ありふれた爪先で復讐を
「お帰りなさい。あなた」
午後十時も回った頃。
百香の夫・直人がようやく帰宅した。
リビングから百香が玄関まで直人を出迎える。
直人からコートを受け取り、靴をきちんと揃えながら、百香が問う。
「食事とお風呂、どちら?」
「風呂」
直人は短くそう言うと、早々とバスルームへと向かう。
百香は直人が脱衣所に脱ぎ散らかしたワイシャツやソックスを拾い、クローゼットからハンガーを取り出してスーツをかけると、ブラシで埃を落とし整える。
そして、キッチンで味噌汁を温め直しながら、準備していた海老、さつまいも、南瓜、大葉の天ぷらを手早く揚げる。つけあわせには、赤味噌のバター肉じゃが。直人の好物で、これも軽く火を通す。
風呂から上がり、用意されているパジャマに着替えた直人が、タオルで頭を拭きながらリビングのテレビをつけるとダイニングテーブルにつき、おもむろに箸をとり、食事を始めた。
会話はなく、直人は黙々と食事をしていた。
広いリビングダイニングに夜のニュースを読み上げるテレビキャスターの声が響いていたが
「明日から二泊三日で出張だから準備してくれ」
と、直人は言った。
「出張?」
「ああ」
「わかったわ。下着とワイシャツや靴下の替えをスーツケースに用意しておくから」
百香は答える。
「ごちそうさま」という短い一言を残して直人がテーブルを立つと、百香は早速、直人の出張の支度を始めた。
パリッとのりがきいた白いワイシャツ、直人に似合うネクタイにアイロンがけがキチンとされたハンカチ、清潔なビジネスソックスに至るまで百香はきちんと準備を整える。
それらをてきぱきとスーツケースに詰めると、クリーニングに出したばかりのスーツを出しながら、明日も五時起きで直人を送り出さなければと百香は思う。
翌朝。
百香は直人にいつものように手作りの弁当を準備した。直人は食の好みがうるさく、自分の好きな物しか食べない。だから、出張といえどもその日の昼食の分だけは百香がちゃんと用意する。
直人を送り出すと、百香は家中を丹念に掃除し、整理整頓に精を出す。
常に、家の中を居心地の良いように保つ。
直人がいつ帰宅しても、直人の好きな手料理を用意するのは勿論、直人が恥をかかないような衣服を買い整える。
それは、実に煩雑で神経を遣うことだ。
それでも、直人から感謝の言葉はない。
直人は、それが当たり前のことだと意識もしていない。
直人とは恋愛結婚だった。
大手証券会社に入社して直人と知り合ったのは、百香がホールセール部門に異動になった二十五歳の春。百香の直属の上司になったのが直人だ。
百香が懸命に仕事をこなす内に、二人は自然と恋に落ちた。
お互い仕事が激務でなかなか結婚に至らなかったが、百香より五歳年上の直人はそろそろ身を固めないと出世に響くという理由で、交際四年目にようやく二人は結婚した。
百香は直人を愛していたし、仕事が出来るエリートの直人と寿退社して専業主婦に収まった百香は、自分が恵まれていることを自覚していた。
その頃は、まだ甘い新婚気分があった。
それが、いつからだろう……。
こんな無味乾燥な生活になったのは。
その理由はわかっている。
それ以上、百香は考えていたくなくて、自分専用のパソコンデスクの前に座った。
家事の合間を縫って、株価のチェックに余念のない百香は、働いていた頃の知識を総動員して株で自分の預貯金を確実に貯めていた。その額は今やかなりの額に達している。
しかし、百香はそれを遊興費になどには遣わない。
それは、やがてきっと遠からず必要になる資金だ。
そうして、今日も百香の一日は終わる。
◇◆◇
「百香。話がある」
ある晩、食事が済んだ後、百香が汚れた食器をシンクに運ぼうと立ち上がった時だった。
珍しく直人の方から百香に会話を持ちかけてきた。
百香は、いよいよ遂に“その時”が来たことを直感的に悟った。
「別れてくれ」
直人は、まるで「飯」とでも言うような気軽さでその言葉を口にした。
「俺の子供ができた女がいるんだ。お前とは不妊治療までしたのに、俺の子はできなかったんだ。あの時、子宮後屈で妊娠しにくいって言われたんだろ」
“俺の子供”
“女……”
百香の頭の中で直人の言葉がリフレインする。
しかし、それは百香の想定通りの言葉だった。
「……そうよね。あなたは完璧よ。いいわ、別れてあげる」
百香は、あっさりと直人の言葉を受け入れた。
「その代わり。あなたの浮気が原因なんだから弁護士を立てて、まとまった慰謝料は頂くわ。相手の女にもね。夫婦共同名義の財産もきっちり半分と。それから、このマンションのローンは今まで通りあなたが払うこと。でも、名義は私に替えて私はそのままここに住む。そのくらいの権利はあるはずよ」
「好きにすればいい」
そう言い残して、直人は百香とは別室の寝室へいつものように消えていった。
直人の浮気は今に始まったことではない。
百香が直人との間になかなか子供を授からないのが不満なのか、単調な結婚生活に飽きたと言わんばかりに直人は他の女に手を出すようになっていた。
いつかこんな日が来ることを覚悟して以来、百香は念入りに策略を練っていた。
家事の傍ら、株に目を皿のようにして取り組んだのも、一人で食べていく資産を貯めるためだった。
何より。
どうやったら、直人に復讐できるかだけをこの日のために考え、実行した。
百香は、どんなに直人から無視されようとも、何処よりも居心地の良い家庭作りを心がけてきた。
直人の好きな料理、衣服、常に綺麗に掃除が行き届いた住空間。
目に見えないようでいて実は快適この上ない暮らし。
少しずつ、直人を百香なしでは生活できないように骨抜きにしていった。
今度の浮気相手も若い女。
ジェルネイルに凝っていて、インスタに直人とのデートの様子をあけすけにアップするような、ただ百香より若く、美人というだけの女。
あんな爪を持った女にまともな家事ができるわけがない。実際、インスタにお取り寄せの食事やスイーツをアップして得意になっているような女だ。
そんな女が、どうして毎日地味な家事をして、直人好みの食事を作り、快適な生活を維持できるだろうか。
自分に非はない。
ただ、直人との間に子供が出来なかっただけ。
直人は、いずれ程なく知るだろう。
この生活がどれだけ貴重だったかを。
若い女に溺れた己の愚かさを。
そして。
いつ、直人は“真実”を知るだろう。
この運命の皮肉。
神がもたらした悪戯な偶然を。
百香はあの日のことをまざまざと思い出す。
『え? まさか……。今、なんて』
『ですから。申し上げにくいのですが、ご主人の直人さまは無精子症と思われます』
『じゃあ、子供は……』
『直人さまとの間には残念ながら不可能です』
『で。でも。私、昔から生理不順で』
『その件ですが、奥様の子宮後屈はまだ治療の余地があります。妊娠は充分可能です』
確かにあの時、主治医はそう言った。
それをそのまま直人に伝えなかったのは、いずれ来るべきこの日を見越して判断を下したからだ。
百香はネイルも塗っていない短く色褪せた爪を見る。
それは、百香の復讐とその勝利の証そのものだった。
本作は、家紋武範さま主催「知略企画」、柴野いずみ様主催「ざまぁ企画」参加作品でした。
作中挿絵は、みこと。様に描いていただきました。
参加させてくださった家紋さま、柴野さま、素敵なイラストを描いてくださったみこと。様、そしてお読みいただいた方、どうもありがとうございました。