ケイ
ガチのやつです。
まだ未成熟な頃のケイは、純粋無垢な少女であった。
彼女は花を愛し、蝶と遊び、空に夢を見た。
少しメルヘンな娘ではあるが、ただの少女に変わりはなかった。
しかし、他の少女とは差別せざるを得ない部分があった。
彼女は…
「この、クエスト…」
「表と同じやり方じゃ、こっちじゃ通用しないぜ。」
「ど…どういう意味、ですか?」
路地に潜む、陰鬱な闇の気配。
彼女はそれを初めて体感し、体を震わせた。
様々な場所から、影のような視線を感じる。
「どうもこうも。ただの忠告だ…せいぜい死なねぇようにな、嬢ちゃん。」
深くフードを被った男は、不気味に笑いながらケイに言った。
まともに顔すら見せない怪しい男を、ケイはただ訝しんで、言葉を返せなかった。
陽の通らないこの通路は、腐ってしまった心と身体が唯一生存できる聖域だ。
だが、彼女はまだ腐っていなかった。
男の言った「裏」の臭いを、彼女は一切帯びていない。
だからこそ、哀しいほど容易く穢れることになる。
「………私がやらないと。」
ケイは、冒険者としてこの国にやって来た。
ダンジョンという神秘の先にある、綺麗な景色を見たかったのだ。
クラスは呪術師…といっても、まだなんの呪文も扱えない。
彼女は、ある男から勧められて呪術師となったのである。
男も呪術師で、初めて冒険をするケイに色々なことを教えてくれた。
ある時は危ない場面を助けてもらい、またある時は、彼と一緒に戦闘を行った。
ケイは男を信頼し、男の助けになることであれば協力を惜しむつもりはなかった。
そんな折、彼が借金に追われて破産しそうなのだと知らされる。
しかし、普通のクエストの報酬では、返済にはまったく足りない。
彼を助けるため、ケイの取れる手段はあまりにも少なかった。
選択肢の一つは、勝手に現れた。
『こんな仕事があるんだが、受けてみないか?』
彼女はそれを選び取って、過った。
だが元より、正道を逸れぬ未来は選択し得なかっただろう。
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裏の世界に対するケイの理解は、あまりにも浅かったのだ。
こちらでの依頼とは、冒険者ギルドで受けるような潔白な内容とはかけ離れている…にも関わらず、紙の上に書かれた文面は簡素なもので、法を犯すような気配を汲み取ることは困難だった。
その上、彼女は疑うことが得意ではない。
人を微塵も疑えないわけではないが、他者の心を一から見下すような、尖った価値観も持ち合わせていなかった。
こちらでは、人の優しさは望むべくもない。
望まぬつもりでなければ、歩くことすらままならない。
「あの…依頼を受けた者です。」
ケイはある冒険者パーティの拠点に立ち寄り、依頼主と直接、顔を合わせる。
依頼人の男は黙ってケイを拠点の中へ通すと、立派なソファの上にどっかりと座り、彼女へ鋭い視線を向けた。
「――お前、本当に殺せるのか?」
ケイは、彼の最初の一言を聞き、非常に驚いた。
殺す、などという単語を聞くことになるとは、予想もしていなかったのである。
彼女は依頼書を見直し、依頼主を見直し…とにかく、状況を呑み込めぬままに、酷く戸惑った。
「それはどういう意味ですか?」
「殺しをやったことは?」
「っ…そんなのありません!」
「思った通りだな。下らん、遊びじゃないんだ。」
「私が受けたのは、この依頼書の内容で…!」
「言っておくが、いまさら受け直せるなんて思うなよ。もし降りるつもりなら…命の保証はない。」
その言葉と、ギラついた恐ろしい表情。
ケイは身の危険を本能的に感じ取り、咄嗟に扉の方へ向かおうとした。
しかし、背後を振り向くと…扉の前で涎を垂らす、醜悪な犬の魔物を視認する。
「俺は魔物使いだ。新人の小娘が勝てる相手じゃない。」
「熟練の冒険者なのに、なんで討伐依頼を…私をどうするつもりなの…?」
「誰だって、自分の手を汚すのは躊躇うものだろう?」
ケイは朧気ながら、状況を理解しつつあった。
自分は騙されて、殺人をさせられかけている。
なんとか脱走を試みようと、必死で周りを見渡す。
が、どこに視線を移しても、数多の魔物の存在に計画を阻まれた。
「言う事を聞け、小娘。俺はお前に依頼をしている。」
「私…殺人なんて、そんな!」
「安心しろ、やり方は教えてやる。正面から殺る必要はない、ただ回り込んで…ヤツの無防備な首筋に、これを突き立てろ。」
男は狡猾そうな顔で、怪しい魔法式を小さく刻んだナイフを取り出す。
凶器を確認し、咄嗟に身体を退くケイ。
しかし、男は彼女の手を掴むと、それを無理に握らせた。
「そう震えるなよ…お前、名前は?」
「やめて…こんなもの、持ちたくないわ!」
「名前だ。答えろ。」
見たこともない、残忍な人の表情。
鋭く暴力的な声に、綺麗な眼をした彼女では抗えない。
「っ…ケイ…」
「ケイ。ターゲットはこの拠点へ戻ってくる。お前のことは先に紹介するが、ボロは出すなよ。あくまで自然に振舞え。」
それきり、男もケイも沈黙した。
彼女は心臓の音だけに囚われて、落とされた運命から逃げることもできない。
ただ、自らが無防備に潜ってしまった扉を見つめ、ターゲットと呼ばれた男を待つ。
待つ時間はそう長くなかった。
ケイにはどれだけ長く感じられたか知れないが、ターゲットと呼ばれた彼と出会うまでに、心の準備などは出来なかった。
扉は開かれ、彼が現れる。
「ただいま、ゴーシュ。」
「…待っていたよ、ベック。」
ターゲットの彼がゴーシュと呼んだことで、ケイは男の名を知った。
同時に、ゴーシュがベックという名でターゲットを呼んだことも記憶する。
ベックにはゴーシュを警戒した様子はなく、むしろ安心した様子で朗らかに接していた。
「ベック、紹介させてくれ。彼女が俺たちのパーティに入りたいらしいんだ。」
ゴーシュはおもむろにそう切り出すと、ケイの方に視線を向ける。
ベックもその視線を追ったので、ケイと目が合った。
その時、ケイの思考にはある考えがよぎった。
(この人に助けを求めれば、もしかすると助かるかもしれない!)
