これ以上
三題噺もどき―さんびゃくさんじゅういち。
昼間の熱が、未だに居残るようになってきたこの頃の夏は、少し寝苦しい。
数年前も居残っていた熱はあれど、こんなにも寝付けないなんてことはなかった。
―あの方と出会った頃なんてもっと涼しかった。
「……」
元より、眠ることは必要ではない身ではあるけれど。
人と共に在るようになったせいで、寝苦しさというものを覚えてしまった。
―あの頃は、寝苦しい夜がたまにあっても。あの方がいたから。苦しさも和らいで、ただ愛しいと言う思いだけで満たされて、幸せでいっぱいだった。
「……」
今では、布団に就くことすらない日々が続いている気がする。
この暑さでは、どうも…寝る必要がなかったのだということを。いまさらにして思いだしてしまって、特に何をするわけでもないのに。
起きて、縁側に座って、1人で座っている。
「……」
あぁ、でも。
眠らないようになったのは、ずいぶんと前からだったように思える。
あの方がいた頃は、気づけば寝ることが当たり前になっていたけれど。
―いなくなったあの日から、眠ることを忘れたように。1人、こうしていたような気がする。
「……」
古い我が家は、今を生きる人々が見れば。あまりの古さに、化け物屋敷だと言われてもおかしくないかもしれない。
山のずいぶんと奥深くにあるこの家は、なおのこと。
―まぁ、残念ながらこの家が他人の目に触れることはない。そういう風にしてあるから。ここは、あの方と、私だけが知っていればいい。
「……」
ぼぅと、見上げる空には、満月が浮かんでいる。
あれを、美しいと人は言うけれど。
私にはどうも、恐ろしく見えて仕方ない。
「……」
夜という巨大なバケモノが、大口を開けて待ち構えているように見えてしまって。
日に日に少しずつ、その口を、恐れられないように開いていって。
満月と呼ばれるその時に、生きとし生けるものを、死に行くものを、その口で喰らわんとしているような。
「……」
あの方を、満月の夜に失ってしまってから。さらにあの満月が、恐ろしくて、憎くて、仕方ない。
「……」
満月になる丁度ひと月前の、新月の時。
あの方は、床に臥せた。
医者には、老衰だと言われた。あの頃にしては珍しかったらしい。
私には、あの夜のバケモノが食うための準備を始めたのだと思えてしまった。
次の満月の時に、連れて逝くのかと。
「……」
夜がゆっくりと口を開けるにつれ。
少しずつ弱っていくあの方を、そばで見つめることしかできなかった。
新月のその日から。
動くことが困難になり。
話す事が難しくなり。
食事ができなくなってゆき。
目覚めることもできなくなって。
―満月の夜に。ぱたりと心の臓が動きをとめた。
「……」
あの日。
雲に隠れた満月が、現れることに心なし怯えながら。
床に臥せったあの方の横で、私は針仕事をしていた。
気を利かせたあの方が、必要だろうと言って買って与えてくれた針箱を横に置いて。
静かに。それでも確かに。
聞こえていたあの方の呼吸の音を感じながら。
生きていることを実感しながら。
「……」
このまま静かに、月が出ることなく。
あの口に食われることもなく、次の満月までは―と思い始めたその時に。
「……」
ふいに現れて。
あの方を照らした満月に。
パクリと。
パタリと。
喰われた。
「……」
心優しいあの方。
私を救ってくれた愛しいあの方。
私が人ではないと分かっていながらも、生涯を共に在ってくれたあの方。
私に食事を教えてくれたあの方。私に眠ることを教えてくれたあの方。
私に仕事を与えてくれたあの方。私に生きることの幸せを教えてくれたあの方。
―私に、別れることの苦しさを、痛みを、寂しさを。今でも教えてくれているあの方。
「……」
今ではもう。
ここに縋る意味もないのだけれど。
1人こうして縁側に座って、外をぼぅとみているだけの暮らしをしている意味はないのだけれど。
「……」
ここを離れると、全てを忘れてしまいそうで恐ろしいのだ。
あの方を。
愛しいあの方のすべてを。
忘れ行くようで、恐ろしい。
もう年月は数えられないほどに過ぎ去ってしまったけれど。
「……」
未だ覚えている。
この身に染みている。
あの声を。
あの手触りを。
あのお顔を。
忘れることが。
「……」
だから私は。
名前を忘れてしまったあの方のことを。
これ以上忘れてしまわないように。
あの方を奪った月を睨み。恨み。
ここに居る。
お題:満月・古い・針箱