点Pのユウウツ
数学の演習問題。
「平行四角形ABCDの対角線の交点O。辺ABの間を毎秒1cmずつ動く点P。三角形APOの面積を式で表せ。」
先生が問題文を読んで、その図を黒板に書いた。バンと黒板を軽く叩いて言う。
「さあ、問題を解いてください。」
皆一斉にノートに目を落とし、問題を解き始める。
静寂の中に、皆のノートに書き込みをするシャープペンシルの音が響く。時折、先生が生徒を見回るように歩く靴の音がする。
(先生が点Pみたいだ。)
私と先生の距離は縮まらない。
(私は点Oかなぁ……。ちょうど教室の真ん中だしなぁ。)
そんなことを考えながら、黒板の先生の文字を見つめていたら、急に頭上でパシッと乾いた紙の束の音がした。
「ほら、ボヤボヤしない。早く解いて。」
いつの間にか先生が私の席の列の後から近付いてきていて、持っていた教科書を私の頭の上に載せたのだ。
驚いて先生の顔を見上げると、先生はふふと柔らかな微笑みを浮かべて私を見ていた。
一気に顔が熱くなる。きっと茹でダコのように赤くなっているに違いない。
「ほらー、みんな解けましたか?早く解かないと休み時間がなくなりますよ!」
ええーっ!?というどよめきが起きた後、またシャープペンシルの音が響き出す。私は一文字も書けていない。
「さて、誰に解かせましょうかね。」
そう言って先生はまた歩き出した。
「……では、美浜さん。前で解いてください。」
先生は私を見るとこなく、クラスで一番数学ができる美浜さんを指名した。美浜さんは「はい」と返事をして立ち上がり、黒板に答えをスラスラと書いていく。
(やっぱり、数学できる子の方がお気に入りかぁ……。)
「美浜さん、正解です。素晴らしいですね。ここでは辺BCの長さがわかっていますから……。」
先生の解説が進み、終わったところでちょうどチャイムが鳴った。
「おや、ピッタリでしたね。残りの問題は宿題にします。日直!」
「起立!礼!」
ガタガタと皆が席を立つ中、教室から出ようとした先生が振り向いて呼び掛ける。
「斉木さん、あなたは補習です。放課後、数学準備室に来るように。」
「え!?」
皆の前で名指しされ、恥ずかしくなる。数学が全くできないのは周知のことなのだが、こうやって呼び出されるのは初めてだ。
「斉木、何やったん?」
隣の席のアイちゃんが私のノートを覗きこんだ。
「あー、こりゃ酷いね。真っ白じゃん。」
「アイちゃんー。」
「しっかり絞られておいでー。しっかしまあ、こうやって相手の気を惹く方法もあるんだねぇ。」
「そ、そんなつもりじゃ!」
「あの朴念仁、豹変するのかな?くふふ、アイツの余裕ない顔とか想像したら笑うんですけど!今度の薄い本のネタにしよ。」
「アイちゃんー。」
中高一貫の女子校。先生も卒業生が多く、男性教諭は元々数が少ない。人並みのルックスを持つ若い男性教員なら、大抵めちゃくちゃモテる。……はずなのに、先生は冷徹すぎるのか、変人過ぎるのか、人並みを下回るルックスなのか、あまり人気はない。
(私の中では、どストライクなんだけど。)
◆◇◆
「檪原先生、斉木です。」
「入りなさい。」
斉木なずな。俺の担当クラスの教え子の一人。数学が壊滅的で、内部進学するとはいえ、このままだと高校入試が危うい。
「斉木さん。真面目に授業を受けていますか?」
「はい。」
「私の授業が分かりにくいですか?」
「……いえ、あの、分かりやすいと思っているんですけど、問題を解く段になるとわからなくなるんです。」
「……そうですか。今日は私と一緒に問題を解きましょうね?」
シュンとした斉木を見ていると、なんだかムズムズするというか、嗜虐心をくすぐられるのか、庇護欲にかられるのか、なんとも形容しがたい気持ちになる。
(中学生だぞ……!まだコドモだ!)
