九潮パークタウン』って名前付いてるのにさ」
「そうそう。団地内は公園と一緒なのわかってないんだよ。」
「見るからにチビの高校生でしょ?なんで自治会長なんかやってんの?」
「給料安いくせに忙しい親が代わりにやらせてるんじゃない?」
「うわー、絶対それだ~。かわいそう〜」
笑い声。
冷たい視線。
いのりの喉がきゅっと詰まる。
すると外から
「きゃあっ!」
という声が聞こえた。
子どもが雨に濡れた集会所の床で転んで、同時に集会所に横付けされた自転車がドミノのように倒れた。
いのりは反射的に駆け寄り、膝をついて子どもに声をかけた。
「大丈夫?怪我してない?危ないから中に入ろうね。」
「ちょっと!子どもに話しかけないで!」
急に女の怒鳴り声が響いた。
振り向くと、豹変した主催者が缶チューハイを持ったまま立っていた。
目が釣り上がり、顔が赤い。
アルコールの匂いが強い。
「子供に話しかけないでって言ってるの!よその子を勝手に叱るのやめてくれる?!」
「別に叱ってるわけじゃなくて……」
「あんたも高校生のガキでしょ?何様のつもり?」
「私は……117・119号棟の自治会長・風張いのりです」
「はぁ?なにそれ。ガキが偉そうに」
女性が鼻で笑った。
背後のママ友たちがヒソヒソと囁き合う。
「え?名前なんだって?……かざ……?」
「かざはり、です」
「かざなんとかさん?」
「かざはり、です」
「え?ぜんぜんわかんな~い!!」
「か・ざ・は・り、です」
「うわ、覚えにく〜い!」
「かざ……あな?……かざあな会長〜!」
「かざあな!かざあな!」
「ぎゃははは!穴開いちゃってるじゃん!ウケる~!!」
笑いが爆発した。
ひっ迫した空気に怖気づいて言葉を出せずにいた増居が
「人の名前を茶化すなんて失礼ですよ!」
と声を上げたが、誰も気にしない。
その場は完全に“お祭り騒ぎ”の空気になっていた。
いのりは一歩、前に出た。
足元が震えているのが自分でも分かった。
けれど、声は静かだった。
「……かざあなでも、かざぐるまでも、なんでもいいです。子供たちが危ないから、ケガをする前に意見を伝えに来ました」
主催の女が缶をテーブルに叩きつける。
金属の音が響いた。
「まだ言うのね!あんた、でしゃばらない方がいいわよ。この団地で平穏に暮らしたいなら」
その一言で、いのりの全身が凍りついた。
背筋が硬直する。
恐怖というより、“理解不能”の冷たさ。
増居が一歩前に出て
「やめてください!脅迫ですよ!」
と声を張る。
だが、女は笑いながら一歩近づいた。
「ここは120号棟の集会所。21時までなら私たちが好きに使っていいことになってるの。それの何が悪いの?あんたみたいな子どもに指図されたくないのよ!」
「ここは共用施設です。それにうちの敷地内でも子供が走り回っています。住民が巻き込まれる危険があるなら止めるのが当然です」
「うるさい!若いくせに偉そうに!」
怒号が飛び、いのりの肩がピクリと揺れた。
けれど、目は逸らさなかった。
「……私は、子どもたちを守るために言っています。走り回るなら近所に公園がありますよね」
主催者の女は、あからさまに舌打ちした。
「あんただって子供を育てたらわかるわ。子供なんて言うこと聞かないの!子供が周りに迷惑かけるのなんて当たり前!子供なんだからしょうがないの!世間がそういうものって受け入れるべきなのよ!」
「それって親じゃなくて迷惑かけられた側が言うことじゃ……」
増居が呆れたように言う。
「子どもは言うことを聞かないし大人に迷惑をかけて当然!そんなのいちいち親が謝ってたらキリがないじゃない!」
と主催者の女も強気に応戦する。
それを聞いたいのりは
「私が親なら、子どもが言うこと聞かなくて他人に迷惑をかけたとしても、あなたたちと違って素直に謝罪します。保護者として当然です」
「は?たかだ女子高生が保護者気取り!?マジでうざい!!」
場の空気が凍る。
集会所の中の視線がいのりに集中する。
その瞬間、増居が一歩前に出て小さく呟いた。
声は丁寧だけど、目は笑っていない。
その空気を分断するように増居が話題を変えた。
「あの、確認させてください。集会所の使用許可を貰っているということは、自治会さんで申請されてるんですよね?この状況について、自治会長さんはご存じなのでしょうか?」
その瞬間、主催者はあきれたみたいに笑った。
