第三十九話 古傷(3)
あの日は、確か雨が降っていた。
出場辞退を表明したその日、図書庫で勉強していたら遅くなってしまい、夕方ごろに学園の宿舎にある自室へ戻ろうと、傘をさして歩いていた時に突然声をかけられた。
「レッドぉ! 貴様、どういうつもりだ!」
目の前に現れたスケイプは、傘を差していなかった。
王族の証たる美しい金髪も、誰もが褒め称える美貌も、全て雨で汚しながら、ずぶ濡れの状態で正面からこちらを睨みつけている。
「スケイプ……」
来るとは分かっていたものの、実際現れたスケイプに何も言えなくなり、目を逸らす。
だが、スケイプはそんなことを許しはしなかった。
レッドにズカズカと接近し、ぐいと胸倉を掴み上げる。
「何故だ、貴様! 何故辞退した!
私と決着を付けると言ったはずだ、間違いなく!
それだというのに、何故、何故……!」
そう詰め寄るスケイプの目は怒りに血走っていた。
今までよりはるかに強く、激しい怒りに満ちた、憤怒の表情。
「…………」
正直、言わない方がいいと思っていた。
自分が辞退した理由を、隠し通すべきだろうと。
しかし、この怒り狂った姿を見ると、
黙ったままでいるのが、正しいとはどうしても思えなくなってしまった。
「おい、黙ってないで何とか言ったら……!」
「――昨日、武術大会について俺に話を付けに来た奴らがいたんですよ」
唐突に告げられた台詞に、不意を打たれたのか顔から怒りが消え真顔に戻ってしまう。
「話――だと? まさか、武術大会でわざと負けろと指示されたか?」
思い至ったのか、またしても顔を紅潮させ怒りを滲ませていく。
まあ、そう考えるのが自然だろう。
確かにそう言われた。スケイプ様の為に、お前は勝ちを譲れと取り巻きたちに。
だが、
「――それならまだ良かったんですがね」
「なに?」
予想外の事を言われ、スケイプは混乱を表に出した。
スケイプの取り巻きたちは、にべもなく撥ね付けその場から叩き出した。
でも問題は、その後に来た奴だ。
「勝たせてやるって言われました。決勝でお前がスケイプに勝てるようにしてやるから、こちらの言うことに従えって」
「は?」
スケイプは困惑していた。
無理もない。初めに人気の無い場所でこんな話を聞かされた時は、レッドも同じ反応をしたものだ。
「――スケイプには、こちらで手を打っておくとも言われましたね」
「な、なんだと? どういう意味だ? どうしてそんなことを――」
スケイプの反応からするに、本当にこの話の事は全然知らず、またまだ話が来ていなかったのだろう。あるいは、何か工作する気だったのかもしれない。
そんな彼にこれ以上言うのは躊躇われたが、ここまで来れば喋らないのは無理だった。
「――取り分は、こっちにも充分出すと言われましたね」
「な――っ!!」
驚愕したその顔を見るに、スケイプもようやく全てを理解したのだろう。
要は、闇賭博のための工作を依頼されたのだ。
この国で賭け事というのは別に悪い事ではない。国が経営する闘技場やカジノはいくつもあるし、酒場では当たり前に賭け事が行われている。
しかし、このような公式な大会の勝敗を、許可も得ずに賭けの対象にするのは禁止されている。八百長やら裏工作されるのが目に見えているからだ。
だが、そういった闇賭博こそが、普通のギャンブルに飽きた者たちが一番楽しめるものである。隠れてそういった違法賭博が行われていること自体はレッドも知っていたが、まさか学園の武術大会までその対象になっているとは知らなかった。
「それで――出場を辞退したのか」
「なんか――馬鹿馬鹿しくなっちゃいまして」
これは本当の気持ちだった。
恐らく彼ら闇賭博の主催者にとって、スケイプの二連覇は気に入らないものだったのだろう。
賭博というのは、あまり勝ちが見えているのでは面白くない。絶対勝つ者に賭けても旨味が少ないからだ。当然盛り上がりもせず、胴元も儲けが少ない。
そこで彼らが対抗馬として目を付けたのが、同じ公爵家の息子でたまにスケイプと打ち合っている姿を見かけるレッドだったのだろう。レッドをライバルとして実際以上に担ぎ上げ賭けを盛り上がらせ、そして決勝でスケイプを負けさせることで賭け金を一気に奪い取ろうとしたに違いない。あの言い分からすると、武術大会の運営や審判も買収している可能性が高い。
そんなことを思うと、とても試合に参加する気になれなくなった。それがまあ、一つの理由だった。とても本気で戦うなんて出来ない、というところだ。
それはきっと、今自分の目の前で愕然とした表情を浮かべている男も同じ気持ちだろう、とは思った。
「――誰だ」
「え?」
しばらく愕然としたままだったスケイプだったが、急に胸倉を掴んだ手を強くし、声を荒らげて詰問する。
「誰だ、誰だそんな指示を出したのは!」
「…………」
これも、答えるかどうか悩んでしまった。
この事実を話してしまえば、必然言わざるを得なくなるからだ。
しかし、言わないことは出来ないだろう。そう思い、決意することにした。
「答えろ! そんなふざけた真似をしたのは……」
「……それは」
寸前で、言い淀んでしまう。本当に正しいのか、判断が付かない。
けれども、スケイプの瞳を見れば、誤魔化すことなんて出来そうにもなかった。