俺は新卒採用でこの学校にやって来て二年目だ。この学校の中ではまだ新人に毛が生えた程度。先生方よりも生徒達の方が歳も近い。が、彼女達は「商品」あるいは「お客様」であって、手を出すなど言語道断、そんなことがバレれば社会的な死は免れられない。よって、恋愛対象としては見られないのだ。
男子校育ちで理学部数学科出身。今までずっと女っ気のない生活をしていた。家も男所帯だったせいで、本当に女性がわからない。
(それにしても、斉木はズバ抜けてアホなんだよなぁ。)
「ノート。」
「え?」
「ノート。真っ白だったでしょ、今日。なんで?」
「う……。先生が。先生が点Pみたいだな、なんて考えてたら解けませんでした。」
(はぁー?意味がわからん。)
うつむいて縮こまっている斉木。その耳を見ると赤い。
(動く点Pか……。)
「ほら、もう一度説明してあげますから、一緒に解きましょうね。そこにお座りなさい。荷物も隣の椅子に置いて良いから。」
「はい。」
斉木がペンケースと問題集とノートを鞄から出して広げる。こちらも計算用紙をたくさん出して、黒板に書いた図を紙に書く。
「先生?」
「なんですか?」
「先生の指、長くて綺麗ですね。」
「っ!?男の私に使う形容詞じゃないですよ。」
「ふふっ。先生は彼女、居るんですか?」
「居るように見えますか?こんなつまらない男に。」
「私は……、私は先生のこと、好きですよ。」
「か、か、からかってるんですか?私がモテないからと思って!」
「わ、私は本気ですっ……!先生が初恋なの。」
「~~~!」
ペンを握って図を書いていた手を、両手で包み込むようにぎゅっと握られた。
はく、はく、と息ができなくなって、一気に心拍数が上がる。
「せんせえ。」
「こ、こら!真面目に問題をっ!」
「私は真面目です!」
「だ、ダメだ、俺は先生なんだから!」
斉木は手を握ったまま離してくれない。
「こんなの。こんなの、気の迷いだよ。君も大人になったらもっと良い人と出会うんだから。」
「気の迷いなんかじゃ。」
「じゃあ、気の迷いじゃなかったとして。今はダメです。せめて高校を卒業してからにしてくださいね。大学に入学して、それでもやっぱり私のことが好きなら、考えてあげます。」
上がった息を整えながら、静かにそう伝えた。きっと恋に恋する年頃だから、身近な異性に恋したつもりになっているだけだ。こう言っておけば、数年後、俺のことなんか忘れて同年代の彼氏と付き合い出すだろう。
◆◇◆
「平行四角形ABCDの対角線の交点O。辺ABの間を毎秒1cmずつ動く点P。三角形APOの面積を式で表せ。」
懐かしい問題だなと思いながら黒板に書く。
斉木の告白から何年も経った。彼女等の後輩のクラスで数学演習の授業をする。
また教室を歩き回って生徒達の問題の進み具合をチェックする。
(点Pみたいだな、俺。)
斉木が卒業してから数年経っているが、音沙汰はない。担任でもなかったから接点が全くないのだ。
(やっぱり気の迷いだったんだなぁ。)
生まれてこの方、モテたことが全くなかった俺。女子校の先生は問答無用でモテると聞いていたけど、後にも先にも斉木だけ。しかもあの一回こっきりだ。罰ゲームだったのではないかとさえ思う。
(えらい昔のことを思い出したなぁ。)
そんな感傷に浸りながら、放課後、数学準備室に戻ってくると、誰かがドアの前にいる。
「あの、どなたかにご用ですか?」
「あっ!檪原先生?」
「?」
「あの、斉木です。」
「え!?斉木??しばらくですね。元気にしていましたか?」
「はい!私、教育実習を受けたいと思って。」
「そうなんですね。教科は?」
「数学です。」
「数学!?」
ちょうど思い出したその人がやって来るとは思っていなかった。薄い化粧を覚えて、多少大人っぽくなった。
「いやぁ、あの数学が苦手な斉木さんがねぇ。」
あの時の俺の言葉なんて忘れて、ちゃんと彼氏を作ったんだろうなぁ。そんな気持ちはおくびにも出さず、にこやかに接する。
「実習の申し込みは事務局の方へ行ってきてください。数学の希望者はまだ居なかったと思うから、受けられると思いますよ。」
「先生に指導してもらえますか?」
「うーん。それは教務部長と数学科主任が決めるからどうかな。まあ、相談には乗るよ、教員の先輩として。」
斉木を事務局まで送り届けた。
◆◇◆
私が好きだった檪原先生はあの頃のままだった。
先生は当時、高校数学の受け持ちをしていなかったから、校内で時折見かけることはあっても全然接点がなかった。大学に入学しても好きだったら考えてあげると言った先生の言葉をずっと胸に留めていた。でもきっと、先生はその場しのぎに言っただけたったろうし、ぼちぼち結婚していてもおかしくない年頃だったしと、なんだかんだとタイミングを逃してしまっていた。
(先生、指輪とか着けてなかった。独身なのかな?)
あの頃の点Pみたいにいつまでも近付けない関係は終わりにしたい。なんならこっちも毎秒1cm動いてやる。つーか、辺とか線分とかそんなの関係ない。
「よっし!やるぞ!」
8年越しの恋。今度こそ、先生にYESと言わせてやるんだから。申込用紙を手に、決意を新たにした。