1話 心に詰まるかたまり
朝起きた瞬間から、今日が駄目な日になることはわかっていた。
寝汗がシャツに張りついている。
ベランダの向こう、灰色の空。
スマホの通知はゼロ。
通知音を切ったままなのに気づいたのは三日前のことだった。
切ったのは自分だ。
切ったくせに、気づいた時にはもう一日が終わっていた。
携帯代が未払いでなかったことが唯一の救いだ。
お客様都合により使えませんとかいうアナウンス。
もう2度と聞きたくないものだ。
寝ぼけた目をこすり、メガネがガチャガチャと揺れ視界がブレる。
コーヒーを入れようとしたが、フィルターが切れていた。
仕方なくコンビニで売っていた安物の缶コーヒーを温めて飲むことにしたが、飲みきる前に胃が痛くなった。
前に箱でもらったやつなんだが相当前すぎた。
やらかした。
現在トイレにこもっている彼は片岡智之。三十四歳。
職業はミステリー作家。いわゆる一発屋。
世間での評価はもう“作家”ですらないかもしれない。
まあでも1発当てれただけいい方だ。
かつて賞を獲った短編ミステリは自分でも「悪くない」と思える。あのときは、誰もが口を揃えて「新しい才能だ」と言ってくれた。
編集者も、作家仲間も、ネットの読者も。
たった一度だけ、目に見えるかたちでこの世界に立った気がした。
それから、もう数年が経った。
売れたのはその一作だけ。
長編化の企画は編集者のなんか違うの一言で通らず、二作目は出版の話まで進んだが、編集方針の違いとやらで流れた。
今では文芸誌の賞にもかすりもしない。
選考委員のコメントにすら名前は出てこない。
まるでこの世界から自分という作家が消されている。
そんな僕にも彩りのある日々はあった。
恋人だ。
実は今年の春に別れた。
理由は一つじゃない。
生活力がないとか、将来が見えないとか。
だが一番の理由は、彼女が「私が好きになった“作家”のあなたがもういない」と言ったことだと思う。
田舎でミステリー作家の夢を諦めて、井の中に閉じこもっていたところを彼女が引っ張り上げてくれた。
とても感謝している。
最後に会った日、ひどくあっさりしていた。
喫茶店の隅っこの席、彼女は僕に合鍵を渡すと手短に「じゃあね」と言って席を立った。
こちらを振り返ることもなかった。
その夜、帰ってから何度かLINEを送った。
「元気でね」「短い間だったけどありがとう」「次に会うときは売れてる俺を見せたい」
どれも既読がつかなかった。
翌朝も。その夜も。1週間経っても。
スタンプをプレゼントするという裏技を使ってみた。
無情にもそのスタンプは持っていたらしい。
世界が音もなく崩れていく感じがした。
それ以来、彼女の夢を何度か見る。
見知らぬ男と歩いている姿。笑っている姿。
夢の中でさえ、彼女はこちらを見ない。
目が合わないまま、遠ざかっていく。
そんな嫌な日々をぶつけるように小説を書く日々。
書くことしか、できなかった。
売れることは一向にないが。
日中は大きな声では言えないがゴーストライターの仕事をしている。
大学の友人・村松がテレビドラマの脚本家になっており、「お前の文章にはセンスがある」と言ってくれる。ありがたい話だが、名義は彼のもの。ギャラも、いわゆる“経験値込みの相場”だ。取引先との打ち合わせには呼ばれない。打ち合わせ内容だけが、メールで一方的に送られてくる。
それでも原稿料が振り込まれるのだから、贅沢は言えない。コンビニで好きなだけ缶コーヒーが買えるだけマシだ。バイトせずに仕事として稼げるのだからその方がマシ。
親とも数年前から疎遠になっている。
教師であり厳格な父は大学を辞めミステリー作家になった僕を嫌っている。
作家という不安定な職業が嫌なようだった。
今頃帰る気にもならない。
僕にまた彼女ができたら挨拶にでも行こうかな。
それか作家として成功したらか。
まあ、現実的にいうと実家に帰るのは自分の墓に納骨するときだろう。
午後、常連の顔ばかりの古びた店で、ノートパソコンを開いた。
居心地は悪くない。
Wi-Fiはないが、静かで他人の目も気にならない。
メールに一件の通知。
村松から届いた最新の指示だった。
『「人が死んでんだぞ!」ってセリフ、もっと気の利いた言い方に変えてくれ。』
気の利いた言い方?
知らねぇよ。
舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、ノートを取り出す。鉛筆でいくつかのフレーズを書き殴る。
どれも薄っぺらく感じた。
「命ってのは、安くないんだ」
「誰かが泣いてるってわかってんのか?」
「これは、事故じゃない。そうだろ?」
どれも違う。書いていて、自分の言葉じゃないと思う。まるで他人の口を借りてしゃべってるみたいだ。結局、何も出ないままノートを閉じた。
隣の席では年配の男がスポーツ新聞をめくっていた。
『阪神4連敗!』
俺も連敗中だな、と苦笑した。
特に良い言い回しも思い浮かばず、適当に考えた候補をいくつか送り帰宅した。
家に帰り晩酌をしながらスマホを開く。
賞の最終候補作発表があった。
応募したのは地方文学賞のミステリー部門。
受賞すれば単行本化が約束される。
過去の受賞作はどれも、派手ではないが丁寧な作品ばかり。自分の作風と近い気がしていた。
結果──落選。
名前はどこにもなかった。
念のためと、二度、三度とページをスクロールして確かめた。それでもなかった。
胃のあたりが重くなる。体のどこかが、静かに熱を帯びていく。
わかっていたことではある。
変に期待するだけ無駄だろ、とわかってはいたが心のどこかでもしかしたら?と想像する自分がいた。
裏切られたわけでもないのに裏切られた気分だ。
冷蔵庫の缶ビールに手を伸ばした。プルタブを開ける音が、無性に寂しかった。風呂にも入らず、ベッドに倒れ込む。スマホの画面は黒いまま。メールも、LINEも、着信もなかった。
天井を見つめながら思う。
「俺はもう、終わってるのか?」
誰にともなく呟いた。声はすぐに空気に溶けていった。返事はなかった。
あー。
なにかないのか。