2話 水の流れる川
午前十時。
起きてすぐ冷蔵庫のドアを開ける。
ケチャップとチューブのわさび。
それから賞味期限が二日前のヨーグルト。
俺の生活は冷蔵庫の中身と一緒で、寒くて空っぽだ。
仕事の予定も空っぽ。
打ち合わせも、連絡も、誰からも来ない。
当時担当だった編集者も次第に連絡が返ってくる頻度が遅くなっていった。
無限に続くre:の文字列。
最後のメールには確認して再度連絡しますの文字。
もう一年も確認している。
編集長が海外にいるのだろうか。
それかめちゃくちゃ電波が悪い田舎。
電波が届くのが一年以上かかるようなとこ。
…ないか。
……それなさすぎるか。
別に何もないので仕方なくテレビをつける。
朝の情報番組で若手アーティストが喋っていた。
僕よりも10歳近く年下。
最近バズっている話題の曲!とのことらしい。
僕もtiktokやろうかな。
ミステリー作家 雨漏として。
「やっぱアイディアってさ、ふっと湧くもんなんすよ。シャワーとか浴びてるときに、急に来るっていうか」
なるほど、と頷いてみた。
浴室の電気をつける。
タイルの隙間が黒い。
彼女と別れてからまともに掃除してない気がする。
シャワーをひねると、少し鉄の匂いのするぬるい水が降ってきた。頭を濡らしながら思い浮かべてみる。
ミステリーのプロットにトリック。
殺人動機とキャラクター設定。
なにも出てこない。
冷蔵庫といい頭の中といい、どいつもこいつも。
「……こねぇな」
アーティストと俺では、脳の配線が違うらしい。
アーティストが一般家庭用の100Vなら俺は10もない。
まあ具体的に10Vがどんなもんかは知らないが。
それぐらい知っておけばミステリーにも役立つのだろうか。人を殺せる電圧とか?
あとで調べよう。
あ、アイデアじゃないの?これ。
思いつくじゃん!
意外といけるじゃん俺。
全身を流してから、バスタオルを巻いてリビングに戻る。裸足で踏んだフローリングが冷たい。
缶コーヒーを開けながらぼんやり考える。
電圧はいいかもしれないけど別にそれがあるからなんだって感じだよな。
シャワーを浴びてアイデアを生み出すかぁ。
水か?
頭に水を浴びると脳が刺激されるとか?
プール。海。──川か。
「……水……川か」
着替えをして、財布とスマホと煙草をポケットに突っ込み、外に出た。
河川敷までは自転車で10分ほど。
遊歩道に沿って舗装された小道があり、たまにランニングしている大学生や犬を連れた老人に出会う。
金八先生のあれを思い浮かべてくれ。
川沿いを歩き生徒とすれ違うやつ。
もろあれ。
もうあれでしかない。
あのロケ地になったぐらいあれなとこ。
今日の川は、浅くて濁っていた。
風が強く、草木がしゃらしゃらと揺れていた。
パーカーのポケットに手を突っ込み、ベンチに腰を下ろす。ぼんやりと川面を見つめながら、また何も思いつかない時間が流れていった。
ふと、遠くから音が聞こえてきた。
──チャリ…チャリ…チャリ…ガリッ。
変な音だった。自転車のベルでもなく、ブレーキでもない。何かがこすれるような、鈍く擦過する金属音。
振り返ると、自転車に乗る人影が見えた。
普通の人じゃなさそう。
なんかすごい感じの人だ。
遠くからではよく見えないがアロハシャツにジャージのズボン。頭にはよれたキャップ。
片方のサンダルだけボロボロに潰れていて、
ハンドルからは空のコンビニ袋とビニール傘。
前カゴにはみかんのネット袋。
そして──鼻歌がすごかった。
「おーれーはー! たーびびとー! さすーらいのー! そら豆だー!」
リズムは合ってない。というか、合わそうとしていない。全然聞き取れないし滑舌も悪い。
自転車がガッ…ガッ…と何かを巻き込むような音を立てながら近づいてくる。サドルのスプリングが壊れているのか、ギィギィと鳴いている。
俺は、直感的に思った。
「関わっちゃいけないやつだ」
よくSNSで見る変な人だ。
電車の中とかで叫んだりするおじさん。
絶対そのタイプだよ変人だよ。
でもよく見るとそこまでおじさんじゃないんだよな。
同い年か少し上ぐらいか?
