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6/11

戦は終わりました。でも…色々変わり過ぎです。

関ヶ原の戦は終わりました。だが、色々と違ってきておりますようで…。

どうも、結城秀康です。関ヶ原から早や二年が過ぎようとしています…えっ、もう戦は終わり?戦の描写はどうしたって?ええっと…とりあえず関ヶ原の戦は徳川方の大圧勝で終わりました。

まあ、そもそも兵力に差があった上に、何があったか知りませんが、石田方は内部でもめていたらしく連携すら取れてませんでした。しかも結局毛利は吉川さんが動かなかったせいで南宮山にいたままでしたし。それに徳川勢も大活躍でしたし。何処に負ける要素があるのでしょう。

一応戦の流れを説明しておくと、開戦して二時間も経たない内に脇坂安治さん達がこっちに寝返り大谷吉継さん達の軍を壊滅させました。とりあえず、大谷さんは秀秋君を呪ってないみたいです…というより、誰かを呪う間もなく討ち死にしたらしいですし。その後、宇喜多さんとか一部の軍はよく戦っていたようですが、昼過ぎにはおよそ戦は終わっていました。その後、島津さんの軍勢が敵中突破の撤退戦をやってきて、それを追った井伊直政さんが怪我をしてそれが元で死んだのだけが史実の通りだったのですが。

その後、戦場から逃げ出した三成さんはあえなく捕まり処刑されたのも史実通りでした。小西さんと安国寺さんは捕まる前に鉄砲傷が元で死んだらしいので、処刑されたのは三成さん一人でした。処刑される前に大津城で秀秋君と一悶着あったらしいのですが…。


~大津城での秀秋と三成の悶着~

「おおっ、三成。随分と立派な姿になったな」

「…秀秋か。豊臣の一門でありながら、豊臣への恩顧も太閤殿下への恩義も忘れて家康に尻尾など振るなど…家康が豊臣を滅ぼす存在になる事位、お前だって分かるはずだ!恥を知れ!」

大津城で縛られた姿で晒し者となっていた三成の所に秀秋が姿を見せると、三成はそう言って憤怒の表情を向けたのだが…。

「…恥?はっ、馬鹿じゃねぇの…っていうか、お前は仕事以外は元から馬鹿だったか。どうせすぐ死ぬお前にだけは言っておいてやる、豊臣なんてもう終わりだ。これからの豊臣の事を考えるなら何故秀次様やその御子達を殺した?お前がその気になれば止める事は出来たはずだ。よく考えろ、源氏の嫡流は何故滅んだ?頼朝が一族を殺しまくったからだろうが。それとこの事と何が違う?っていうか、あの太閤にこれからの豊臣の事なんて本当に頭にあったのかねぇ?今だから思うけど、そもそも天下を取った後の事なんて何も考えてなかったんじゃないのか?じゃなかったら、天下統一して二年も経たない内に朝鮮に戦に行くなんて正気の沙汰じゃないような事を普通しねぇだろう。そこにあの年になってから秀頼様なんて出来ちまうもんだから、余計にボケに拍車がかかっちまったって典型的な話だろうが。だからあの時点でもう豊臣は終わっていたんだよ。少なくとも、本当にこれからの豊臣の事を思うなら秀次様の件は全力で止めるべきだったんだよ…それこそ太閤を殺してでもな。そもそも三成、お前は本当に豊臣の事を思っていたのか?ただただお前は太閤の事だけが第一で他の事なんてどうでも良かったんじゃないのか?まあ、秀次様の件は何もしなかった俺も同じか…今更何を言ってもな。それじゃあな、三成。せいぜい達者で死ね。そして地獄で太閤に会ったらお前のせいで豊臣は終わったって言っておけ」

秀秋がそう言うと図星をさされたような表情を見せ三成は黙り込む。それを一瞥して秀秋はその場を去っていったのであった。


というわけで秀秋君はまったく歯牙にもかけていなかったわけですが…っていうか、この世界の秀秋君のキャラ違い過ぎないか?俺と同じで現代から転生してきたんじゃないかって本気で思う位なのだが。

さて、とりあえず戦の後はどうなったかというと、まず徳川勢が大活躍なので本来よりこっち側についた豊臣恩顧の武将達への恩賞は少なめです。例えば黒田長政さんには元々の豊前に加えて豊後半国の加増だけ、細川忠興さんには元々の丹後に加えて但馬一国(但し生野銀山は徳川直轄)の加増だけ、福島正則さんには周防・長門の二か国だったりとかです。…えっ、毛利はどうなったって?結局、領地安堵の約束は反故とされて、安芸一国のみに減封になって吉川さんに備後一国という話だったのですが、吉川さんの必死の訴えが認められたのか、備後も毛利領のままになりました。

とはいえ、増える人はちゃんと増えるわけで、例えば秀秋君は筑前一国に筑後の一部が与えられたりしています。後は徳川の方々達は井伊直政さんが近江佐和山で二十万石・本多忠勝さんが伊勢桑名で十六万石+次男の忠朝さんに上総で三万石・榊原康政さんが上野で加増になって十八万石を筆頭に活躍された皆様がそれ相応に加増となりました(本多正信さんは『大した事はしていない』と一万石の加増のみ受けられたようですが)。

