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【第一部完結】この団地、女子高生に自治会長を任せるって正気なの!?  作者: shizupia


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第102話『カエデフォーエバーは、永遠だよ』

初夏の犬井競馬場。

いのりたちは、地域の視察として「ひながわ賞」を見に訪れます。

華やかな舞台の裏にある、命の現実と、それぞれの夢。

今日の物語は、静かな風の中で、忘れられない一日を描いています。

初夏の風が、犬井競馬場の芝を撫でていた。

蹄の音とアナウンスが混ざり合い、干し草と馬の匂いが漂ってくる。

今日は雛川区が主催する重賞「ひながわ賞」。

自治会長たちが区の招待で訪れる、年に一度の“視察レース”の日だった。


制服姿のいのりとあずさ。

そして白銀のドレスをまとったビシ九郎が、関係者入口を通って歩いていた。

門の向こうには、ずらりと並ぶ黒塗りの外車。

どの車もピカピカに磨かれ、馬主専用エリアの空気はどこか異世界じみていた。


「うわ……すごい。これ全部、馬主さんの車?」


あずさが目を丸くする。


「せやな。車だけでビルが建つで」


団地の外で美少女姿になったビシ九郎が似非関西弁で口を開いた。

パーティースタイルにまとめられた髪が揺れ、スカートの裾をつまむ。


「おっと、アカン。……今日のワイは、ビシーヌ・ド・九郎。社交界デビューの日ですの!王子様の寵愛を賜って義母にざまぁ復讐して破滅フラグ回避しますわ!」



「……なんで悪役令嬢なの」



いのりが苦笑する。

その時、見覚えのある黒いセダンが駐車スペースに滑り込んだ。

九紅自動車のエンブレムが輝く高級セダン車。

ゆっくりドアが開くと、スーツ姿の男とワンピースの少女が降りてきた。


「慎太さん?」


いのりが声をかけると、男が笑って手を振った。


「おう、いのりたちか。久しぶりやな」


元プロ野球選手・皆本慎太だった。


「なんか毎週のように会っている気がしますけど」

といのりが苦笑する。

隣には、清楚なワンピースを着た楓が立っていた。


「ごきげんよう、みなさん。今日は“カエデフォーエバー”の応援なんだ」


服装に合わせた上品な挨拶を交わす楓。


「カエデフォーエバー?」


「うん。お父さんの馬」


「え!?」


「俺な、実は馬主やっとんねん。三頭おるうちの一頭が“カエデフォーエバー”っちゅう期待の牝馬でな。こいつが今日のメインレースに出るんや」


「えっ、慎太さん馬主なんですか!?」


「まぁ趣味や。ちなみに楓が中学ん時につけた名前なんやで」


「楓が自分で?」


「うん。お父さんが引退してから牧場見に行くようになって、わたしも一緒に着いて行ってたの。馬が走る姿、ほんとに綺麗なんだ」


楓が微笑む。


「“フォーエバー”って、いい名前だね。勝っても負けても思い出が消えないみたいで。」


あずさが言う。


競馬場の駐車場には、干し草と汗の混ざった匂いが流れ込む。

近くには馬小屋とジョッキー寮が立ち並び、係員の「通るよー!」という声が響いていた。


「私たちも今日、地域センターから自治会への招待で来たんですよ。大矢相談役も行きたい!って言ってたので。毎年恒例のゲストルームで観戦だって」



「奇遇やな。俺らも同じや。相談役も相変わらずやで」


慎太が笑うと、いのりも安心したように頷いた。

そこへ、品のある黒塗りの送迎ワンボックス車が静かに停まった。

周囲の空気が一気に張り詰める。

降りてきたのは九紅ホールディングス会長・九紅太郎だった。

そしてその隣には、雛川区副区長・九紅三郎の姿。


「おや、皆本くんじゃないか。久しいな」


太郎の声に、慎太は即座に背筋を伸ばした。


「会長、ご無沙汰しております! 本日はよろしくお願いします!」


「ははは、そんなに堅くならんでいい。君の活躍はいまだに社内で語り草だ」


「そ、そんな……恐縮です」


三郎がその横で静かに笑い、いのりの姿に気づいた。


「おや、あなたは……雛川区連絡会の風張さんですね」


いのりは思わず姿勢を正した。


「九紅副区長、お世話になっております。覚えていてくださってありがとうございます。先日の区政協力委員会、とても勉強になりました」


「私の方こそ覚えていてくれて嬉しいですよ。あのとき区長が“あなた、将来区長になりなさい”と目を掛けていたのでね。とても印象に残っています。今日はその区長が不在なので、私が代役で訪問しました。」


