第101話『ようこそ、狩猟体験へ』
投稿している今は、冬に向けて熊がえさを求めて動き始める季節です。
山の実りが減り、寒さが近づくにつれて、熊は人里に姿を見せやすくなります。
連日のように報じられる熊被害のニュースは、もう他人事ではありません。
一方、この物語の舞台は初夏。
行楽シーズンの明るい空気の中で、人と自然の境界が静かに揺らいでいきます。
誰かの生活のすぐそばまで、野生の影が迫っている。
そんな“今”の日本の一面を、物語を通して感じていただけたらと思います。
朝の湾岸。
天王巣アイルのタワーマンション群が朝陽に染まり、
その上階に住む皆本慎太は、ゆっくりと新しい車のエンジンをかけた。
九紅自動車の新型ピックアップトラック。
金属のボディはまだ新車特有の甘い匂いを放ち、
室内にはオイルの香りがわずかに漂っている。
高級セダンとは違う無骨な四駆の操作感。
ステアリングを握る慎太の表情には、少年のような喜びが浮かんでいた。
今日は特別な日だった。
大矢相談役、そしてビシ九郎との“狩猟体験ドライブ”。
目的地はグンマーの山間部で、猟友会が開催する一般向けの狩猟見学会だ。
慎太の現役時代。
チームの助っ人外国人と、シーズンオフに若手を連れて北米で自主トレをした時のこと。
休日をつかって狩猟に行った体験を思い出した。
極寒地帯の雪原。
助っ人外国人が所有するライフルで仕留めたムース(ヘラジカ)を食べて
「これが自然との向き合い方だ」
と笑っていたアイツ。
トナカイを解体して一緒に食べた思い出。
慎太にはそれが、どこか“本能”を取り戻す行為のように見えた。
慎太は、地下駐車場にもう一台のセダンを残してきた。
タワマン暮らしに二台持ち。
駐車場代は痛いが、現役時代からの余裕があるからこそできる選択だった。
「街乗りはあいつ、山はこいつ」
彼にとって車はただの移動手段ではなく、“生活圏の切り替えスイッチ”だった。
運河にかかる橋を渡りながら湾岸の朝を見下ろす。
潮風が高層ビルの間を抜け、遠くの首都高が銀色に光っている。
それは、かつてプロ野球の舞台で感じた“開幕戦前の空気”に少し似ていた。
慎太はスマートキーをポケットに滑り込ませ、
タワマンを背にして団地方面へと車を走らせた。
目的地は、お出かけの仲間たちである大矢相談役とビシ九郎の住む九潮団地。
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午前七時過ぎ、団地前の通りにピックアップトラックが滑り込む。
薄曇りの空の下、集会所前にはいつもの顔ぶれが立っていた。
高齢者らしいポロシャツ姿の大矢相談役と、白いパーカーにショートパンツ姿の少女。
少女の正体は、団地のマスコット的存在・ビシ九郎。
見た目はどう見ても“美少女”だが、その中身はメスのハクビシンだ。
「おっ、来たで!」
ビシ九郎が手を振り、荷台にひょいと飛び乗った。
「うわっ広っ!ワイ、ここで寝れるやん!団地キャンプいけるで!」
「お前なぁ……今日は猟友会の体験行くんやぞ。なんで女子高生みたいな恰好で来てんねん。足元そんな薄っすい格好で行ったら、おっちゃんら腰抜かすで」
慎太が苦笑する。
「ワイの正体がハクビシンやってバレんようにしてるだけや。もし狩猟体験でハクビシン見たら、ワイが撃たれるかもしれへんやん」
その様子を見ながら、大矢相談役がゆっくりと歩み寄ってきた。
煙草を取り出し、火をつける。
「ほう……また高そうなもん買ったのぅ。ワシの年金、五年分くらいじゃな」
