5話 水面の下で
知らない番号からの着信に、出るかどうか三分ほど悩んだ。
カップ焼きそばの湯切りをしている最中だった。
どうせ督促か間違い電話か。
いつもならそうだっただろう。
「もしかして仕事の話かもしれない」というかすかな希望のような淡い期待を胸に電話に出た。
「──もしもし」
「あ、片岡さん!覚えてますか?文藝社の加納です」
加納。
数年前、俺がまだ“作家”だった頃に担当してもらっていた編集者だ。
若手だったが、読み込みが丁寧で、辛辣な意見を言ってくれる男だった。
気がついたら連絡はなく、自然とフェードアウトしていた過去がある。
久々に聴いた彼の声は少し仕事にも慣れてきたのか、落ち着いているようにも感じたが、気持ちが弾んでいるようにも聞こえた。
「久しぶりですね……どうしたんですか?」
「ちょっと驚かせてしまうかもしれませんがあの、片岡さんが出されてた短編。“水面の下で”ってやつ、応募されてた賞、受賞しましたよ」
「……は?」
受話器越しに、少しの間沈黙が流れた。
「ほんとですか?」
「ほんとです。これ、編集長がえらく気に入ってまして、“次の逸材だ”とか言ってますよ。いや、片岡さん、もともと逸材だったんですけど」
笑いながらそう言われても、頭が真っ白で、言葉が出てこなかった。
逸材って、あんた俺を捨てただろ。
モヤモヤするが、なぜかその声はとてもまっすぐで。
僕をずっと信じていたように思えた。
俺が書いたのは、しょうちゃんの“話”をもとにしたものだった。
確かに自信はあった。
けれど、こんなふうに突然、スポットライトが戻ってくるとは思っていなかった。
「それでですね、よければ“書籍化”も視野に入れて企画を通したいと考えています。いくつか改稿の提案もあるんですが……たとえば、語りの視点を最初から“犯人”だと見せずに、読者を引き込む構成に変えるとか、いくつかあります」
「……ああ、はい。わかりました。もちろん、ぜひ」
口が勝手に返事をしていた。
言葉のすぐ後で、胸の奥がじわりと熱くなる。
加納の声が、現実味を帯びて耳に残った。
「片岡さん、もう一度世に出るチャンスですよ」
──その言葉が、ぐさりと刺さった。
もう一度。
全ての人間に平等に与えられた1度目を失敗した。
もう一度俺は書けるのか。
もう一度、か。
電話を切ったあと、しばらくその場に立ち尽くしていた。
湯切りしたはずのカップ焼きそばが、のびきって冷めていた。
⸻
夕方、しょうちゃんを呼んだ。
自転車でやって来たアロハの男は、唐揚げとコンビニのチューハイを手に持っていた。
「へへっ。なんかいいことあったっぽいじゃん? LINEも珍しく“来い”だけだったし。」
「いいから、座れって」
リビングのテーブルには、さっき買い込んだ惣菜とビールを並べておいた。
「乾杯な、しょうちゃん」
「おう、乾杯!」
カン、と缶がぶつかる。
「で? 何があったんだ?」
「“水面の下で”。あれ、賞獲ったんだよ」
「……マジで?」
「マジだ。書籍化の話も来てる」
しょうちゃんは、しばらく黙っていた。
それから、突然立ち上がり、奇妙なガッツポーズを決めた。
「来たァァァアア!片岡ともくん、大逆転ホームランだこれぇええ!イェエエエス!」
俺は笑ってしまった。たまらなく馬鹿らしくて、それでも嬉しかった。暴れ回る足音が下の階に響く心配をするべきだろうか。
でもそんなことどうでもよかった。
売れれば引っ越せる。
売れればこんな狭いむつみ荘みたいな部屋とはおさらばだ。
「いやマジすごいって。俺の人生で“知り合いが賞獲った”って初めてだわ。あれ、俺の話だったよな?な?共作じゃね?」
「そう思いたきゃそう思ってろ、お前の話したフィクションを実際に書いたのは俺だ」
「うおーい、でもほんとにすげぇわ。お前さ、また書ける気になってきたんじゃね?」
「……ああ。ちょっとな」
ふと、指がノートを撫でる。
書くことが、あんなにも重かったのに。
今は──軽い。
まるで水の中から顔を出したような感覚。息ができる。言葉が戻ってくる。
また書けることがこんなに嬉しいとは。
筆が踊るとはこのことだ。
しょうちゃんは唐揚げを頬張りながら言った。
「でもアレだな、マジでやってやろうぜ。次はさ、恋愛サスペンスとか。俺の元カノをモデルにして、こう……クッとこう……!」
「うるさい。まず恋人いたことあんのかよ」
「まぁ……」
「いないだろ、黙れ」
笑いながら、俺は冷蔵庫のビールをもう一本取り出した。
この日、俺は深夜まで机に向かった。
しょうちゃんは寝落ちして、口を開けたままソファでいびきをかいていた。
でもその横顔が、どこか嬉しそうに見えたのは──酒のせいだけじゃなかったと思う。