「……そ、そんな大それた……」


「はは、あれは区長の本気の言葉でしたよ。あなたには、それだけの目があります」


その温かい言葉に、いのりは胸が熱くなった。

三郎はにこやかに続ける。


「競馬観戦は初めてかな? どうぞ楽しんでいってください」


「はい、ありがとうございます」


その会話を、慎太が微笑ましそうに見ていた。


「えらいな、いのり。上の人にもちゃんと覚えられてるんやな」


「そんな……私なんかを認知してもらえるだけで感謝です」


「いやいや、人望ってのは実績より大事やで。覚えてもらえるってことはそういうことや。」


「慎太さん……ありがとうございます。」


ふといのりが周囲を見ると、スタンドや売店、テーブルクロスの至るところに『九紅ホールディングス』のロゴがあった。


「……ほんとに、どこも九紅だらけですね」


「せや。犬井競馬場は九紅が支えとるんや。施設も飲食も、ぜんぶ関係ある。経済回すっちゅうのはこういうことや」


慎太が言うと、太郎が笑みを浮かべた。


「その通りだよ。地域が動くには、企業と行政が手を取り合わねばならん」


いのりはその言葉を聞きながら、なんとなく胸の奥がざわついた。

経済と行政の結びつき。

それは現実的で、同時にどこか危うくも見えた。

ビシ九郎が鼻を鳴らして口を挟む。


「なんや、ワイのドレスより九紅のスーツのほうが目立っとるやんけ」


慎太が吹き出す。


「ははっ、そら大スポンサー様やからな」


「ちぇっ、やっぱ資本主義やなぁ」


空気が和み、いのりたちはゲストルームへと向かった。

あずさが楓の腕を軽くつつき、微笑んだ。


「ねぇ、今日カエデフォーエバーが勝ったら、すごく嬉しいよね」


いのりも

「うん。楓が自分で名前つけた馬だもんね」


と楓に微笑む。


「うん……でも勝っても負けても、怪我だけはしてほしくないな」


楓は頷きながら、その言葉を心に刻んだ。


---


エレベーターの扉が開くと、そこは別世界だった。

ガラス張りのゲストルームからは、犬井競馬場の芝が一面に広がって見える。

太陽の光が芝の緑をきらめかせ、遠くではファンファーレのリハーサルが鳴っていた。

白いクロスのかかったテーブルには、区が用意した仕出し弁当とシャンパン。

唐揚げや焼売、サンドイッチ、ローストビーフ。

来賓たちはグラスを手に談笑していた。

いのりは思わず呟いた。


「え、これ……ほんとに“視察”なんですか?」


「視察でも腹は減るもんじゃからのう」


大矢相談役が笑う。

ビシ九郎は早速フォークを持って、


「ワイ、こういう小洒落たもんには弱いねんけど、エビフライだけは別腹や!」


「ほんと、どこでも食べるね」


あずさが苦笑する。


ゲストルームに通されたいのりは、

周囲を見渡して一人の姿を探していた。

スーツ姿の地域センター職員、帽子を取って会釈する自治会長たち。

煌びやかな雰囲気の中で、彼の姿を探しても見当たらない。


「……あれ?木澤さん、いないのかな」


いのりの考えていることを見透かしたあずさが小声で首を傾げる。

そのとき、いのりのスマホが震えた。

画面には


〈急用ができて行けなくなった。代わりに103号棟の副会長が出席してくれてる。いのりちゃんと会えなくて残念〉


と、木澤からのLiNEメッセージ。


ほんの数行の文章なのに、

それだけで胸の奥がじんわり温かくなる。


(……残念、なんて言ってくれるんだ)


小さく息を吐いたいのりは、

スマホをそっと胸の前で握った。

画面には、最後に付けられた小さな笑顔の絵文字。


「ふふっ……滉平君、忙しいんだ」


頬を緩ませたいのりを見て、

隣のビシ九郎が似非関西弁で囁く。


「おお、なんやいのすけ、ええニュースでも来たんか?」


「ううん。……ちょっと、うれしいだけ」


外では蹄の音が遠く響いていた。

ゲストルームの窓からは、青い芝の向こうに陽炎の立つコースが見える。


心の中で、


(また次に会えたら、今日のこと話したいな)