「まぁな。でも、前のセダンも手放してへんで。マンションの駐車場に置いてきた。街乗り用とレジャー用、使い分けや」
「贅沢な暮らしじゃのぅ。ワシなんぞ自転車がパンクしたら歩きじゃ」
慎太は笑った。
「安全と便利は金で買うもんや。最近は都内もゲリラ豪雨で冠水多いしな。子供たちも大きくなってセダンも手狭やし、パワーあって広くて山でも川でも走れる車がええ」
「ワイも乗せてくれてありがとうやで!」
「お前は家族ちゃうけどな」
三人の笑い声が団地の前に響くが、慎太の目は真剣だった。
「今日はグンマーの山奥や。猟友会の体験募集に応募した。獲物は見学だけやけど、命の現場をこの目で見る」
「ワイ、ハクビシン族代表として参加や!ワイの仲間撃たんでくれよ!」
「俺は猟銃の所持しとらんけどな」
「ワシも見物じゃ。腰痛で山歩きはキツイが、文化勉強として行くぞ」
早朝らしいのんびりした空気の中、慎太は車のドアを開けた。
「さ、出発や。今日は命の現場を見に行く日や」
車がエンジン音を響かせて上越道を北へと走り出した。
都会の景色が消え、緑が増えるにつれて、三人の会話も少しずつ真面目になっていった。
湾岸からグンマーへ。
都心のアスファルトを抜け、高速に乗る。
ビルが後ろへ流れ、代わりに緑が増えていった。
一般道へ降りると、助手席のビシ九郎は、すでに窓から顔を出して
「空気うまっ!」
と叫んでいた。
「さぁ、行くで。今日のテーマは“命と制度のリアル”や」
「ワイ、帰りまでに撃たれんよう祈っとくで」
後部座席の大矢相談役は早々に座席を倒し、
「ワシは寝る」
と宣言して寝息を立てていた。
慎太は、ハンドルを握りながら静かに考えていた。
この国では今、熊が増えている。
山を切り開き、太陽光パネルを設置したり、再開発で人間が“自然を押しのけた”結果だ。
さらには温暖化で木の実が減り、餌を求めて熊が山を下りる。
縄張り争いに負けた熊が追いやられて人里に出没したり、人間の味を覚えた熊が畑を荒らし、人間が無力であることも学習した結果ともいわれる。
今では、観光地や住宅街、スーパーにまで出没するようになり、人が襲われるニュースも珍しくなくなった。
だが、行政はなにもしてくれない。
熊が出ても、駆除に向けた緊急対策の書類が回るのを待たなければならない。
『危険を議論で解決しようとする国』
慎太は、そんな皮肉を心の中でつぶやいた。
「都会は安全やけど、自然のことを知らなすぎるわ」
そう言いながら、彼はアクセルを踏み込む。
エンジンの唸りが車内に響き、
九紅のエンブレムが朝陽を受けて眩しく光った。
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グンマーの山々は、まるで世界が違った。
九紅のトラックが坂道を登るたび、景色が緑の深みに沈んでいく。
湿った土の匂い、木々のざわめき、遠くで響くカラスの声。
都会ではもう味わえない、原始の呼吸がそこにあった。
「おおー!初夏の新緑が神々しいで!」
ビシ九郎が助手席の窓から身を乗り出し、スマホを構える。
白いパーカーに黒髪をなびかせながら、レンズに映る景色を夢中で追う。
「ワイと慎太のGOTUBEチャンネルも同時撮影や!この前のパラグライダーも再生数が調子よかったしな。熊出たらバズるで!」
「アカン、バズるどころかニュースになるわ」
慎太が苦笑した。
「ほな再生数と死亡記事、どっちが伸びるか勝負やな!」
「物騒な勝負すな!」
後部座席の大矢相談役は目を覚まし、アイスコーヒーを片手に外を眺めていた。
「こうして山に来るのはええのう。子供の頃は、田舎のばあちゃんと山菜採りに行ったもんじゃ」