「は?私が役員だけど?今、あんたらの目の前にいるのが役員!わかる??」
「え?あなたが役員さん……?」
増居が一瞬だけいのりを見る。いのりの眉がピクリと動く。
(この人たちが、自治会役員……?……噓でしょ?常識なさすぎなんだけど)
「そうですか。では120号棟の自治会長さんに確認を取っていただくことは……」
増居が言いかけた瞬間だった。
「アタシが副会長。会長は忙しいから」
その声は後ろから割り込んできた。
甘ったるい香水のにおいが急に空気を満たした。むせるほど濃い。
ぬらっと現れたのは、ギラギラのビジュー付きカーディガンに、濃いファンデーション。
ラメ入りの口紅。つけまつ毛は羽みたいに長い。
年齢は……五十代?もっと上かもしれない。けれど服装だけは「若い」を主張している。
その女は、片手にハイボールの紙コップを持ったまま、すごい顔でいのりたちを見下ろしてきた。
「あのさあ。アンタら、何年住んでんの?」
それは質問じゃなくて尋問だった。
増居は一瞬だけ固まった。
「えっ……」
「アタシね、この団地に四十年いるの。四・十・年」
女は指を一本ずつ立てて、ドン、といのりの胸の前に突きつけた。
「いや……何年暮らしているとか関係ないですよね」
「うるさい!地域を何も知らないガキンチョ自治会長が偉そうに口出ししないでもらえる?ねぇ?」
いのりは口を開きかけたが、その前に女の勢いがさらに増した。
「アンタ何年住んでるの?今までこんなことされたことないんだけど?」
副会長を名乗るその女は、今度は増居にも顔を近づけた。
香水の匂いが目にしみる。
「アタシらは長年ここで暮らしてんの。昔からずーっとこのやり方でやってきて、今まで誰にも何も言われたこと、なかったの。わかる?“ずっと”こうなのよ」
増居の目がほんの少しだけ引いた。
(ずっとこれやってきたって、胸張って言うんだ……)
いのりも同じことを考えていた。
(本当に、この人たちが自治会役員?副会長??120号棟の自治会ヤバすぎじゃん……)
副会長を名乗る女はさらに畳みかける。
「いきなり来て“危ないです”とか“やめてください”とかさぁ?なにそれ。ガキが何をわかったふりしてんの?」
いのりの中で、何かがカチッと音を立てて噛み合った。
「……そうですか。」
その声は静かだった。
静かすぎて、逆に周囲のママ連中が一瞬ざわめきを止めるほどだった。
いのりはまっすぐ副会長の目を見据え、はっきりと言った。
「こうやって今まで誰にも注意されないまま、好き勝手にしてきたから、子供のまま恥ずかしい大人になっちゃったんですね。・・・だから、この団地は発展しなかったんだってわかりました。」
空気が、それまでとまるで違う温度になる。
「……は?」
副会長の眉が吊り上がる。周りのママたちの笑い声が止まった。
いのりは続けた。噛んだり、言い直したりしなかった。
濡れた袖が雨でまだ冷たい。
手は少し震えている。でも声は震えなかった。
「団地に新しい駅を作ってもらえなかった理由、今わかりました。あなたたちみたいな人が“昔からずっとこうだから”って言って、古参アピールするからです。他人の便利より、自分たちの都合を優先させてきたから誰にも相手にされない。新しい住人さんが入ってきても安心して暮らす権利を妨害されるから定住できない。それで、この団地は社会から期待もされず寂れていったんですね。」
部屋の空気が一気に冷えた。
「なによ、あんた!!」
「は?たかが女子高生が言いすぎじゃない?」
とどよめきが上がる。
だけど誰も、すぐには言い返せない。
図星を刺されたときの沈黙って、こういう沈黙だ。
副会長の女は、口をぱくぱくさせたあと、低く吐き捨てた。
「……まだ言うのね。あんた、でしゃばらない方がいいわよ。この団地で平穏に暮らしたいなら」
またしても“平穏に暮らしたいなら”の一言で、いのりの背にぬるい汗がぞわっと広がった。
足首が一瞬すくんで、呼吸が浅くなる。
(ともりやけいじ、お父さんとお母さんの居場所が脅かされるかも……)
増居がいのりの腕をそっと引いた。
「やめてください、そういうのは犯罪ですよ」
と真正面から言葉を返しながらも、その手は少しだけ震えていた。
いのりはゆっくりと頷いた。
目を離さずに。
「それでも私は、子どもを守るために言っています。」
それを聞いた瞬間、場の誰もがいのりを見た。