彼女は意を決して、彼へ助けを求めようと考えた。
そして、事実を口にするため、声を発しようとした瞬間。
「いっ…!?」
彼女はなにかに足首を噛まれ、鋭い痛みに行動を阻止された。
見ると、原因は小さな魔物であった。
ゴーシュの命令を受け、ケイを襲ったのだ。
「ん?君、大丈夫か。」
「気にする必要はない…彼女は声を出せないんだ。」
ベックの心配を、事実ではない設定ではぐらかす。
そうすることによって、ゴーシュは暗に、ケイに喋ることを禁じた。
ゆえにケイは、余計なことを言えなくなってしまった。
次に助けを求めるような行動をしても、それは封じられるか…もしかすると、殺されるかもしれない。
彼女はこの絶望的な状況に、綺麗な顔を歪めて苦悩した。
(一体、どうすればいいの…?このままじゃ…)
自分が助からなければ、借金を背負う彼をも殺すことになる。
しかし、助かるということは、すなわち殺人を犯すことだ。
頭の中をどのように整理しても、ケイに光明は齎されない。
「ゴーシュ、彼女の名前は?」
「ケイだ。ああ、そうだ!ベックもケイに肩を揉んでもらえ。疲れが吹き飛ぶぞ。」
「へぇ、マッサージが得意なのか!なら、ちょっと頼んでいいか?」
本性を隠し、柔らかな笑みを浮かべるゴーシュ。
ケイは彼を恐ろしく思った。
それと同時に、人間という生き物の残酷性を、大きな傷として心に刻んだ。
なにも知らずにソファに掛け、ベックは無防備な肩を差し出す。
なにも策を講じれないままに、殺傷の準備は整ってしまった。
ケイは青ざめたまま、しばらく彼の肩を見つめたが、やがてそれも打ち切られた。
「っ!」
先程の小さな魔物に噛みつかれ、少し遠のいていた意識を、強制的に引き戻される。
ゴーシュには、ケイの心の準備を待つつもりは無いらしかった。
ケイは泣きそうになったが、冷酷な依頼主の前で泣くことすら恐れ、必死に涙を押し殺す。
思考のために残された余裕はなく、半ば逡巡を停止して、ついに自らナイフを握った。
――その瞬間、今まで気付かなかったある存在に、不意打ちで攻撃される。
「きゃっ!?」
その一撃はケイに微量のダメージをも与えなかったが、完全に予想はしていなかった。
それゆえに、ケイはバランスを崩し、後ろへしりもちをついてしまう。
ベックはケイの転倒に驚き、慌てて立ち上がった。
すると彼の眼前に、蝶のような生き物がひょいっと現れた。
「ベック、この人は危険。」
この蝶の正体こそ、ケイへ攻撃を加えた者…精霊だ。
少女は小さな体で、ベックを庇うような態勢を取り、ケイへ敵意を示した。
「フェ、フェリ!一体どういうことだ?」
ベックは驚いた様子で、彼女の言葉について説明を求める。
一方、作戦が失敗したことで、ゴーシュは素早く次の行動に移る。
彼は魔物にベックの背後を取らせると、大きな声で合図し、一斉に襲いかからせた。
「ぐおぉっ…ゴーシュ!?」
「お前を殺して、俺がパーティのリーダーになるのだぁっ!!」
仲間の豹変にベックは不意を突かれ、かなりダメージを負ってしまったが、致命傷は免れた。
フェリと呼ばれた妖精は、彼を守るために精霊の力を行使する。
「はっ!!」
気合いと共に小さな腕を横に振り切って、無数の氷礫を発生させた。
それは一直線にゴーシュへと向かい、瞬く間に彼を蹂躙する。
彼は絶叫と共に、体のあらゆる部位へ深手を負った。
「こぉんの精霊ごときがぁぁ…ぁ…!!」
恨みがましくそう言うと、彼はぱたりと意識を失くした。
「仲間のフリとか…ほんとキモい。」
そう吐き捨てるようにつぶやき、フェリは再びケイへ向き直る。
ゴーシュとは違う真っ直ぐな視線に刺され、ケイはぴくりと身体を震わす。
「あんたもグル?」
「…わ、私は…違う!」
「ふーん…そう。」
短いやり取りの後、フェリは興味を失くしたように、ケイから視線を外した。
それと対照的に、ベックはケイの方へと歩み寄ると、その手を差し出す。
「ほら、立て。平気か?」
「…平気、です。ゴ、ゴーシュは…どうなったんですか?」
「…あいつは気絶したようだ。フェリの力でな。」
ケイは脅威が過ぎ去ったことを知ると、涙腺を縛る緊張がみるみる解け、自然に涙を流した。
そうして、彼女はようやく、体と意思の自由を実感した。
明日はこれの続き。