「今そんなことしたら熊とバッティングするで」
慎太が言う。
「バッティングって打ち勝つ意味じゃろ?勝てる気せんのう」
やがて、森を抜けると開けた一角に木造の小屋が現れた。
看板の文字はかすれながらも、しっかりと読める。
“グンマー猟友会〇〇支部 狩猟体験実施中”
小屋の前では、数人の男たちが待っていた。
全員、迷彩柄のベストにゴム長靴。
日焼けした腕、厚い胸板、肩には古い銃袋。
彼らは慎太たちのトラックが近づくと手を振った。
「おーっ、待ってたで!東京からだいな!」
「すんません、渋滞でちょっと遅れました」慎太が頭を下げる。
「そうなんかいな。でも問題ねっぺ。今日は天気も安定してるし、絶好の体験日和だいね!」
だが、彼らの目が助手席に向いた瞬間、空気が変わった。
「……お、おい、なんで若い女の子が来てるん?」
「え、えっとワイ……?」
ビシ九郎は焦りながら笑う。
「こいつ、撮影係や!俺の広報的なやつ!」
「広報?狩猟体験になん?」
「せや。俺のGOTUBEチャンネル用ですわ。ドキュメンタリー風に撮ろうと思いまして」
慎太が説明した。
「ほう、ゴーチューバーってやつかいね?……まぁ、よくわからんが、若い子が興味持つのはいいんべ。命を知るには、ここが一番の教科書だいね」
会長らしき白髪の男が前へ出て、笑いながら手を差し出した。
「ワシがこの辺の猟友会会長じゃ。よう来んさった。最近は都会から参加してくる若い連中もおらんべ。ワシらもあと十年持つかどうかだいな」
慎太は軽く握手を交わした。
その手は、分厚くて硬かった。
「今日はよろしくお願いします。命の現場、見させてもらいますわ」
「よし。じゃあ中へ入って説明すんべ」
小屋の中は、油と煙草の匂いが混ざっていた。
壁には古い賞状、免許証、そして無数の写真。
猟犬と獲物、若かった頃の猟師たち。
その奥に、一枚だけ古びて黄ばんだ紙が貼られていた。
熊 6万円/猪 1万円/ハクビシン 1000円
「……これが報奨金表か」
慎太が呟く。
「おう。ずっと昔の古い紙だけんどな、もうずっとこのままだっぺ」
会長が苦笑しながら言った。
「お客さん、“円”って単位、見たことあるん?」
旧文明の通貨・円。
新文明の通貨体系に切り替わって久しい現代では、若い世代の多くがその価値を正確には知らない。
慎太と相談役も首を傾げた。
「なあ相談役、これ今の通貨やとどれくらいや?」
「さぁなぁ……ワシも年寄りじゃが単位が昔過ぎるのう」
と猟師たちが顔を見合わせる。
その中で、ビシ九郎だけが即座に声を上げた。
「ワイ、その時代に生きとったから旧文明の貨幣価値知っとるで!」
「ほう、物知りじゃな」
「現代通貨なら熊の駆除で“大きなお札6枚”、猪で1枚。ハクビシンは……ラーメン1杯分くらいやろか。なんや、今とあまり変わらへんで」
「ハクビシンの報奨金がラーメン1杯!?」
慎太が吹き出す。」
「ハクビシン安すぎじゃろ!」
相談役も腹を抱えて大笑いした。
「せや。ワイの仲間、チャーシュー麺にして終わりやで!」
猟師たちも笑いながら
「そりゃかわいそうだいな」
と言った。
「まぁ、駆除の報奨金なんて下がるばかりで、昔から変わらんってことだいな。文明は進んでも、命の値段は上がんねーべ」
猟師のどこか諦めた声を聞いた慎太は、壁の報奨金表を見つめたまま、時代の止まったそのままの数字に、どこか背筋が冷える思いがした。
旧文明の単位で書かれた報奨金。
今では意味を失った「円」が、まだ命の値札として残っている。
人が自然を制御しようとした証。
