6話 続
拍手が起こるたびに、少しずつ背中が汗ばんでいった。こんな喝采を受けたのは初めてのことだった。
都内の小さな書店。壁際には簡易ステージ、前には並べられた椅子。
“片岡智之サイン会”の看板が立っている。
俺の名前だ。久々に目にしたフルネームが、妙に人ごとのように感じられた。
目の前に、読者がひとり座った。
「“水面の下で”、読ませてもらいました。あの終わり方……震えました」
眼鏡をかけた青年が、単行本を差し出す。
カバーには、あのプールの水面を模したような静かなデザイン。
印字された自分の名前を、まだ完全に信じきれていない。
サインペンを走らせながら、ぎこちなく微笑む。
「ありがとうございます」と言いながら、喉が乾く。
初めての経験で手元がおぼつかない。
──今のこれは、夢なんじゃないか?
「次回作、楽しみにしてます」
青年が頭を下げ、次、また次と人が立つ。
次回作、その言葉が、妙に胸に残った。
⸻
その日の夜、編集の加納からメールが届いた。
片岡さん、サイン会お疲れさまでした。
編集長からも「“次”をぜひ」と言われています。
雑誌連載でも、書き下ろしでも構いません。
内容も自由にしていただいて結構です。
ご都合のよいタイミングで、お打ち合わせさせてください。
スマホを握る手が、少し震えた。
“次”──。
書けるのか? また。あの“水面の下で”のようなものを。
思い返せば、あの作品の芯にあったのは、しょうちゃんの語りだった。
あの狂気に塗れた話を俺は書けるのか。
書きたい。
俺の手でしょうちゃんの話を書きたい。
俺は、気づけば自転車にまたがっていた。
河川敷へ向かう道を、夜風に任せて走っていた。
⸻
しょうちゃんは、いた。
いつも通りのアロハシャツに、今日はスウェットのズボン。夕暮れ空をサングラス越しに眺めていた。
段ボールを椅子代わりに座り、コンビニの焼き鳥を頬張る。
口が空いたままもちゃもちゃと音を立てながら咀嚼していた。
「ともくーん!お疲れ様っすぅ〜!作家様〜!」
「……お前、ここにいるってことは俺がくるってわかってたのか?」
「そりゃ来るでしょ? 俺の話、また欲しくなったんでしょぉ〜?」
言いながら、しょうちゃんは焼き鳥の串で地面に落書きをする。
とぐろを巻いた何かしらと丸が二つに棒が一本。
まるで小学生の落書きだ。
「……編集から、“次”って言われた」
「でしょー?俺もう用意してたんだよね。バッチリよ」
「用意してた?」
「うん。構想はだいぶ前からあった。てか、あったっていうか……そういう“こと”が、実際にあったから」
「“実際に”って、お前な……」
「ま、細けぇことは置いといて」
しょうちゃんは、いつもの調子で串を振った。
が、目だけが笑っていなかった。
「元カノがいてさ。……いや、“元”じゃないな、当時はまだ付き合ってたんだけど」
「……」
「ある日、そいつがさ、知らない男と歩いてるの見ちゃったんだよ。腕とか組んでさ。めっちゃ楽しそうに笑ってて」
しょうちゃんの声は、どこか乾いていた。
「でさ。俺、決めたんだ。“殺そう”って。……その日から、ずっとトリック考えてた」
缶チューハイのプルトップを、カチリと開けた。
その音が、不思議と耳に残った。
「聞く? ともくん。俺の“第二話”──今、語ってもいい?」
しょうちゃんは、にやりと笑った。
そして、その笑みには昨日までの“ただの冗談”が、少しだけ消えていた。