愛
甘ったるい話です。
晴天に響く、荘厳な音色。
そして街を覆う教会の鐘は、朝を告げた。
垢抜けた小高い丘に、新しく建ったばかりの素朴な家がある。
その2階でカーテンが開き、窓が溌溂と開け放たれた。
「うーん、今日も良い天気!」
空を仰いで、笑顔を見せる女性。彼女の名はイーゼル。
元冒険者であり、銃士として腕を振るっていた者である。
とはいえ、今は危険な職を引退して、ごく普通の生活を送っていた。
彼女は軽い足取りで外へ出て、まっさきに井戸へ向かう。
その手にぶら下げているのは、粗野で小さな桶。
見ての通り、水を汲むために勇んで来たのである。
まずは桶を鶴瓶の先に取り付けるところから。
慣れない作業に悪戦苦闘しつつも、解けない結び方を模索するイーゼル。
なんとか無事に結び終えると、それを思い切って井戸の底へ放り込んだ。
実は彼女、井戸という設備を使ったことが一度もない。
身近な生活水の補給は、昔は親や兄弟にやってもらっていた。教えてもらったことはないし、やってみたいとも思わなかったのだ。
大したことではなくても、初めての作業である以上、彼女はドキドキして堪らなかった。
意を決して滑車を引く。
すると、紐を握る手には水の重量が確実に感じられた。
「お、重い……っ!?」
予想以上の手応えに、彼女は狼狽を隠せない。
しかし諦めずに滑車を引き続け、やっとの思いで桶を地上へ安置した。
朝っぱらから汗ダラダラである。
「ハァ……ハァ……これで、水を得たのね……!」
このように井戸を使用しなくても、水を手に入れることは出来る。
魔導師に依頼すれば簡単に出してくれるし、水売りから買うという手だって無くはない。
が、彼女はそれを分かっていながら、わざわざ井戸を作ったのだ。
さて、水を汲んだ後は食事の準備である。
と、その前に、彼女は再び2階の寝室へ上がった。
「おはよう、デミオ。朝だよ……」
「んん……おはよう、イーゼル……」
朝食を一緒に食べるため、恋人を起こしに行ったのだ。
起き抜けで癖毛の跳ねた恋人。彼の名はデミオという。
彼の紹介は、だいたいイーゼルと同じなので割愛。
1階に降りると、甲斐甲斐しく食事の準備を始めるイーゼル。
寝ぼけ眼のデミオは、その様子をぼんやり見つめる。
「待っててねデミオ!朝ごはん、すぐ出来るからねっ」
「おう。楽しみにしてるぜ」
「よーし、任せといて!」
料理を作る彼女の、上機嫌な後ろ姿を、デミオはニヤつきながら眺めた。
そのうち、テーブルには徐々に色彩が増えていき、それなりの食事が並ぶ。
自信満々なイーゼルは、完成した朝食を眺め回し、満足そうに言う。
「えっへん、凄いでしょお」
「やべぇ、奇跡にしか思えねぇ。俺は幸せモンだ」
「もー、デミオったら大袈裟なんだからー!」
実に没入的な会話をしつつ、2人は仲良く向かい合って座り、「いただきます」の声を重ねる。
そうして、手にしたナイフを操りながら会話を続けた。
「今日はどれくらい育ったと思う?」
「おいおい、一日越したくらいで急成長するワケねーだろ」
「え~?見てみなきゃ分からないよ~」
「ははは、バカ言うなって!」
食事を口に運びつつ、仲睦まじいお喋りで笑い合う。
その間、デミオもイーゼルも、この上ない幸福を感じていた。
朝食を終わらせるのが勿体ないと、お互いに食事の手を止めるほどに。
――別に終わっても、次のハピネスを味わうだけである。
朝食を片付けた後は家の掃除をし、その次に衣服の洗濯を行う。
そのどれもが共同作業で、話が弾むせいで一向に進まないのだ。
「デミオとこんな風に生活できるなんて、ホントに夢みたい……」
「へへ……冒険者なんて辞めて正解だったな。愛してるぜ、イーゼル」
「私も愛してる、デミオ」
2人は、お互いが隣にいる生活そのものを愛していた。
今まで様々な制約があって、こうして自由に気持ちを伝えることさえ出来なかったのである。
けれど、それはもはや過去のこと――恋人達を邪魔する障害は、新居の中には一つもない。
駆け落ち生活は、最上の喜びに満ち溢れていた。
~~~~~~~~~~
冒険者を辞めたカップルは、今は別の仕事に就いていた。