そして、制度がいまだ古びたまま止まっている現実。
「……ほんまやな。制度は新しくなっても、根っこは変わっとらん」
「ワシらの時代は熊が出たら、村総出で追い払ったもんじゃ。猟師が束になってバンバン猟銃をぶっ放していたのう」
「ワイら動物界でもそうやで。人間に関わったらアカンって感じやった。でも変わろうとしない人間の方が先に退化して滅びるんちゃう?」
小屋の壁が風に揺れ、古い紙の端がふわりと浮いた。
外では、森がざわめいていた。
人間の笑い声を遠くから眺めるように、何かが枝を踏む音がした。
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森の中は、思っていたよりも静かだった。
木々の間を縫うように伸びる細い道。
足元の落ち葉が湿り、風が吹くたびに小枝がパキリと鳴る。
「いいか、山はな、“油断した者から死ぬ”場所だんべ」
案内役の猟友会の男が、低い声で言った。
その背中には猟銃、腰には鋭利なサバイバルナイフ。
慎太たちは息をひそめて後をついていく。
「ワイ、緊張してお腹痛くなってきた……」
「お前の腹の音で猪逃げるぞ」
「いや、逆に呼び寄せるかもしれんで。ハクビシンのフェロモン効果や!」
「フェロモン出すな」
笑いながらも、彼らの足取りは慎重だった。
空気の密度が高く、遠くの音がよく響く。
誰もが、森のどこかで何かが見ている。
そんな気配を感じていた。
やがて、先頭の男が手を上げた。
「止まれ。猪が罠にかかってんべ」
全員が息をのむ。
木陰の先、金属のチェーンが見えた。
その中には、罠にかかって暴れ疲れた一頭の猪がいた。
体中が泥まみれで、鼻息は荒く、黒い目には恐怖が宿っていた。
「……こいつが、今日の現場さー」
猟師が銃を構えた瞬間、慎太の背筋に冷たいものが走った。
必死で生き延びようとした命の終わる音。
それを、これから耳で聞くことになる。
「発砲!」
パアンと乾いた音が山に響いた。
猪の体がびくりと跳ね、すぐに静かになった。
空気が凍りついた。
山の鳥たちが一斉に飛び立ち、木々の葉がざわめいた。
「……ようこそ、狩猟体験へ」
猟師の声が、妙に遠く聞こえた。
慎太は動けなかった。
プロ野球の現役時代、何万という観客の前で勝負してきた男が、
この静寂の中では、まるで素人のように息を詰めていた。
大矢相談役がそっと口を開いた。
「ワシら人間も、自然からすれば“駆除される側”かもしれんのう」
「……せやな。自然界では毎日が生きるか死ぬかの戦いやで」
その後、慎太たちは血抜きの作業と解体を手伝った。
猟師たちが淡々と刃を入れ、湯気を立てる赤が土に染みていく。
「内臓はそこのバケツにぶちゃっといてな」(※捨てろの意味)
周囲に広がる生臭い血の匂い。
命を“消費する”という現実。
カメラを構えていたビシ九郎も、さすがに公開を躊躇うほどの光景だった。
「ワイ……ラーメン一杯分、って言ったけどな。実際見たら……そんな軽く言えるもんちゃうな」
「せやな。命の重さは数字やない」
慎太が静かに言った。
「じゃが、社会はその数字で動いてるんじゃ」
相談役の言葉が、森に沈んだ。
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炭火の炎が小屋の軒先で揺れ、煙がゆっくりと空へ昇っていった。
白樺の木立に囲まれた山あい。
夕陽が枝の間からこぼれ、地面に金色の模様を落としている。
炭がぱちぱちと爆ぜ、脂が落ちる音が空気を震わせた。
切った猪の肉が串に刺され、じゅっと焼ける。