それで俺はというと…。

「秀康様、よろしいでしょうか?思案の最中に申し訳ございませんが」

「…ああ、信繁か。大丈夫だよ。そういえば、お前が家中に来てからもう二年になるけどこっちには慣れたか?」

「はっ、幸いにも皆優しく接してくださいますれば何とか…しかし、下総は信濃に比べると暖かくございますな。時折、雪深い信濃の山中を思い返す時がございまするが」

「上田に帰りたいか?」

「いえいえ、私は秀康様の御為に此処に骨を埋める所存にて」

そう、俺は越前でなくまだ下総のままです。領地は加増されて二十万石程にはなりましたが…えっ、それよりももっと気になる事があるって?信繁ってどういう事って?そう、真田信繁さんは俺の家臣になりました。ちなみに三千石で召し抱えております。

何故そうなったかというと、関ヶ原が終わった後で当然真田はどうするかって話になるわけですが(ちなみに上田城は関ヶ原の戦が終わるまで康政さんが囲んだままで、戦の後で昌幸さんの全面降伏という形で終わったそうです)、本来の史実と異なりそんなに真田さん邪魔になってないので、家康さんもそんなに怒ってませんでした。というわけで、昌幸さんの隠居と出家・信繁さんを俺の家臣にするという二つの条件で後は許されました。ちなみに昌幸さんは十徳斎と名乗って上田と家康さんが住んでいる駿府を行き来しているようです(ちょっとだけ家康さんと昌幸さんは仲直りしたらしく、昌幸さんは相談役のような事をしているそうです)。そういや、これだけでもう大坂の陣とか大分違ってくるような…まあ、最早今更かな?

「えっと…それで用事は何だったかな?」

「はっ、この度の江戸への出仕の日の再確認をと」

「ああ、そうだった。もうすぐだったな…家直様も緊張しているだろうから、出来るだけ補佐しないとならないな」

「家直様…御自分の御子なのに様付けなのですね」

「何を言っている、家直様は父上の子であり徳川の後継者になられる御方、如何に俺が実の父親であろうとも、そこの線引きはちゃんとせねばならぬ所ぞ」

えっ、家直って誰?俺の子が徳川の後継者って?そうでした、この二年で起こった最大の変事をお知らせしなければなりません。それは…。


 秀 忠 君 が 死 に ま し た 。


嘘じゃねぇんです。本当なんです。俺も最初聞いた時は嘘だと言ってくれって思いましたけどね!

関ヶ原の前に病気だった事は皆様覚えていらっしゃいますでしょうか?その後も病気は一進一退を繰り返すも、それ自体は命に関わる程のものではなかったはずなのですが…関ヶ原から半年後、突然容体が急変して死にました。これには家康さんも相当ショックだったようで、さすがに二日間位泣きっぱなしでしたよ…多分、俺が先に死んでも同じ位は泣いてくれないだろうけどね。

そしてこの時点で秀忠君に息子がいませんので(本来では、家光が生まれるのは関ヶ原から二年後)、徳川の後継者を誰にするかという問題が出てくるわけです。そこで、忠勝さん始め徳川家臣のほとんどが推してきたのが…そう、俺なんです!何で!?俺は大大名で左団扇生活が送りたいだけなのに!徳川将軍なんて冗談じゃねぇです!

俺のその思いとは裏腹に、皆は俺が真田の足止めを見破った上に家康さんが命令を変更した事を看破して軍を西に進めた事なんかを凄い評価してきて、俺こそが徳川の後継者にふさわしいとか何とか言ってくるし!違うんです、俺はそれを知っていただけなんです…って、言った所で通じるわけないし。でも俺が後継者なんて真っ平御免蒙る!

というわけで、俺は既に秀吉さんの養子からさらに結城家に養子に入った身であるから、今更徳川の後継者というわけにはいかないとか色々強弁しまくってとりあえず俺が後継者というのは何とか回避したのですが、結局…。


 俺 の 息 子 が 後 継 者 に な り ま し た 。


俺の長男(一応、この世界では天正二十年の生まれなので今は満で十歳になります)が『家直』と名乗り家康さんの養子となって徳川の後継者になりました。しかも、秀忠君の長女の千姫ちゃんと結婚するそうです…えっ、秀頼と婚約していたんじゃないのかって?関ヶ原が本来より徳川の力が強い状態で勝ったもんだから、豊臣に対する忖度はそんなにいらなくなったそうで、そちらの婚約は破棄となったそうです。それと、ちなみに結城家は俺の次男が継ぎますので。

とはいえ、実の息子が跡継ぎである以上俺も何もしないわけにはいかなくなりましたので、俺も政務に参加する事になって江戸に出仕する事になりました。本来の史実での四代将軍家綱の時の保科正之のポジションみたいな感じです…あっ、この世界じゃもう家綱も正之も生まれねぇじゃねぇか。代わりに俺がって事か!?俺の左団扇生活はこれで遠のくのか…いや、まだ諦めるには早いぞ!この仕事を早い内に誰かに押し付けて、俺は絶対に左団扇生活を送ってやるからな!見てろよ!!



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― 新着の感想 ―
[一言] 家康死後、家直くんが大御所とか色々送ろうとしても断って後の尊号事件をへし折るんですね。幕府創設の功労者が断っているのに欲しいとは言えない。
[一言] お江さんの引き取り手が必要なんじゃないかな(チラッチラ
[一言] 世子とは別腹の軍功と人望を兼ね備えた兄弟とか簒奪フラグ満載の相当な厄ネタ(直近で有名なのが明朝の永楽帝)だし、歴史に造詣のある家康もそれは意識しているだろうから秀忠逝去はある意味タイミングが…
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