ママたちも、子どもたちも、ビシ九郎ですら動きを止めた。
いのりの声ははっきりしていた。
主催の女はあからさまに苛立ったように眉を吊り上げた。
「さっきから何なの?時間もルールも守ってるでしょ!そんなに気に入らないなら、こっちも品川さんに言いつけるんだから!」
「品川さん?それって誰ですか?品川何さん?」
(品川って、117号棟の元会長宅の品川さんのこと?あの人、何か関係あるのかな……)
疑問を抱いたいのりが問いかけると
「はあ!?“何さん?”じゃないでしょ!!口のきき方が失礼ね!“何さんですか?”でしょ!!」
「はあ……わかりました。論点がズレてしまったようですが……私も大矢相談役と尾花副会長を呼んできます。」
静かな一言。
その瞬間、女の表情が変わった。
「はぁ? 何それ、脅してるの?」
「いいえ。私は自治会長として、危険を止める義務があります。応じていただけないのであれば、こちらも自治会として態勢を整えて、改めて注意喚起に伺います。」
「笑わせないでよ、高校生のくせに!あんたの力で何もできないでしょ!」
「はい、なので相談役と副会長を呼びに行きます」
「逃げるんじゃないよ!」
「ガキのくせに偉そうなんだよ!」
いのりは通せんぼされて、頑なに応援を呼ばせてもらえなかった。
「あの、これって監禁ですよね。警察呼びますよ?」
増居が震えながら言う。
「かざあな会長〜、取り巻きが通報だって〜!いいよ!呼べば??」
嘲笑が弾けた。
増居が一歩前に出る。
「やめてください!子どもたちが見てる前でそんな態度を取らないでください!」
「うるさい!お前がでしゃばるな!」
主催の女が再び缶をテーブルに叩きつけた。
金属音が響き、いのりの肩がビクリと揺れた。
「この団地には、あたしたちの仲間たくさんいるからさ。マジで口出しやめたほうがいいよ?こっちは犬井警察署にも顔が効くんだから」
その言葉が、じわりと耳に焼きつく。
(どうせ周囲に迷惑をかけて、警察にもさんざんお世話になってきただけなんだろうな……)
いのりは息を呑んだ。
指先が冷たくなり、背中を汗が伝った。
「それって……脅しですか?」
「好きに受け取れば?」
女がニヤリと笑う。
増居がすぐにいのりの腕を引いた。
「もういいです。こんな人たち、話しても無駄です。明らかにまともじゃないってわかりました」
それでも、いのりは一瞬だけ立ち止まった。
泣きそうになるのを、必死に堪える。
「……私たち、みなさんが集会所を使うことに文句はありません。でも、危険なことは危険です。ただそれだけです」
言葉を残し、いのりはゆっくりと扉を閉めた。
外に出た瞬間、肺に冷たい空気が流れ込む。
雨が強くなり始め、街灯の光が滲んで見えた。
増居が傘を開きながら言った。
「……いのりちゃん、行きましょう。交番に」
いのりは小さく頷いた。
「はい。……怖かったけど、このままじゃ誰も守れませんから」
二人は足早に交番へ向かった。
団地の通路に響く靴音だけが、雨音と混ざり合っていた。
---
交番の中は、静かだった。
常駐の警察官がいのりたちの話を最後まで聞き、
「私有地のことですし、暴力や物損がなければ警察も動けません。ですが、脅しや監禁ともとれるやりとりがあったとのことで。相談として記録に残します。今後は120号棟の方とも必要以上に関わらないでください」
と穏やかに言った。
さらに警察官は
「何かあれば、犬井警察署まで直接連絡をしてください。すぐに警官を向かわせます」
とも約束してくれた。
いのりは頷き、差し出した自治会長の名刺を机の上に置いた。
「自治会として、危険を防ぐための行動でした。ただ、あの人たち……怖かったです」
「あちらはお酒も入っていて、強気だったのでしょう。」
声が少し震えた。横に立つ増居が、心配そうに肩を支えた。
「いのりちゃん、よく頑張りましたよ」
「……でも、何も変わらないかもしれません」
「それでも、あなたは……会長は間違ってません」
交番を出ると、雨は細くなっていた。
団地の明かりが滲み、どの棟も静かだった。
さっきまでの喧噪が嘘のように消えている。
集会所の扉は閉まり、外に人影はなかった。
転がっていた自転車も整然と並べられている。
「集会所……静かになりましたね」
増居が呟く。
いのりは小さく頷いた。
「はい……。警察に相談したの、正解だったかもしれません」