そう思いながら、いのりは木澤のメッセージをもう一度見つめた。


---


窓の向こうを、馬がゆっくりと周回していた。

蹄が芝を踏む軽やかな音が、ガラス越しにも伝わる。

楓はその姿を見つめたまま、そっと息を吸った。


「やっぱり……いいな。この匂いも音も、全部好き」


「ほんとに馬が好きなんだな」


あずさが優しく言う。


「お父さんが引退してから牧場に行くようになって、最初はただ見てるだけだったの。でも、だんだん“この子たちを守れる仕事がしたい”って思うようになった」


「……ええこと言うやん。俺も、現役ん時よりこっちの方が夢中かもしれん」


慎太の言葉に楓は少しだけ笑った。

その横顔を見て、いのりはなんとなく胸があたたかくなった。

その穏やかなやり取りの最中、奥の扉が開いて九紅太郎と三郎が入ってきた。

九紅ホールディングス会長、犬井競馬場最大のスポンサー。

濃紺色のスーツに金のネクタイピン、堂々たる風格。


「皆さま、本日はようこそいらっしゃいました。“ひながわ賞”は地域と経済をつなぐ象徴です。雛川区、そして犬井競馬場をこれからも共に盛り上げていきましょう」


三郎も区長の代理として簡単に挨拶を交わした。

それぞれ拍手が起こり、シャンパンのグラスが軽く鳴る。

慎太も頭を下げた。


「会長、今日も馬がええ走り見せてくれると思いますわ」


「君のところの“カエデフォーエバー”も注目しているよ」


「はっ、ありがとうございます!」


メザメルト・シャークスの親会社が所属するグループ企業の会長。

その太郎に現役時代と変わらない腰の低さで接する慎太。

だが、普段から見せる姿とのギャップに、いのりは少し驚いた。

尊敬される人というのは、どんな立場になっても謙虚でいられるのだ。

九紅三郎が再びいのりに向き直る。


「犬井競馬場は、九紅グループの支援で立ち直りました。雇用、観光、税収。すべてが区に還元されている。風張会長が期待されている新駅誘致も未来への投資です。ただし……この世界には“それぞれの正義”がある。綺麗ごとや数字だけでは測れません」


「……そうですね」


いのりは深く頷いた。


「でも、きっとあなたなら分かるでしょう。経済と民意の両立は、難しいけれど必要なことです」


いのりは胸の奥が熱くなった。

区の幹部たちが口にする“経済”という言葉が、

どこか重たく響いた。

そのとき、パドックの映像がビジョンに映し出された。

美しい栗毛の牝馬・カエデフォーエバーだ。

澄んだ瞳、力強い脚。

ほんの少しだけ、左脚に白いテーピングが巻かれている。


「……あ、まだ治りきってないの?」


楓が尋ねると、慎太が静かに答えた。


「いや。ドクターが“もう問題ない”って言っとった。でも心配やな……」

楓の手が胸の前でぎゅっと握られた。


「ねぇ、楓。……もしかして、楓が獣医になりたい理由って」


いのりが言いかけると、楓は少し驚いた顔で振り向いた。

それから小さく頷いて、穏やかな声で答えた。


「そう。お父さんの馬たちを、私が診てあげられるようになりたいの。走るためじゃなくて、引退してからも安心して暮らせるように。繁殖にまわる馬たちが、安らかに過ごせるように。それが、私の夢なんだ」