自家製の薬草を栽培し、冒険者相手に商売をするつもりである。
つもりである、が。上手く育たない。
「あーあ、また一つ枯れてる……」
小さな畑の真ん中で、イーゼルはがっかりして肩を落とす。
難しい顔のデミオは、顎をさすりながら原因を考えていた。
「水のやり過ぎか」
「肥料の撒き過ぎよ」
お互いに素人であるため、栽培のコツをよく分かっていない。
最初、この仕事をしたいと言ったのはイーゼルであったが、彼女はなんの知識も持っていなかった。
それなのに、どうして始めたのかというと……
「ねえねえ!今の会話、普通の人っぽい……!」
「だな」
曰く、普通の人っぽいから。
井戸の水を汲むことに関しても、普通の人っぽい生活様式を取り入れたに過ぎないのだ。
実際のところ、『普通の人』がどんなイメージなのかはイーゼルにしか分かっていないが。
街の人々は意外と井戸を使わず、魔法に頼っていることが多い。そっちの方が便利だから。
魔法で生成した水は純度が高く、雑菌を一緒に飲むようなリスクもない。
ともかく、雑草が上手く育たない以上、今日の仕事は原因の究明と相成りそうだ。
つまり、一日の稼ぎは皆無。
無論、2人で使うための貯金はあるが、それは生活のために使うものではない。
なにか大きなイベントがあった時、不自由なく参加したりするための、特別なお金である。
ということは必然、お金がないということだ。
「イーゼル。仕方ねぇから、今日はダンジョン行って稼ごうぜ」
「う~~~~えぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~……………………」
「気持ちは分かるけどよ、その方が手っ取り早いじゃねーか」
「まぁ………………ねぇ…………」
結局、魔物の素材やら魔道具やらを集め、それらを売る話になった。
事情を鑑みるに、まだ冒険者を引退しきれていないようである。
――そんなこんなで、彼らがダンジョン攻略を済ました頃には、日は暮れかけていた。
完全に日暮れると、ランプの明かりでは室内を照らしきれない。そのため、夕食を取るために急いで帰る。
「デミオっ!今日の夕食はなにがいーい?」
「イーゼルが作るモンだったら、なんでも最高だぜ」
「なんでもじゃダメなの!私はデミオが好きなものを作りたいの!」
「それでいくとイーゼルを食べることになるぜ、ゲヘヘ!」
「も、もう……それじゃデミオのお腹が膨れないでしょお……?」
その道中でも、けったいな会話を交わすのだ。
恋人同士だけの世界を、完全に構築しきっている。
そうして我が家に着くと、イーゼルは早速、ご飯の準備に取りかかる。
完成したのはポタージュとチーズ、そしてリンゴ酒だ。それほど手間はかかっていない。
「早く食べないと暗くなっちゃうもん」
「そうだな。ディナーが楽しみだぜ、グヘヘ!」
「ふふ、がっついちゃイヤよ」
薄明かりの下でも、まだ会話を楽しむ2人。
朝よりは落ち着いたトーンだが、それが大人の雰囲気を漂わせている。
「明日は薬草、ちゃんと育つかな」
「きっと育つよ。しばらく様子を見るしかねーけど」
「あれ……デミオ、なんか朝よりカッコいいね」
「あぁ?イーゼルの方が可愛いっつの」
「やっぱデミオって世界一のイケメンだなぁ」
「なんだよ、そんなに褒めて……照れるだろぃ?」
他愛ない掛け合いも、成熟した空気の中で弾む。
ランプに照らされたお互いの朱い顔を、熱い視線で見つめ合っていた。
「ねぇ、いつか別の街にも行ってみたいね」
「別の街か……俺は海の見える街に行きてぇ」
「イイね、ステキ。絶対に行こうね」
「おう。約束する」
未来の計画を立てる時には、幸せな未来を想う今が愛おしい。
どの夢も、どの現実も、デミオとイーゼルの世界では煌びやかに輝く。
こうして、名もない日常は次へと向かって行くのであろう。
「死ぬほど愛してるぜ、イーゼル」
「世界で一番大好きだよ、デミオ」
続いて行く世界には、無上の愛が満ちていた。
豆知識:愛という漢字には「愛しい」という読み方だけでなく、「愛しい」という読み方もあるそうです。