その香ばしい匂いに、腹の虫がいっせいに鳴き出す。
猟友会の男たちは手慣れた手つきで串を返しながら笑った。
「まずは喰ってからだっぺ!」
会長が豪快に言い、周りの猟師たちが
「そりゃそうだいな!」
と笑う。
慎太は焼きたての猪肉を一切れ頬張った。
噛んだ瞬間、脂が弾け、濃い旨みが口いっぱいに広がる。
想像していたような臭みはまるでない。
「なんやこれ……めちゃくちゃうまっ」
思わず声が出た。
「ジビエってクセある思ってたけど、全然ちゃうな」
ビシ九郎も猪肉にかぶりついてご満悦。
大矢相談役は、串を手にしながら笑った。
「そりゃそうだいな。こいつぁ仕留めてすぐ血抜きしたんだんべ。新鮮なうちは臭かねぇ。豚と変わらんよ」
「豚って元々は猪を人間が飼育しやすいように改良した家畜なんだっぺ?」
「そうそう。親戚みてぇなもんだいね」
「ワシ、入れ歯が取れたら困るのう……でもまぁよいじゃろ、喰うぞ!」
そう言って豪快にかぶりつく。
脂がはじけて、炭火の匂いと一緒に笑い声が広がった。
「おお、相談役やるじゃねぇか!」
「ワシはまだ若ぇんだっぺ!」
大矢相談役の上州弁に会長が豪快に笑い、男たちは次々と鹿や野鳥を焼き始めた。
会長は誇らしげに鼻を鳴らした。
鉄皿では鹿のロースが炙られていた。
赤身に軽く塩をふると、火にあたって香ばしい香りが立つ。
「鹿も喰ってみな。柔けぇぞ」
慎太が一口食べると、驚くほどしっとりしていた。
脂が少なく、噛むたびに肉そのものの旨みが染み出す。
「これ……うまいな。牛とマグロの中間みたいな味や」
「ほーだいねぇ。ワシらぁ醤油ぶっかけて食うのが一番好きなんさ」
相談役に似た年格好の猟師が、にかっと笑う。
その隣では、さっき仕留めた野鳥、山鳩が焼かれていた。
皮がパリッと焼け、噛めば野の香りが鼻を抜ける。
「こっちは野鳥。こぉ見えて旨いんだっぺ」
「……ほんまや。これ酒ほしくなるな。帰りの車運転せなアカンから無理やけど」
慎太が唸ると、
「そうだんべ。宿泊か新幹線にして、ビールでも持ってくりゃよかったいな!」
と男たちは腹を抱えて笑った。
ビシ九郎は炭火の前で、串を握ったまま無言でかじりついていた。
「……ワイ、文明戻られへんわ。これ反則や」
「そりゃそうだんべ。これが山ん中のご馳走だぃ」
会長が笑って背中を叩く。
慎太は火を見つめながら、静かに言った。
「……命の味やな」
「だっぺ。山ん中じゃ、食うもんも獲るもんも同じ命なんさ」
白樺の葉が風に揺れ、夕陽の光を受けてちらちらと輝く。
炭火の煙がその間をゆっくりと抜けていく。
静かな山の空気の中、肉が焼ける音だけが生きていた。
「マジでうまいな」
「うまいだんべ」
「ワイ、これ一生忘れへん」
その時だった。
小屋の中の無線機が、突如けたたましく鳴った。
男の一人が無線を取り上げ、耳に押し付ける。顔が一瞬で変わった。
「なんか、えらいこと言ってんなあ」
彼は低く言った。
「どうしたん?」
会長が訊く。
「市内のスーパー、熊が店内に侵入して客が逃げ回ってるんだと。市の方から、猟友会に出動依頼が来たっぺ」
笑いが一瞬で消えた。
「あんな人が多いとこにまで熊が出るようになんたん?」
「あいつら人間襲ってもいいって舐めてんだいな」
「そりゃもう人間の味知ってるからな、始末する他ないべ」
炭火の音だけが周囲に残り、鳥の声もどこか遠くに聞こえる。
全員がその無線の言葉に釘付けになった。
「すぐ行くんか?」
慎太が問いかける。
その声は低く切実だった。
「当たり前だんべ」
と、一人が言いかけたが、会長の顔が曇った。
「……いんや、行かねーべ」