いのりはその言葉を胸の中でゆっくり噛み締めた。

競馬という華やかな世界の裏に、こんなにも優しい夢を抱く人がいる。

それが、少し誇らしくて、そして切なく感じた。


「……楓、すごいね。ちゃんと夢になってる」


「そうかな。……でもありがとう」


楓は恥ずかしそうに微笑み、もう一度ビジョンを見上げた。


---


「第十一レース・ひながわ賞、まもなく本馬場入場です。」


場内アナウンスが流れる。

観客のざわめきが一段高くなり、窓の向こうで風が強く吹いた。

芝の上に、カエデフォーエバーが姿を見せる。

陽の光を浴び、凛とした姿で歩くその姿に、誰もが息をのんだ。

慎太が静かに呟く。


「フォーエバー、お前の走り見せたれ。お前が元気なら、それでええ」


楓は祈るように手を組み、心の中で同じ言葉を繰り返した。


「……どうか、みんな無事に走り切って」


その声は風に溶け、

初夏の空の下へと吸い込まれていった。


ファンファーレが鳴り響いた。

観客席が一斉に立ち上がり、旗が揺れる。

青空の下、陽光を浴びた芝がまぶしく輝いていた。


「第十一レース・ひながわ賞、出走です!」

アナウンスの声が響く。

スタートゲートの中。

五番、カエデフォーエバー。

小さく鼻息を鳴らし、地を蹴る準備をしている。


「いける……この子、落ち着いてる」


楓が小声で呟いた。

慎太は腕を組んだまま頷く。


「行け、カエデフォーエバー。お前の走り、見せたれ」


ゲートが開く。

爆発のような蹄の音。

歓声が波となって広がる。

五番カエデフォーエバーは、見事なスタートを切った。

序盤から先頭集団へ。

三番手、二番手。

実況の声が熱を帯びる。


「おおっ、外からカエデフォーエバーが上がっていく!」


慎太の拳がテーブルを叩いた。


「ええぞ!そのまま行けぇっ!」


楓もガラスに張り付くようにして叫ぶ。

最終コーナー。

外を回って並びかけ、直線で伸びる。

陽光が栗毛を照らし、風がそのたてがみをなびかせた。


残り100メートル。


会場の熱気が最高潮に達する。

実況の声が叫んだ。


「カエデフォーエバー先頭ォォッ!!!」


そのままゴール板を駆け抜けた。


「ひながわ賞一着、カエデフォーエバー!!」


アナウンスの声が興奮していた


「勝った……!」


楓が両手で口を押さえる。


「よっしゃあああ!」


慎太が思わず立ち上がった。

ビシ九郎も飛び上がる。


「ワイらのフォーエバー様、天下取ったでぇ!」


ゲストルームが歓声に包まれる。

グラスが鳴り、拍手が起こった。

九紅太郎が満足げに頷く。


「素晴らしい走りだ。まさに“地域の星”だな」


しかし、勝利の余韻が残る中、

場内の空気が少しずつ、変わっていった。

ゴール後、カエデフォーエバーが客席スタンド前をゆっくりと歩いていた。

ジョッキーが手綱を軽く引き、スタッフに挨拶をする。

その姿に観客から拍手が送られた。

だが、その歩みが急に鈍った。

蹄が、芝の上で小さく沈む。

脚がわずかに震えていた。


「……あれ?」


いのりがつぶやいた。

すぐに調教師や獣医が駆け寄り、テーピングが巻かれた左脚部分を確認している。

カエデフォーエバーに多くの関係者が集まり、異変を感じ取った観客もだんだんと慌ただしくなった。

何名かのスタッフが無線で何かを叫んでいる。

すると一台の軽トラックが、音もなく近づいてきた。


「……なにあれ?」


あずさにも異変が伝わった。

スタッフが軽トラの荷台に積まれたブルーシートを広げると、観客席の視界を遮るようにカエデフォーエバーを囲った。


「え?どういうこと……」


それを見たいのりは、立ち上がったまま状況が理解できずにいた。

その時、慎太の顔から一気に血の気が引いた。


「……フォーエバー……お前、まさか……」


楓の手が震えた。


「やだ……嘘でしょ……」


大矢相談役が小声で呟く。


「これは……マズイのう……」


その時、ゲストルームのドアが勢いよく開いた。

スタッフが駆け込んでくる。


「皆本さん、至急来てください!カエデフォーエバーの件で!」


慎太の表情が凍りついた。


「……わかった。すぐ行く」


楓も立ち上がる。


「私も行く!」


慎太が振り返り、いのりとあずさに言った。