でもその声には、安堵よりも疲れが混じっていた。
心臓はまだ少し早く打っている。
脅された言葉が、何度も頭の中で反響した。
『この団地で平穏に暮らしたいなら。』
その言葉が耳にこびりついて離れない。
自分は何も悪いことをしていないのに。
ただ、危険を止めようとしただけなのに。
「……私、なんで自治会長なんてやってるんだろ。……こんなことになるなら、自治会長なんて辞めたい……」
家族が危険な目に遭わされるかもしれない。
まだ女子高生のいのりにとって、これは物凄い恐怖でしかなかった。
ただ平和に安心して暮らしたいだけ。
誰かに嫌な思いをさせようなんてこれっぽっちも考えていない、むしろ仲良くしたいと思っている。
せっかく縁があって訪れた場所。
家族と新しい居場所を手に入れたばかりなのに。
そんな気持ちがぐるぐるといのりの中で渦を巻いて消化しきれなかった。
ふと漏れた、いのりの独り言に、増居は何も言えなかった。
ただ、そっといのりの肩に手を置いた。
---
21時を過ぎ、120号棟の宴会はお開きとなった。
酒を飲んだ保護者達が、そのまま子供を乗せた自転車に乗って帰宅していった。
いのりからLiNEで事情を聞いた哲人が集会所に駆けつけた。
顔は険しく、普段の穏やかさはなかった。
「な、なんだこの惨状は……」
食べこぼしが散乱し、テーブルや椅子が乱れていた。
ゴミを持ち帰ったと思えば、空き缶の分別もまともにされないまま117・119号棟のゴミステーションへと投げ捨てられていた。
たらふく食べて、いびきをかいているビシ九郎を横目に哲人が呟く。
「会長、その場にいられなくてすみません。……俺、久しぶりにムカつきました」
いのりが言葉を探す前に……哲人は、机の上に一枚の紙を置いた。
『120号棟の行動は当自治会に対する侮辱行為と受け止めました。よって自治会として正式に抗議をさせていただきます。集会所の利用についても自治会役員として不適切な行動が複数見られました。正式な謝罪がないのであれば、当自治会としても然るべき対応を取らせていただきます。』
「でも、また揉めたら……」
「大丈夫です。安心してください。会長は、俺が守ります」
その声は低く、静かな怒りが滲んでいた。
いのりの胸の奥で、少しだけ何かが溶けた気がした。
「……ありがとう。副会長」
「会長のやったことは正しい。それを堂々としてればいい」
哲人はそれだけ言って立ち上がり、窓の外を一瞥した。
濡れた地面に雨粒の波紋が広がる。
団地の湿った壁には街灯が反射していた。
いのりはその光を見つめながら、
小さく息を吐いた。
「本当に怖かった。あの人たちはまともじゃない。話が通じない人、絶対に関わってはいけない人だ。」
でも、いのりは逃げなかった。
だからこそ、何をされるかわからない恐怖だけが残った。
あの人たちの子供が、けいじやともりと同じ九潮学園に通っている。
急にイジメられたりしないだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥がズキンと痛んだ。
涙がこぼれそうになり、 慌てて顔を背けた。
「……副会長、ありがとう。でも、私、ちょっと休みたい……」
「当たり前です。ゆっくり休んでください」
哲人が去ったあと、集会所の窓の外では、雨上がりの空が少しだけ赤く染まっていた。
いのりは静かに呟いた。
「……どうしよう。私、自治会長を辞めたい……。家族に何かあったら、私のせいだ……」
その言葉と同時に大粒の涙があふれた。
その涙が落ちる音は誰にも聞こえなかった。
けれど、その小さな震える声が確かに、彼女の中の“次の日”を照らしていた。
誰かを守ろうとして、逆に誤解されたり、悪意の矢面に立たされたり。
それでも「正しいことをした」という確信だけを支えに生きるしかない。
そんな現実を、いのりの視点を通して描きました。
「平穏に暮らせなくなる」という言葉は、脅しではなく“警鐘”です。
社会の中で真面目に動く人ほど、いつのまにか標的にされてしまう。
でも、いのりは逃げません。
泣きながらも、ちゃんと現実と向き合う。
その姿こそが、彼女が“ヒロイン”である理由です。
この回を通して、読んでくださる方が
「本当に悪いのは誰なのか」「正義とは何か」
そんな問いを心の中で感じていただけたら、作者として嬉しいです。




