第八話 ヴェルヌ川にて(1)
「うわあ……」
思わず、レッドはそんな感嘆の言葉を上げてしまう。
目の前には、大きな水溜まりがあった。
それもヘスペリテ湖よりもはるかに、比べものにならないほど大きく、長い水の流れがあった。
当たり前の話である。レッドが今いるのは、ヘスペリテ湖などという小さい湖ではない。
この大陸を横断する最大の川、ヴェルヌ川のほとりだったのだ。
(なんだいレッド、ヴェルヌ川は初めてかい?)
(いやそんなことは無いさ。ずっと昔、お父様に連れられて来たことがあるよ。ただ、あんまり小さすぎてほとんど忘れちまったがね)
川岸を眺めると、大きな港と倉庫、そしていくつもの帆船が停泊していた。この川はあまりに大きく、川を渡って水運業が盛んになっている。
その水運業の拠点の一つが、このソロンだったのだ。
(アシュフォード領が栄えたのは、このソロン港のおかげでもある。水運は陸運に比べればはるかに大量の荷物を運べるからね。そしてその荷物を運ぶために街道も整備されて……って、聞いてるのかいレッド?)
(ああ、はいはい)
返事はするものの、どう見ても空返事である。彼は青く見渡す限り果てなく流れる水に魅せられていた。その瞳は、まるで少年のようだった。
レッドは、幼き日のことを思い出していた。
遠い日、父が何かしらの仕事へ向かうとき、の連れて行ってくれた記憶。今にして思えば生まれて間もなかったレッドを、付き合いのある商人や貴族に顔合わせする目的だったのだろう。だいぶあちこち行かされヘトヘトになった覚えがある。
その時、訪れた場所の一つがヴェルヌ川だった。当時のレッドは川も海も見たことが無く、大きな水溜まりと聞いていたので、このヴェルヌ川が海だと思ってしまった。付いてきた従者からは笑われたものだ。
とにかく、ヴェルヌ川の港から船に乗り、海まで乗っていったのをよく覚えている。船酔いもしたが、揺れる船の感覚と美しい海の姿は忘れられなかった。
悪夢に苦しみ、うなされる日々で、家族の記憶もほとんど無かったが、それは数少ない綺麗な記憶として今も残っている。
そんな懐かしい記憶のある川だが、今回はそんな浮かれ気分を満喫している余裕は無かった。
(やれやれ、観光気分でいちゃ困るよ? 僕らは仕事で来たんだから)
(……わかってるっつの)
口ではそう言うものの、気分を害されたのかぶっきらぼうに答える。
レッドたちは今、自警団の面々と歩いていた。昨日所属したばかりの彼らと港まで来たのは、勿論観光でも単純な警備でもない。
この港周辺、ヴェルヌ川に潜むという魔物を退治するためだった。
***
事の発端は、半月ほど前に遡るという。
このソロンへ向かっていた輸送船が、ある夜に一瞬にして沈んでしまい、生存者は誰もいなかった。
初めは事故か何かと思われたが、その後も立て続けに同様の事件が起きる。
連続して発生した原因不明の沈没事故に、流石に異様なものを感じていると、数少ない生存者からようやく情報が聞き出せた。
水面から何かが襲いかかってきて、一たまりもなく水底に引きずり込まれた、と。
恐らく、海から魔物が侵入しソロン港に住み着いたのだと推測されたが、大型の輸送船を一瞬で沈めるとなればかなりの魔物である。警戒態勢が取られた。
基本的に魔物の活動時間は夜だということで、昼間に限定するということで流通は未だに続いていたものの、放置しておけばこの港に船が来ることは無くなるだろう。水運を経済の基盤にしているソロンからすればそれは致命傷だった。
本来ならば王国に要請して軍を派遣して貰うところだが、王国は王都の問題で手一杯であるし、何より新王都だの粋がっているソロンのことを不快に感じているため、軍を動員しようとはしないだろう。かといって、ソロンが隣国レムリー帝国へ支援要請すれば激怒するに違いない。
ならば冒険者ギルドに依頼したいところだが、冒険者ギルドもその王都の魔物退治の応援として呼ばれていて忙しい。大金を積んだところで、ソロンへ来るのはだいぶ先になるだろう。
故に、出せる戦力としてはこの街の衛兵と自警団くらいなのだが……正直、心もとないと言わざるを得なかった。
(まあ、状況から考えて、クラーケンの類いだと思ってるんだろうね。だからこそ、自警団でも何とかなると踏んで来たのさ)
(――クラーケンて、あのイカの化け物か。見たことは無いけど、存在は知ってるよ)
(あら、君知ってるの?)