「お前らも来い。いのり……この世界がどんな世界なのか、しっかり見とけ」


その声に、いのりは一瞬息を飲んだ。

何が起きているのか、まだ理解できなかった。

けれど、慎太の眼の奥にある“覚悟”の色を見て、ただ頷いた。


---


彼らはスタッフの案内でスタンドを抜け、競馬場のスタンド席を正面にした芝生コースへと向かった。

ブルーシートで囲まれた一角。

そこに、命の現実があった。

カエデフォーエバーは、蹄の付け根が深く損傷していた。

折れた骨が皮膚を突き破り、血が芝を赤く染めている。

観客の視線を遮るブルーシートの中。

風が止まり、時間さえも静まり返ったように感じた。

獣医がしゃがみ込み、慎太の横で脚の損傷を確認する。

獣医の顔は冷静だったが、眉の奥に痛みが滲んでいた。


「……開放骨折です。関節が粉砕しています。ここまで潰れてしまうと、もう歩くこともできません。その状態で、よく立っていられたと思います……」


その場にいた全員が息を呑んだ。

楓の顔から血の気が引いていく。

いのりは、理解できない言葉をなんとか掴もうと、震える声を出した。


「……もちろん治せるんですよね?……カエデフォーエバー、手術すれば……また走れますよね?」


獣医は静かに首を横に振った。


「これは“予後不良”と言われます。つまり、治療しても回復の見込みがないという意味です。」


言葉の響きが、現場の空気を一気に重くした。

その言葉に、あずさの喉が詰まる音がした。


「……そんな……“予後不良”って、そんなに簡単に決まるものなの……?」


ブルーシートの外では、観客のざわめきが遠くに聞こえる。

それでもここだけが、別の世界のように静まり返っていた。

獣医は続けた。


「脚の骨が外に出てしまっています。細菌感染も避けられません。立てなくなれば、他の脚が壊れていく。そして肺も心臓も圧迫されて細胞が壊死し、負担は全身に及びます……。このままでは、長時間の痛みと苦しみを伴いながら死を待つだけになります。」


いのりは言葉を失った。


「そんな……せめて痛みだけでも和らげてあげることはできないんですか?」


「はい。だからこそ、私たちは獣医として“安楽死”という選択をします。今、この場で馬を苦しませずに眠らせる。それが、最後の優しさです。」


あずさは唇を噛んで、目を伏せた。


「……死ぬより苦しいなんて……最後の優しさが安楽死だけなんて……」


楓が涙をこぼしながら、カエデフォーエバーの首筋にすがった。


「そんなの……そんなの、あんまりだよ……!この子、勝ったんだよ!走り切ったのに……!」


その声に、獣医が少しだけ目を伏せた。


「……途中で脚が折れたのは、おそらくゴールの少し前でしょうか。普通なら止まって転倒していたはずですが、この子は止まらなかった。本当に奇跡です」


楓が涙をこらえながら頷いた。


「カエデフォーエバーは、人を怖がらない子で……。いつも、大好きなジョッキーさんの声をよく聞いてた。“頑張れ”って言われると、どんなときも止まらなかった……」


獣医の目が、痛ましい優しさで濡れた。


「きっと、途中で脚が折れたときも、騎手を落としたくなかったんでしょう。彼を落とせば、巻き込んでしまう。だから最後まで、支えようとして……自分の脚を壊した。」


あずさがハッと息を呑んだ。


「……そんな、まるで……自分のことより、人を守ろうとしたみたい……」


慎太は拳を握り、唇を噛んだ。


「……フォーエバー……お前、そんな優しい子やったんか……」


ジョッキーがその場に膝をつき、ヘルメットを握りしめた。

そして嗚咽が止まらなかった。


「……わかってた。少し違和感があった。でも、俺を絶対に落とすまいとして……この子……最後まで……」


彼の声が、芝生に落ちる雨粒のように震えていた。

慎太がその肩に手を置く。


「あんたのせいやない。フォーエバーが選んだんや。信頼するあんたと最後まで“走る”ことを。」


風が吹き、ブルーシートがわずかにめくれた。

陽の光が差し込み、カエデフォーエバーのたてがみが金色に光った。

まるで彼女が、


「大丈夫」


と言っているように。

獣医が言葉を添えた。


「この子は、人を守ろうとして、最後まで走ったんですね。脚は完全に砕けていましたが。それでも、ゴールまで支え続けた。……この世界では、勝つことがすべて。けれど、この子は“人を守って勝った”んですよ。」