会長の声は静かだが断固としていた。
「なんでや。店の中やろ。熊に人が襲われるかもしれんで」
慎太が前に出る。
「警察と自衛隊がその筋の窓口だっぺ。民間人のワシらが行っても発砲許可が下りんのが現状なんさ」
会長が答える。
「発砲許可?」
ビシ九郎がスマホの速報を凝視する。
「ここらでは“集落の近くで勝手に撃つな”って規制が厳しいんだべ。まして近隣に国道や民家があるスーパーの店内じゃ役所が絶対に許可しねえわな。勝手に撃ったら撃ったで逮捕、裁判沙汰、賠償請求、免許剥奪、SNSでの袋叩き……やってらんねえべ」
その列挙に、猟師たちの顔に疲労の色が深く刻まれた。
「確かに北米なら市街地でワニが出ても、警察官の判断で撃っていい場合もある。公務員が責任を持って現場で判断するんや。市民を守れば英雄扱いやな」
慎太の声に、会長は苦い笑いを漏らした。
「だが、ここはそうもいかねえわな。公務は公務で線引きがあって、役所は誰も責任を取りたがんねえ。書類で安全を証明するまでは熊に手出し禁止だいね。で、被害が起きたら“対応が遅れた”で結局叩かれるだけだんべ」
猟友会の者の一人が肩をすくめる。
「それに、俺らが現場で発砲したら、熊がいない安全な都会暮らしの現実を知らない動物愛護団体やらヴィーガンやらフェミニストだのが“過剰駆除だ”とか“熊がかわいそう”って苦情の電話かけて来るんだべ。猟友会も役所の電話もずっと鳴りっぱなし。下手すりゃ銃刀法違反だの刑事訴訟だのと、生活が吹き飛ぶぞ」
沈黙が重く空気を満たした。
炭火の上で肉がはぜる音が、まるで遠い世界の報せのように響いた。
「じゃあ、どうするんや」
慎太の問いに、男らは肩をすくめた。
「つまり俺らは何もしないんさー。警察と自衛隊に任せる。ちっとんべえ命張って現場に行っても、撃てなかったら、ただ危ないだけだっぺ。結局、事故起こしたら後で潰されるのは俺らだいな」
ビシ九郎がスマホを覗き込み、画面の時間経過で情報が拡散していくのを見て言った。
「ネットニュースではもう騒ぎになっとるで。動画が上がったら『行政の怠慢』って燃えるやんな。コメント欄は地獄や」
「行動したら行動したで叩かれ、行動せんかったら責められるんか。損じゃのう」
大矢相談役が短く吐き捨てるように言った。
「本来なら合法的に銃の所持が許可された警察が責任持って駆除すればええ話やな。民間の猟友会に責任押し付けて、安い報奨金でどうにかしようって行政の姿勢が一番アカンわ」
慎太の言葉には怒りがにじんでいた。
「それができりゃ世話ねえわな。熊に発砲できなきゃ、警察が束になって槍で戦うしかねぇべ」
「そんな旧文明みたいなことしてたら海外に馬鹿にされるっぺよ」
「あーね。マンモスを崖に追い詰めるまでに仲間が踏みつぶされるみたいなやつだいね」
「猟友会に発砲させてくれなら駆除しないって言い続けるしかねっぺよ」
「まあ猟友会が行政に意見を投書してもゴミ箱にぶちゃるだけだんべな」
「そうだいなあ。だから若いもんはこんなとこ入りたがらんかいね。命張ってまでボランティア同然の低賃金でやる仕事じゃねえべよ。」
と、男たちに同意しながら会長が呟いた。
「んで、駆除するハンターがいなけりゃ熊は増えるばかりだんべ。結局、困るんは都会の人間も一緒なんさ。畑が荒らされたら収穫量が減るし、子供が熊に襲われたら地方から吸い寄せる若者も減るっぺ。田舎のおかげで飯が食える都会の人間も困るんさー」
誰もが頷いた。
声には諦観が混ざっている。
制度が人を守らず、人が制度を恐れている。
