ねごと
前話の続き。
鬼が消え、ただの少女に戻ったテリを抱く。
キョウガが治療室を出ると、心細そうな顔をして待っていたネアは、すぐに駆け寄ってきた。
「キョウガさん!テリは…テリは無事ですか!?」
「安心したまえ。ほら、赤子のように眠っているよ。」
「ほ、本当…良かった……良かったぁ……っ」
妹の気持ちよさそうな寝顔を見て、ネアは地に膝を着けて泣いた。
その後、依頼をこなしたキョウガの顔を真っ直ぐ見て、繰り返す。
「ありがとうございます、キョウガさん…!妹を助けてくれて…!」
何度も礼を告げる彼女に、キョウガは少し困った。
今回の依頼を引き受けたのは、半ば私怨も交じっていたので、礼を言われると少し気が引ける。
しかし、少女を呪いから解放した事実もあるため、素直に受け止めることにした。
「当然だよ。偉そうに依頼を受けて、完遂出来ませんでした…なんて、厚顔無恥にも加減がある。」
「でも、妹が助かったのはキョウガさんのおかげです!だから…」
「礼ならば、君の麗しき涙で十分だろうに!…おや、随分気取ってしまったかね?」
キョウガが冗談交じりでそう言うと、ネアは淑やかに笑った。
そうして、容態の件がひと段落すると、キョウガから妹を預かって、ネアは再び頭を下げた。
「ふふふ…君は律儀な子だなぁ。」
「今は感謝の気持ちしか無いんです。本当に嬉しくて…!」
「それなら、こちらも引き受けた甲斐があった。ああ、報酬はまたの機会で構わないから、今日はもう宿に帰るといい。」
会話の最後に、再び「ありがとうございました!」と付け加えると、彼女は妹を腕に抱えてギルドを出た。
手を振って、笑顔で二人を見送るキョウガ。
しかしその心中ではあの存在を危惧していた。
(あのクソ忌々しい呪術師のことだ、まだ絶命していないだろう。早急に次の憑依先を特定せねば、また罪のない者へ被害が及ぶ…)
とりあえずの脅威は去り、ネアやテリからも、もう呪術の香りはしなかった。
しかし、あらかじめスペアの憑依先を準備している可能性は十分ある。
依頼人の背中が見えなくなったのち、キョウガは対策を講じるため、ケビンに成り行きを説明することに決めた。
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帰りの道中で、テリは不意に目を覚ます。
闇の中でなにも見えない視界の、どことも言えぬ地点を呆然と眺め、少女は考えた。
(ここ、どこだろう…?)
しばらく焦点を動かさずにいると、開いたばかりの霞む視界も、段々と暗さに慣れ始める。
ぼんやりと分かり始めたのは、街に並ぶ壁の存在だった。
朝の間ならはっきりと輪郭線を持つ建造物も、今やそれと認めることが出来ない。
したがって、テリはなんだか、自分の身体が浮かんでいるような錯覚を起こした。
目覚めぬ思考でも多少の危険を感じて、彼女は慌てて身をよじったが、その動作は誰かに受け止められる。
「…テリ!ふふ、やっと起きた。」
「…ネア、おねえちゃん?」
「そう。暗くって見えないかもしれないけど。」
不思議と懐かしい気のする、姉の声を聞く。
すると、不意に親しみのある匂いが彼女の鼻をくすぐった。
紛れもない、姉の纏う香りだ。
「おねえちゃん、なんで歩いてるの?」
「さっき走ったから、次は歩くだけ。」
「走ったの?」
「そう。忘れちゃったんだね…ふふ、それでもいいか。」
優しく耳を撫でる綺麗な声は、毛布のようにテリを包む。
そうして、彼女は闇の中にも宿る温もりを知った。
ネアの手のひらから伝わる平熱で、無意識に身体が綻んでいく。
そのまま、テリは再び微睡んだ。
「とにかく、キョウガさんのおかげ。今度会ったら、テリもお礼を言わないとね。」
「うん…」
「宿に着いたら絵本の続きを読んであげる。あなたってば、『ぺろぺろ』って言葉の響きが大好きなんだから…うん、私も頑張らないとね。」
「んぅ…」
「明日はお留守番になっちゃうから、今日は夜更かししても、ちょっとだけなら許してあげる。なんでも好きなことをしましょう。」
「………」
いつになくお喋りなネアの言葉は、程よい子守唄になって、テリの鼓膜を小さく揺らす。
心はこんなにも暖かいのに、外の空気は冷たいのを、テリは不思議に感じた。
それで、呼吸に意識を向ける。
ただ少しだけ、息苦しいような気がして、すぐにやめた。
なぜだか風に秘密があるような気がして、再び同じことをしてみた。
周りの景色は、またなにも見えなくなる。
ネアの存在は疑いもしなかった。
優しい匂いと、肌が触れるので分かるから。
「おねえ、ちゃん…」
「なぁに?」
「………」
「…もしかして、寝言かな。」
閉じそうな瞼を精一杯持ち上げて、素敵なネアの声へ耳を傾ける。
そんな些細な努力は、長くは続かなかった。
テリは自分でも気付かない間に、夢の世界へと沈んでいった。
肌を撫でる風が、眠る少女を身震いさせた。
嫌がった彼女は、姉の方へ身を寄せて甘える。
愛らしく腕の中で遊ぶ妹に、ネアは大きな幸せを感じた。
安定した、ゆったりしたリズムの寝息は、ネアを癒してくれる。
彼女は、妹の平穏が保たれた今日に心から感謝した。
その想いが向いているのは、神や、テレサや、キョウガの方である。
その中でも、特にキョウガに対しては、一際強く感謝の気持ちを持っていた。
ギルドに到着し、混乱の最中で今にも泣き出しそうな自分を、彼女は優しく慰めてくれた。
あの時キョウガがくれた素敵なウインクが、ネアを落ち着かせてくれたのだ。
テリが助かったのも、いち早く彼女が話を聞き付けて、すぐ治療に取り掛かってくれたからだろう。
思い返せば思い返すほど、言葉だけではどうにも礼が足りない気がした。
そのため、ネアは彼女へ、報酬とは別に贈り物をしたいと考えた。
「キョウガおねえちゃん、ありがと………」
「!」
ふと、腕の中で眠るテリがそう呟く。
純粋な妹の気持ちを、ネアは微笑ましく思った。
それっきり、帰りの道中での寝言はなかった。
一度だけ名を呼ばれたのは、ネアとキョウガだけ。
あれほど感謝していたのに、どうしようもなく恩人に嫉妬してしまうネアだった。