いのりは息を詰めた。


「カエデフォーエバー……なんて健気な女の子なの……」


慎太が帽子を脱ぎ、唇を噛んだ。


「……フォーエバーは、“勝つため”やなく、“人を守るため”に走ったんか……」

あずさもその隣にしゃがみ込み、涙を拭いながら笑顔を作った。


「ねぇ楓……。この子、あなたの言葉、きっと聞こえてるよ。だって、最後まで“誰かの声”に応えて走ったんだもん。」


楓は顔を上げ、涙で濡れた瞳を真っすぐに向けた。


「……フォーエバー、今までありがとう。私、あなたみたいな優しい子を守れる獣医になる。絶対に、なるから……!」


風が吹いた。

ブルーシートの隙間から、光が差し込んだ。

その光の中で、カエデフォーエバーの瞳が一瞬だけ輝いたように見えた。

まるで、すべてを理解しているかのように。

静かに、穏やかに。

獣医は静かに頷いた。


「この子は、立派でした。最後まで使命を全うして、誰も傷つけなかった。……だからこそ、もう休ませてあげましょう。」


獣医が薬の準備を始めた。

慎太は帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。


「……よう頑張ったな。もうええ。ようやった。……お前は、最高の走りを見せてくれたで。」


ジョッキーがヘルメットを握りしめ、その場に膝をついて泣いていた。


「……守れなかった……勝たせてやったのに……ごめん……ごめんよ……」


慎太は拳を握ったまま、唇を噛みしめていた。


「走り切ったんや……ようやった……。最後まで、よう頑張ったわ」


その声は震えていたが、娘の前で涙を見せまいとする男の強さもあった。

いのりは、ただ立ち尽くしていた。

さっきまで歓声を浴びていた命が、

いま目の前で“終わり”を迎えようとしている。

勝った馬なのに。

結果を残した馬なのに。

それでも、生きることは許されない。


勝負の世界。


経済の世界。


人間のエゴ。


それらが渦を巻いて、いのりの心を締め付けた。

獣医が静かに注射器を手に取る。

周囲のスタッフが頭を下げ、静かに立ち尽くす。

注射器の針が光を反射した瞬間、いのりもあずさも祈るように目を閉じた。

風が止み、芝の匂いだけが残った。

静寂の中で、ブルーシートの影がふっと沈んだ。

それは、まるで世界から一つの命が静かに抜け落ちた瞬間だった。


楓が父の腕にすがって泣き叫んだ。


「やだ……いやだよ……フォーエバー!!」


慎太はその頭を抱きしめた。


「……もうええ、泣け。泣いてええ。これが現実や。これが、俺たちの自分勝手な世界なんや……」


ブルーシートの向こうで、小さな息の音が消えた。

芝を揺らす風が止まり、世界が一瞬だけ静寂に包まれた。

いのりは震える唇で呟いた。


「……勝っても、救われない命があるんだ……」


その言葉に、誰も何も返せなかった。

風が吹き、シートの隙間から光が差し込む。

その夕陽が、永い眠りについたカエデフォーエバーのたてがみを照らしていた。


ブルーシートの向こうで、すべてが終わった。

いのりたちは声も出せずに立ち尽くしていた。

カエデフォーエバーの栗毛が風に揺れ、そのまま静かに倒れていく姿を、ただ見送るしかなかった。

シートの外では観客のざわめきが起きていた。

拍手も歓声もない。

熱心なファンは、何が起きているのかを悟っていた。


「まさかこんなことになるなんて」


「勝った馬なのに……」


「あの脚か……」


そんな声が遠くから微かに聞こえる。

やがて、作業員たちがブルーシートを慎重に外し、専用の車がゆっくりとバックで近づいてきた。

台の上に担架が乗せられ、馬を覆う布の端が、そっと風に揺れた。

楓は両手で口を押さえながら、その光景を見ていた。


「……行っちゃうんだね……」


あずさは肩を落とし、低い声で呟いた。


「最後までよう頑張った。……カエデフォーエバーよ、ゆっくり休め」


慎太の声と共に、車がゆっくりと走り去る。

そのエンジン音が小さくなるにつれて、世界の音がすべて遠ざかっていくようだった。


---


いのりたちがゲストルームに戻った頃には、誰もが言葉を失っていた。

華やかだった空間が、今はひどく空虚に感じられる。

窓の外には、夕暮れの光が薄く差し込み、テーブルの上のグラスが静かに光っていた。

楓は椅子に座ったまま、涙を拭おうともせずに言った。


「……わかってるの。競馬って、そういう世界だって。勝った馬でも、守れないことがあるって。獣医は、その“最期”を決めなきゃいけないこともあるんだって……。でも、今日あらためて思った。……私、絶対に獣医になる!」