「じゃ、ワシらはここに残るかいな。小屋で待機して、もし役所が正式に許可取って要請してきたらすぐに動くんべ。火が消えるまでに要請無かったら、さっさと帰るべ」
会長はそう言って無線を切った。
慎太は黙って炭火の網にもう一度肉を乗せ、ゆっくりと火を見つめた。
目の前の旨い肉と、遠くで起きているかもしれない悲劇。
その両方が同時に存在する世界。
「自然を舐めたらアカン。銃の扱いも要注意や。でも猟友会って狩りを楽しむ趣味のレジャー団体やからな……変に責任負わされたら若い世代が入らんのも当然やで」
ビシ九郎がぽつりと言った。
「制度が現場の重さと向き合っとらんのう。責任を引き受ける側が潰されるだけじゃ」
相談役が煙草の煙を吐き出す。
空は少しずつ陰り、夕方の気配が森を包み始めた。
無線の向こうで、まだ緊迫した声が途切れ途切れに聞こえている。
小屋の中の男たちは、その声に耳を澄ますことしかできなかった。
外では、木の枝がまた折れる音がした。
熊の気配は、すでに人里と山をまたぎはじめている。
そして、その日、猟友会に“出動を拒む自由”がある一方で、出動しなければ市民が危険に晒される現実だけが確かに残った。
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安全という名の幻想
夕陽が山の稜線を沈みかけ、森が金色に染まっていた。
狩猟体験を終えた慎太たちは、山道を下りながら黙っていた。
荷台には空のクーラーボックスと、香ばしい炭の匂い。
エンジンの低い唸りが、沈黙を切り裂くように響いていた。
「……結局、熊はどうなったんやろな」
ハンドルを握る慎太がぽつりとつぶやく。
助手席のビシ九郎はスマホを見て、スクロールしながら答えた。
「スーパーは臨時閉店、幸い避難客は怪我なし。でも熊は逃げて、まだ見つかっとらん。警察が“警戒中”って言葉で濁してる」
「“警戒中”か……便利な言葉じゃな」
後部座席の大矢相談役が小さく笑う。
「何もせんでも動いてるように聞こえるからな。実際には、何も決めとらんやろ」
山道のカーブを抜けると、遠くに夜の街の灯りが見えた。
街と山、光と闇が線を引いたように分かれている。
慎太はそれを見ながら、静かに息を吐いた。
「結局な。都会の人間は安全や。熊も出ぇへんし、誰かが守ってくれると信じてる。けど、あの山で暮らす人らは、毎日命と隣り合わせや。制度に守られてるようで、誰も助けちゃくれん。熊は法律お構いなしに襲ってくる」
「そうじゃな」
相談役が頷いた。
「責任を取る人間がいなくなった社会というものは、“安全”という言葉だけが残る。本当の安全は、誰かが危険を引き受けるから成り立っとるもんじゃ」
ビシ九郎は窓の外を見ながら、夕闇の中の森を見つめていた。
「……ワイ、今日思ったわ。ハクビシンがラーメン一杯分の命、なんて言えへん。あの猪も、あの猟師も、ちゃんと生きてた。撃たれて死ぬ方も、撃たずに叩かれる方も、どっちも“この国の犠牲者”やな」
慎太はその言葉を聞いて、少し口元をゆるめた。
「お前にしちゃ、ええこと言うやん」
「ワイ、ちょっとだけ成長したかもしれん」
「だいぶじゃ」
街へ近づくにつれ、道路の明かりが増えていく。
自動販売機の光、コンビニの看板、信号の青。
そこには熊も猪もいない。
けれど、人間が作った“見えない檻”が、確かに存在していた。
「……結局、人間が自然界で一番危険な生き物かもしれんのう」
相談役の声が、静かに響いた。
「自然は正直や。生きるために襲う。けど人間は、責任逃れのために止まる」
慎太はアクセルを踏み込み、トラックを夜の高速へ乗せた。