「――ギュンダー・ヴィルベルグ公爵家子息様ですよ」
その瞬間、
胸倉を掴んでいた手がふっと離れ、スケイプは膝から崩れ落ちた。
地面に向けて俯いてしまったため、表情を窺い知ることは不可能だった。
しかし――多分、先ほどと同じ表情をしているだろう。
愕然も呆然も越えた、絶望しきった表情を。
「――試合は、辞退しない方がいいですよ」
レッドは俯いたままのスケイプに自分の傘を立てかける形で渡しながら、そう告げた。
「貴方まで辞退したら、多分あいつら報復措置を取る」
と言葉を残して、その場を雨に濡れながら立ち去った。
――あれで良かったのかな。
そう思いつつも、隠し通す事が出来るとも思えない以上、全て話すしかない。これが精一杯だった。
ヴィルベルグ家は学問を尊ぶ家柄で、学者、高名な魔術師、もしくは政治の要職を代々務めてきた。
当然、政治家というのは頭がいいだけでは出来ない。同じ政治家や王族たちとの繋がりや取り引きが重要になる。
そんなコネや裏の関係を作るのに、同じ貴族が大量に通うこととなる学園は絶好だ。あの男は魔術研究のためと言っていたが、本当はそうした裏の関係を作る為に学園に来たのかもしれない。
恐らく、あの闇賭博の組織だってあの男が作った訳ではなく、ずっと昔から存在するのだろう。彼は学園に入ったのは、そのような裏組織を”継承”するためもあると思われる。
そんな連中に、王族や公爵家の息子であるスケイプやレッドが戦って勝てる訳が無い。仮にこの事実を公表しようとしたところで、握り潰されるのがオチだ。
レッドの出場辞退は連中にとって腹立たしいはずだが、それでも大して気にはしないだろう。また別の対立候補を見つけてくるだけだ。
「――残酷だな」
ヴィルベルグ家の息子に主席の座を取られ、誇りを傷つけられても諦めざるを得なかったスケイプ。
ならばと進んだ剣の道。努力を重ね苦痛にも耐え、実際彼は二回も大会を制覇し学園最強という名誉を手にした、はずだった。
それも全て、自分を蔑ろにした世間を見返してやりたいという純粋な気持ちがあったからだ。
だが――その純粋な気持ちすら、下らない金儲けに費やされていたなど、彼の気持ちは察するに余りある。
しかも、その相手がよりにもよって自分から学園主席の座を奪った男だなんて、絶望するのも当然だろう。こうなってしまえば、去年までの大会二連覇すら疑わしくなってしまう。
一度プライドを打ち砕かれ、なおも立ち上がった彼が、また同じくプライドを打ち砕かれてしまう。あまりに無情な話だ。
「――神様がいるかは知らないけど、随分酷いことするもんだな」
そんなことを、ポツリと呟いたその時、
どこかからか、獣のような慟哭が響いた気がした。
***
「ん……」
ふと、目が覚めた。
起き上がって場所を確認すると、王城で自分が借りている部屋だった。ベッドの上で眠っていたようだった。
時刻は夕方近くなっている。
「そういやあの後、疲れたから昼食は要らんと言って寝たんだっけ……」
スケイプに会って、彼が激昂したそのすぐ後、意外なことに特に話もせず去っていった。
てっきりまた激怒すると思っていたレッドは驚いたものだ。
「――変わっちまったな、あいつ……」
レッドは先ほどの夢を回想しつつ、その後のことも思い出していた。
スケイプはあの後、何事も無かったように武術大会に出場し、そして優勝した。
レッドは試合観戦にも行かなかったが、その後の噂で「スケイプは優勝したのに全然嬉しそうじゃなかった」と噂されていたのは耳にした。
それ以来、スケイプがレッドに絡んでくることはなかった。レッドが剣術クラブに通わなくなったというのもあるが、あちらもこちらを探そうとはしなくなったらしい。
そのまま二人は学園を卒業し、再会することもなく終わったはずだろう。
レッドが、聖剣の勇者になどならなければ。
「――酷い事しちゃったな」
思い返してみても、レッドは未だにそう思っている。
闇賭博の一件に、レッドが関わっているのはごく僅かに過ぎない。レッドに罪があるか否かと言えば、否だろう。
しかし――だとしても、そんな残酷過ぎる現実を、一切歯に衣着せぬ告げてしまったのは自分なのだ。
彼が培ってきた努力と自信、そこから生まれるプライドを粉微塵に打ち砕いてしまったのは間違いなくレッドなのだ。
誇り高い彼が、高くあらねばいけなかった彼が、それでどんなに傷つくか、分かっていたのに傷つけてしまった。
今の剣を愚弄している彼の姿を見て、自分の業の深さを噛みしめていた。
「――結局、俺は前回の俺と大して違いなんて無いのかもな」
そう自嘲気味に笑っていると、ふと部屋の外からノックの音がした。
「誰だ?」
「失礼します、レッド様。お目覚めでしょうか?」
その声は、この城にいる間レッドに仕えるよう役目を貰ったメイドの声だった。
「何の用だ?」
「緊急で勇者様たちにお話があるとの事です。教会から御出での方がお待ちになっております」
「教会から――?」
その言葉にレッドは嫌な予感がしつつ、とにかく分かったと応じて支度をすることにした。
はい、というわけで回想回は終了です。なんか自分でも想定外の話になっちゃった。
まあいつもの事だけど。タイトルはこのまま持続させますが理由は後日判明させる予定です