その声は震えていたが、確かな力を持っていた。

慎太は黙って娘を見つめた。


「お前の夢、あの子が見届けてくれたんやと思う。カエデフォーエバーの分まで、しっかりと生きてやれ」


楓はうなずいた。

涙が光りながら、ゆっくりと彼女の頬を伝う。


「うん……絶対に」


そのやりとりを見ていたいのりは、何かが胸の奥で崩れる音を感じていた。

これまでは“競馬場が地域を救う”と、どこかで思っていた。

駅ができて、街が潤えばいい。

そう信じていた。

だけど、今日見た光景はあまりに現実的で、

その残酷さに心が追いつかなかった。


「……犠牲を無くして、経済を回すことは、本当に両立できるんだろうか」


九紅太郎が思わず漏らした言葉に、誰も答えられなかった。

静かな風が窓を揺らし、ビシ九郎がそっと目を細めた。


「ワイもな、昔は似たようなもんやったんや」


「え?」


いのりが振り向く。

ビシ九郎は目を伏せ、ハクビシンの姿だったころの自分を思い出していた。


「前にも言ったけどな。ワイ、発情期の前に毒エサ食うて死んでもうたんや。子孫、残せんまま未練タラタラで逝ったんやで。あの子も、ワイと一緒や。ピチピチのメスで、これからって時やった。ホンマは、まだ生きたかったやろうに……」


うっすらとビシ九郎の瞳が滲んでいた。

その言葉に、いのりは息をのんだ。



「勝ったのに死ぬなんて、理不尽やな。でも、あの子は走り切った。最後まで、誰かの夢を背負って」


その瞬間、いのりは涙をこらえきれず、その場で静かに泣いた。

あずさも肩を寄せ、ただ黙って、いのりの背中をさすった。

九紅三郎が窓際で腕を組んだまま言った。


「この世界は、命の上に成り立っている。でも、命を知る者だけが、本当の責任を持てるのかもしれません」


九紅太郎も小さく頷いた。


「我々人間は、文明が進むほどに傲慢になる。だが、今日のような日を忘れてはいけない。経済とは、命の犠牲の上に咲く花のようなものかもしれん」


その言葉に、いのりはまた涙をこぼした。

窓の外では、夕陽が赤く沈んでいく。

彼女を乗せた車が向かった先に、カエデフォーエバーの眠る牧場があるのだろうか。

ゲストルームに吹き抜ける初夏の風が頬を撫でた。

その風の中に、確かにあの蹄の音が聞こえた気がした。

ビシ九郎がぽつりと呟く。


「……カエデフォーエバーよ。ほんま、名前の通り永遠やな」


泣き崩れる楓といのり。

それを黙って見守る慎太。

親友の背中に手を添えたあずさが目を閉じて小さくうなずいた。


「うん。カエデフォーエバーは永遠だよ」


夕陽が完全に沈むころ、芝の上を渡る風だけが、静かに物語の終わりを告げていた。

このお話では、命の美しさと儚さを描きたいと思いました。

華やかな競馬の世界の裏には、走ることしかできない馬たちの宿命があり、

人間が「幸せだった」と決めつけるその影で、本当は「まだ生きたい」と願う命があるのではないか。

それをどう描くか、ずっと考えていました。


特に、ビシ九郎の言葉には、作者として伝えたい想いを込めました。

彼はかつてハクビシンとして生きた“メス”の動物。

その視点から見れば、人間がどれほど愛情や慈悲を語っても、自然の生き物にとって「生きる」とは、本能であり、「子孫を残す」という使命そのものです。

カエデフォーエバーも、きっとまだ走りたかったし、大好きなジョッキーと一緒にいたかったはずです。


それでも彼女は、痛みをこらえて走り続けました。

自分の脚が砕けても、ジョッキーを落とさず、最後まで“人を守る”ために走り切った女の子。

それが「カエデフォーエバー」という馬の生き方でした。


この世界には、人間の正義と、自然の正義があります。

どちらが正しいとも言えません。

ただ、ビシ九郎のように、「本能で生きる者の祈り」を知ることで、命の重さや、彼女たちが見ていた景色を少しでも感じてもらえたら嬉しいです。


カエデフォーエバーは、確かに永遠に生きています。

彼女を想う誰かの胸の中で、今日も初夏の風と一緒に、走り続けているのだと思います。

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