バックミラーには、山の闇がゆっくりと遠ざかっていく。
都会の明かりが近づくほどに、心の奥のざらつきが強くなる。
「……湾岸は安全やな。熊も出ぇへん。けど、あの山の人たちは毎日が“生きる戦場”や」
「ワシらが街を守らんとな。若い連中が安心して笑えるように」
「せやな。この国が、危険を押しつける社会のままやったら……いつか、人の心の方が先に滅びる」
その言葉に、誰も返さなかった。
エンジン音とタイヤの音だけが夜を滑っていく。
ビシ九郎は窓の外を見ながら、小さくつぶやいた。
「……安全って、誰が決めるんやろな」
その呟きが、夜の闇に溶けて消えた。
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夜の湾岸。
タワー群の灯りが水面に反射し、道路を走る車の列が光の帯になっていた。
九紅のピックアップトラックがゆっくりと団地の駐車場に入る。
遠くに見える倉庫群を照らすライトが、ゆっくりと青から白へ色を変えていた。
エンジンを切ると、静寂が戻った。
三人はしばらく無言のまま座っていた。
窓の外には、都会の“安全な夜”が広がっている。
「……よう走ったな」
慎太がつぶやく。
「ワシ、腰が痛いわ。楽しかったが山歩きは年寄り泣かせじゃのう」
「ワイは腹いっぱいやで。もうしばらく猪はええわ」
そんな他愛のないやり取りのあと、相談役がふと思い出したように口を開いた。
「そういや、風張会長はどうしとるかのう?」
車内の空気が少し和らぐ。
慎太が笑みを浮かべた。
「今日も忙しかったんちゃうか。学校に自治会に、あの子ほんま働き者や」
「いのすけが熊に遭遇したらどうするんやろな」
「おしっこチビって逃げながらも、“自治会費払ってください”って熊にお願いするんやないか。いのり、結構度胸あるで」
「ワシの時代じゃ、女学生が自治会長なんて考えられんかったのう。けど、あの子は立派じゃ。ああいう若い子がおるから、この国はまだ希望があるんかもしれん」
慎太はしばらく黙って、それから静かに頷いた。
「せやな。熊の出る山も、制度に縛られた社会も、結局、あの子らがこれから生きる世界や。俺らが守らなアカンのは、そこやな」
ビシ九郎は前を見据えたまま、にっと笑った。
「ほな、今度のGOTUBEは“慎太と狩猟体験”やな」
「勝手に上げるなよ。コラボで収益は割り勘や」
慎太が笑い返した。
車の外では、海風がやさしく吹いていた。
遠くの高層ビルの明かりが瞬き、それがまるで命の灯りのように見えた。
昨今では、連日のように熊による被害が報じられています。
ニュースで見るだけでは遠い出来事のように感じるかもしれませんが、実際には地方のあちこちで危機感が高まっています。
農村部では畑を荒らされるだけでなく、人身被害も現実のものとなりつつあります。
いのりたちがゴールデンウイークに帰省した群馬の祖父母宅でも、「近所のバス停で熊が出た」という一言がありました。
それは笑い話のように語られましたが、決して冗談ではありません。
今まで出没しなかった地域でも、熊が身近な存在になっているのです。
熊と共存することは理想ではありますが、現実には難しいと思います。
守られるべきは人の命であり、地域の生活です。
今回のエピソードは、そうした地方の現場から見た目線で書かせていただきました。
現場で闘う人たちがいるということ。
安全を保つために、誰かが静かに危険を背負っているということ。
その現実を、少しでも感じていただけたら幸いです。
読んでくださり、ありがとうございました。