でもあの感じの人間はおじさんと呼ぶしかないだろ。
鼻歌混じりに自転車を結構なスピードで漕いでいる。
ペダルを漕ぐたびにこっちにまで変な音が聞こえる。
目を合わせないように正面を向き直した。
そうだ、僕はミステリーの案を考えに来たんだ。
よーし、考えるぞー!
次の瞬間、自転車は嫌な音を立てた。
ブレーキだ。
砂利が舞い、タイヤが横滑りする音がする。
不自然にゆっくりと止まるその動きは、まるでB級映画の登場シーンのようだった。
アキラかよ。
気になって少し後ろを振り向く。
その男はサングラスをずらしながら俺を見た。
やべ。
変なおじさんにばれたぞ。
予想通り歳近そうだな。
「……お前、ともくんか?」
時が止まったような気がした。
ちょっと待ってよ。
知り合いなの?
このタイプのおじさんと?
ともくん。
昔、そう呼ばれていた。小学校のとき同級生から。
えー、同い年?まさか。
「え……?」
男はサドルに座ったまま、笑った。
「やっぱそうだ。お前、ともくんだよな? 小学校のときの俺だよ。俺!しょうちゃんだよ!」
しょうちゃん。
名前を聞いた瞬間、何かが胸の奥で引っかかった。
記憶の奥。曖昧で、ぼんやりと存在していた名前。
黒板にチョークで書いた文字を指で擦ったみたいに曖昧な記憶のさらに奥。
確かにそんなやつがいた。
小学校の同級生だ。
喋りたがりで、いつもなんか持ってた。
お菓子のゴミとか、ビー玉とか。
高学年時に算数のブロックタイプのおはじきを使って賭け麻雀やってめっちゃ怒られてたっけ。
わざわざおはじきに絵柄描いてさ。
確か数え棒を点棒がわりにしてたんだよな。
賭けるのは最初のころは放課後の駄菓子だったんだけど、いつか通貨として瓶の牛乳の紙蓋を使い出したんだよな。
1とか10とか数字書いてさ。
それを使って宿題代行やらせたりとかさ。
下校の時カバン持たせたりとか。
なんか思い出すとめっちゃ最低だな。
小学生のやることじゃない。
まあみんなしょうちゃんに乗せられて麻雀してたんだけどね。
でも中学に上がる時、僕が転校しちゃってから疎遠になったんだっけ。
「……え、マジで?しょうちゃん?」
「そうそう! いや〜、お前変わんねえなあ?」
「いや、小学生以来だからめっちゃ変わってるよ」
「だよな〜。俺の目の錯覚か? ハハハ」
しょうちゃんは自転車から降り、俺の隣に座った。
持っていたコンビニ袋の中から、なぜかみたらし団子を取り出して食べ始めた。
「……朝メシ?」
「ん?今何時だ?」
「……もうすぐ昼」
「そうか、じゃあ、昼飯だわ」
会話のテンポが、妙に懐かしい。
なぜこんな唐突に現れたのか。
なぜ今になってこんな懐かしい人間が。
そもそもどうやって俺を見つけたのか。
偶然にしては変なやつすぎる。
会おうとしなければ会えないタイプの人種だと思うぞ。
疑問はある。でも、言葉にできなかった。
しょうちゃんは笑って言った。
「なあ、ともくん。飲み行く?」
その時の笑顔が──何か、うまく言えないが、貼りつけた仮面みたいに見えた。
次の瞬間、川の向こうで風が吹いた。
それが、この話の始まりだった。