無力
剣士のセンは、真夜中になると、とある宿へと向かう。
そこで一人の女性に会っていた。
密人とは、犯罪者の呼称だ。
彼の密会する女性は、まさしく密人であった。
「………セン。また来てくれたのね」
「やあ。ケイ、元気かい?」
「ふふ…」
手の届かないどこかへ、いつか消えてしまいそうな彼女。
微笑を向けられて、その儚さに微かな不安を覚えつつも、心から安心してしまう。
彼にとって、彼女は――ケイは、泡沫のような存在だった。
密人には、光の世界を歩けない。
夜の闇に守られていなければ、生きていくことさえ叶わない。
それでもセンは、彼女に光が射すことを切に願った。
否、だからこそ祈り続けたのである。
「ケイ、聞いてくれ。今日攻略したダンジョンには、とても面白い仕掛けがあったんだ――…」
自分にしてあげられることは、外の話をしてあげることだけ。
なんの力にもなれない、無意味な行為でも、せめて日常の光を見てほしい。
そう願う故に、彼は熱心に冒険の話をしてきた。
しかし、今はそこに迷いが生まれていた。
自分のやっていることは、彼女に光を望ませるばかりで、なんの解決も齎さない。
それどころか、返って彼女を苦しめているのではないか。
考えるたびに、そんな迷いは大きくなっていった。
「――すると、今度は大木の姿をした魔物が現れてね。ニックはすぐに走り出して、それを糸塗れになったライリーが追いかけるんだ」
本心では躊躇しながらも、表面では楽し気に紡がれるセンの物語。
しかしそれは、ケイの耳にはそれほど届いていなかった。
懸命に語るセンは気付かないが、彼女はその眼の奥で、別の景色を見ていた。
いつもより少ない相槌。
語りに夢中だったセンも、しばらく経つと違和感に気付き出す。
それでも、しばらくは気付かないフリをした。
だが、何度も伺っていたケイの様子も、いつものとは違った。
耐えきれずに、彼はとうとう喋るのをやめ、心配そうに問う。
「…どうかしたのかい、ケイ?」
尋ねた後で、空白のような沈黙が訪れる。
心細い時間の流れを切ったのは、ケイの声だった。
「セン。話があるの」
そう言った彼女の微笑が、いつもより曇っていることを、センは鋭敏に悟った。
途端、胸中には途方もない不安が押し寄せた。
予感がしたのである。
「もう、ここには来ないで」
小さな声を、彼女が放つ。
それが悲しいほど明瞭に、センの耳へと響いた。
ケイの言葉は続く。
彼の動揺を置いて、淡々と続いていく。
「私と一緒に居ることは、正しいことじゃないの。だから、今日でお終いにしましょう」
どうしていいか分からずに、別れを告げるケイを見つめる。
聞こえた言葉を信じたくないセンは、どうにか帳消しにしようとした。
「――驚いた…ケイも冗談を言うんだね」
「…本当に、お終いにしましょう。私とは二度と関わらないで」
だが、上手くはいかない。
それどころか、追い打ちのような拒絶を示されて、狼狽は増す。
どうにか気を保ちつつ、言葉を続けた。
「僕の話がつまらなかったかな。それなら、次はダンジョンじゃなくて…」
「違うわ。もう関わらないで」
「――ッ…どうして、そんなことを…?」
均一で機械的な拒絶は、彼の心を苦しめる。
ケイの言葉がいつもより冷淡なせいか、センの不安は大きくなる。
心を捨てたような平坦な声色で、ケイは語った。
「私は、誰かと一緒に居てはいけない人。隣に居たら、無差別に呪いをかけてしまうわ」
彼女のクラスが呪術師であることは、センも知っていた。
しかし、だからといって呪いを無差別に振りまくはずはない。
言っている意味がよく分からず、彼は少し焦りながら聞き返す。
「なにを言ってるんだ…君が僕に呪いをかけたことなんて、一度も無いだろ?」
「眼には見えないのよ。誰も…私すら知らない間に、不幸が降りかかる」
「なにかの迷信か?それとも、どこかの占星師のデタラメでも信じてるのか?」
「分からなくてもいい。ただ、もう私に会いに来てはダメ」
「嫌だ!僕は君に会うことを、いつも楽しみにしてるんだ」
受け入れられないで、彼女の頑固さに苛立ちをぶつけても、彼女は首を振る。
その頑なな仕草から、センの脳裏には望まぬ未来が過った。
(結局、僕では彼女を繋ぎ止められないのか?)
迷っていたばかりに、離別へ向かってしまったのか。
それとも、やはり最初から無意味な行動だったのか。
どちらにせよ、自らの無力を思い知って、センはギュッと拳を握った。
それでも、二度と会えないなんておかしいと思った。
ケイの身勝手な決心に、納得もできない。
そのために、いつもの優しい声色を捨てて言う。
「どうして会えなくなるのか、さっぱり分からない。君に会いに行くかどうかは、僕の勝手じゃないのか」
「私に関わっていたら、貴方が危険だもの………思えば最初から、この部屋には来るべきじゃなかったわ」
「来るべきじゃなかった?どうして君が、それを決めるんだよっ!」
彼女との出会いを、彼女自身に否定され、堪らず悔しさが込み上げる。
ケイにとって、自分はそんなに至らない存在だったのかと、心の底から悲しくもなった。
「ケイ、勝手なことを言わないでくれ!なんで僕に一言も相談せずに、全部決めてしまうんだ!」
「ごめんなさい。でも、こうするしかないの」
「そ…そんなはずないっ!他の方法を探してないだけだろう!?」
「仕方ないことよ。お願いだから分かって」
「なにを分かれって言うんだ!!」
静かな夜に似合わぬ、取り乱した大声が、星の煌めきに短く反射した。
頼りない我が身の至らなさも、拒絶の意味が完璧には分からないことも、彼女の決心を揺らがすことさえできない無力も、総じて焦燥に転化した。
いつものケイらしい柔らかな微笑を、今の冷淡なケイに重ねることはできない。
理由を知らないままで、どこかへ去ろうとする彼女との距離だけが、如実に感ぜられる。
だが、その上で、センは無意識に彼女の手を取っていた。
「頼むから、一人になろうとしないで………僕を…僕を置いて行かないでくれよ…っ」
ケイのことを知らず、なにもかも足らない彼には、もはや懇願することしかできなかった。
苛立ちと僅かな期待――無力な感情が煩く混ざって、彼の眼から涙がこぼれた。
その涙だけは、微力ながらも力を有していたのだろう。
恥を捨ててでも、必死で引き留めようとする彼に、ケイの心は一瞬だけ揺蕩う。
だが、容易く折れることはない。
(やっぱり私は、センを不幸にしたくない)
ケイは決意を固めて、これ以上は一緒に居られないと思った。
すると、瞬く間に呪術が展開され、彼女の身体を黒い魔力が包む。
この呪法によって、部屋を去るつもりだった。
それでも、センは最後まで手を離さない。
彼の縋る様な感触を、ケイは断腸の想いで離す。
そして最後に、彼女はいつも通り微笑んだ。
「どうか許して――貴方に会えて嬉しかった」
短く呟けば、彼女の姿は燃え尽きるように消えた。
その言葉に返事をすることさえ、センにはできなかった。
――しばらくして、涙が乾き始めた頃。
彼はそっと手のひらを見つめて、冷めた温度を虚しく確かめた。