戦の世は終わったので、左団扇生活の準備に入ろうとしたのですが…。
豊臣は滅び、色々と違う事は多かったですがとりあえず元和偃武を迎えました。後は忠輝君に仕事を押し付けて左団扇生活にと思っていたのですが…また色々と違ってきてるのですが!?
どうも、結城秀康です。早いもので大坂の陣から十年が経過しました。戦の世は段々と過去の物となりつつある今日この頃です。とりあえず俺はまだ元気です。本来より随分長生きしたものです。まだ死ぬ気はありませんけどね…でも、いっそ若死にしていた方が楽だったのではと思う時もあったりします。というのもこの十年の内に…。
忠 輝 君 と 家 直 君 が 死 に ま し た 。
(ちなみに忠輝君が大坂の陣から四年後、家直君が七年後)
何で!?嘘だと言ってよバーニ…じゃなかった、忠輝君、家直君!!っていうか、忠輝君は九十過ぎ位迄生きるんじゃなかったの!?何でこんなに若死にするの!?ひどいよ、ひどいよ、皆俺を置いて逝ってしまうなんて…よよよよ。
泣き言はともかく、将軍様が死んだ以上、後はどうするんだって話で…まあ、実は冬の陣の時に既に正室の千姫ちゃんは妊娠しており、夏の陣が終わって数ヶ月後に無事に男の子を産んでいたので、その子が三代将軍として後を継ぐわけですが(ちなみにその後家直君と千姫ちゃんの間には女の子と男の子が一人ずつ産まれてます)、当然家直君が死んだ時にその子はまだ満で六歳になろうかという所なので無論政務など無理な話なので、結局全て俺がやるしかないという話なわけで…ちっくしょ~~~う!!!
というわけで…。
「秀康様、酒井様より庄内の不作についての助言をと…」
「秀康様、九州で大規模な一揆が…」
「秀康様、朝廷と所司代より次の勅使派遣についての問い合わせが…」
「秀康様、比叡山から…」
「秀康様、長崎奉行から南蛮人に対する処遇についての…」
「秀康様…」
「秀康様…」
ああ~~~~~~っ、もう!なんでもかんでも俺にふってくるんじゃねぇ~~~~~!老中共と奉行共もっと仕事せんかい、ボケぇ!!
ああ、もう分かってるよ!最終的に将軍の決裁がいるから俺がその代行をしなきゃならん事位!!
ちくしょう!ちくしょう!何でこうなった!!史実通り梅毒で早死にすれば良かったのか!?俺が長生きしたから、本来長生きする奴が皆若死にしたのか!?俺の左団扇生活は一体何時になったら実現するんだよ~~~!!!くっそ~~~~っ、俺は絶対諦めないからな!!早い内に仕事を誰かに押し付けて左団扇生活を送ってやるんだからな!!!見てろよ、こんちくしょう~~~~~!!!
~以下、この世界の未来におけるWi○ipe○iaの結城秀康の項目より抜粋~
結城秀康(1573~1645)
徳川家康の次男にして二代将軍徳川家直の父、三代将軍徳川家憲の祖父。
関ヶ原の戦いにおいて中山道より徳川本軍を率い、真田昌幸の足止めをも出し抜いて本戦に合流し勝利に貢献する。
大坂の陣においては冬の陣を前にして倒れた家康の代わりに全軍の指揮を執り、松平忠輝の協力も得て豊臣との講和を有利に進める。続く夏の陣においては豊臣の軍勢が押し寄せてくるのを見事に跳ね除け勝利をもたらす。
その後の徳川幕府黎明期において大坂の陣の直後に亡くなった家直の後を継いだ家憲を支え、幕府の数々の諸制度を造り上げた。それ故、後世の歴史書には揃って『徳川幕府は結城秀康によって造られたと言っても過言では無い』と書かれる。
その後、齢七十を越えるまで幕政に参加し、島原・天草一揆においても陣頭で指揮を執り、家憲の体制が固まったのを見届けた後に一線より退く。将軍・幕閣よりの度々の要請にも拘わらず生涯結城姓のままであった(死後、跡を継いだ康直の代より松平姓を名乗る事となる)。
※注) 結城家は康直の次男が相続し、現代に至る。
しかし、隠居より僅か九日後、朝起きてこない事に不審に思った家人によって眠ったそのままに静かに事切れた姿で発見される。
葬儀は将軍と同じ格式で盛大に執り行われ、その亡骸は家康と同じ日光東照宮に葬られる。現代において東照大権現といえば家康・秀康の二柱を指すのはこれに由来する。
こうして秀康の人生はまさに徳川と幕府を造り上げる為に捧げられたのであった…但し、それが本人の本当の思いとは裏腹であった事は誰も知らない(笑)。
以上で完結となります。短い間でしたが、お付き合いいただきありがとうございました。また何かしら思いついたら書いていこうと思うので、その時はまたよろしくお願いします。