(前に海へ行ったとき、付いてきたメイドに食わされた)
(珍しい。アトール王国ではイカを食べる文化は無いのに)
そんなどうでもいいような話をしながら、レッドはクラーケンの知識を思い返していた。
外見はイカと遜色無いが、大きいものだと五メートルは上回るという。
柔らかいが強靱な皮膚を持ち、大抵の攻撃は跳ね返してしまう上に、水の中を自在に泳ぎ回るため地上からでも水上からでもダメージを与えづらい。しかし、かといって水に潜ってしまうとクラーケンの独壇場だ。
しかも厄介なのは、イカの名に違わぬ十本の足。ぐねぐね動く触手は縦横無尽に走り回り、相手を捕まえてしまう。捕まった相手に待つのは絞め殺されるか喰い殺されるかだ。
というわけで、厄介極まるクラーケンだが、自警団は本気で倒す気でいるらしい。この街の治安を守る自警団としては絶対倒さねばならない相手だというのは分かるが――はっきり言ってしまうと、勝てるとはとても思えない。
だが、そんなことは自警団自身も百も承知であり、ちゃんと対策は講じてあった。
「…………」
レッドは自警団の面々と歩きながら、ちらと後ろの方を見る。
後方には、荷車に運ばれた大きな樽が、何個も乗せられていた。しかも、それは二台もある。その荷車も、この行進に同行するものだった。
(――なあ)
(なに?)
(ホントに、あんな樽でクラーケンを仕留められるものかね)
(――どうかな)
なんとも言えない答えが返ってきて、レッドは思わずため息をついてしまう。
朝方、自警団から聞かされたクラーケン討伐作戦の内容はこうだった。
まず、クラーケンの生息地と目される場所に囮の小舟を用意する。ここ最近昼間の渡航を禁止したため、クラーケンはしばらく餌を食していない。そこにクラーケンの好物である鯨の血肉をベッタリ塗れば、必ず寄ってくるという。
その小舟には鯨の他に、酒の入った樽を置いておく。クラーケンは酒に弱いとされているので、小舟ごと喰ったクラーケンは確実に酔っ払って動きが鈍くなる。
そこに接近して、もう一つの樽を投げ込む。投げ込む樽には爆薬が大量に詰め込まれている。それをクラーケンに投げつけて、爆死させるという手筈だった。
クラーケンの活動時間は夜なので、夜に始めるべきという意見もあったが、夜間の視界の悪い状況でクラーケンとの戦闘は危険であるとされ、昼に作戦開始することで纏まる。無論、作戦を行う際は港の船や周辺にいる者には退避するよう命令するそうだ。
(――まあ、作戦としては悪くないよ。良くある手だけど)
(魔物退治の作戦に、新味なんていらんよ)
(ははは。そりゃそうだけどさ。僕が思うに、別に大丈夫だと思うよ。クラーケンなのは間違いなさそうだし、作戦だってきちんとしている。――ただ)
そこで、ジンメの声色が変わる。いつもふざけたようなことを言ってくる人面野郎だが、この手のトーンでは真面目に話すことをレッドは経験で知っていた。
(ただ――なんだ?)
(あくまでそれは、普通のクラーケンだった場合の話さ)
普通の、を強調するジンメの弁に、レッドは背中に冷たいものを感じた。
(普通の――ってどういうことだ?)
(そのままの意味さ。普通のクラーケンだったらこの作戦でも倒せるだろうね。しかし、相手は普通じゃ無い可能性がある)
(根拠は?)
(無い)
「はあ?」
思わず心の中ではなく実際の声として出してしまった。周囲の自警団たちが何事かと思って振り返るので、慌てて口を塞ぐ。
(なんだよそれはっ。勿体ぶるなって言ってるだろうが俺はいつもっ)
(勿体ぶってないよ。根拠が無いけど、疑わしい部分があるって言いたいのさ)
(なに?)
ジンメの言い様に、レッドは首をひねる。
(報告書読ませて貰ったけど、被害に遭った輸送船がデカすぎるんだよ。いくらクラーケンでも、あれだけの巨大船をあっさり沈めるなんて出来るもんかね。沈め方はクラーケンでも、実際に姿も大きさも確認されていないでしょ? 通常のクラーケンじゃないかもしれないよ)
(――伝えなくていいのか、それ?)
(どうやって? 僕らは昨日入った新人で、しかもスパイじゃないかと疑われているような奴だよ? そんなのの進言なんか聞くわけないじゃん)
(……耳の痛いことを言いやがる)
しかし、事実ジンメの言うとおりであった。レッドは素性もはっきりしない流れ者、しかも王国かどこかからの密偵かもしれない。そんな疑惑が持たれている相手が何を言おうと、真面目に聞くとは到底思えなかった。
必然、こうして不安を抱えたまま、黙って同行するしかないというわけだ。
(――辛い初仕事になりそうだな)
(まあ頑張りたまえ。仕事とは常に大変で厳しいものさね)
(他人事みたく言うなっ)




