忘却の坂
これも日常です。
ある宿屋のベッドの上。
少年は最低な気分で目覚めた。
「…また夢だ。」
魔法剣士・ウィンドの記憶は、半分は想像で出来ていた。
彼は過去、ミッションによって罪人の呪術師を捕らえた時、忘却の呪いをかけられたことがある。
その日以来、夜明けとともに日々の記憶を忘却するようになってしまった。
「記憶は…まだあるな。」
外の景色は、まだ暗い。
夜が明けていないので、彼にはまだ今日の記憶が残っていた。
ウィンドがベッドを出て、外出用の服に着替えていると、誰かが部屋の扉を叩く。
「ウィンドー、あーしが来たぞー。」
その声はシャルロットだ。
彼女はウィンドと同じパーティに所属する魔導士である。
そして…幼いころからの友達でもある。
「シャルロット…おはよう。」
「おはよ。寝れた?」
「まだ夜だろ。」
「お、ちゃんと覚えてんね。いい子いい子。」
今日はシャルロットに、一番綺麗な夜明けを見に行こうと誘われていたのだ。
始めは乗り気では無かったウィンドも、彼女の積極性から逃げることはできず、オーケーしたのだった。
「…頭を撫でるんじゃない。」
「あそ?じゃ、行こっか。」
「マイペースだな…」
ウィンドには、彼女との記憶をぼんやりとしか思い出せない。
故に、それは遠い昔の…それどころか、前世の記憶のように、リアリティを持っていなかった。
だがしかし、シャルロットをどこか懐かしく感じているのも事実であった。
――二人は夜明け前の街を歩き、街で一番長い坂道へ到着する。
「ここの一番上ね、すげー景色なんよ。」
「ほぉ、楽しみだな。」
「着く前にバテんなよー?」
「冗談。こんな坂なら楽勝だっての。」
二人は軽口を叩き合いながら、坂を上り始める。
ウィンドとシャルロットは隣り合って歩を進めた。
「今日の誘い、ちゃんと覚えてくれててサンキュ。」
「…え、急にどうした?」
「茶化すなし。早くしないと君の記憶消えるっしょ?だから…不安だったよ。」
「実はもう忘れてたりしてな。」
「…あーあ、やっぱ言って損したわー。」
そんな風に、シャルロットは何度もウィンドに話しかけた。
坂を上がるたび、彼はシャルロットの募る想いを知った。
それはウィンドをこの世界に繋ぎとめる、優しくて頼りない糸。
だが、糸の色は無常を孕んでいた。
ウィンドは夢に浸るようなその時間の中で、風に梳かされて艶めくシャルロットの髪に見とれるだけだった。
ふと、シャルロットは口を開く。
「これさ、デートじゃん。」
「こんな夜にデートって、いかがわしいな。」
「うわーやらし。じゃあ今度は皆で来て、変態から身を守るとするか。」
「皆で?」
「そーそー。約束。」
こんな約束は守れるはずもなかった。
皆とは誰か、最近のウィンドにはもう分からなかった。
それでも、嬉々として語る彼女をみていると、彼は会ったこともない皆を愛せる気がした。
不意に胸がざわめいて、目を逸らす。
視線を交わしてはいけないと、咄嗟に判断したのだ。
しかしウィンドは、彼女の淡い期待をどうしても見捨てることは出来ず、言った。
「約束するよ。」
「…マジ?やったぁ。」
その言葉だけで、シャルロットは心から嬉しそうに笑った。
ウィンドはそれによって、胸を満たすと同時に自らを嫌悪する。
それでも、こんな嘘でも彼女の心に光を齎すのかと考えると、愛おしく思う瞬間もあった。
しばらくすると、朝の光が街を照らし始める。
「…あ、ヤバっ!急げウィンド!」
「おい、シャルロット…」
それを見て、シャルロットは慌てて坂を駆けあがっていった。
彼女の足元を心配したウィンドが、声をかけようとした時…彼の顔は光に照らされる。
ウィンドは光を浴びた瞬間、頭の中で今日を走馬灯のように再生する。
不思議とぼやけていく視界と意識…彼は朦朧とする意識で立ち止まり、光に晒された街を眺める。
その中で、彼女の声を聞いた。
「早く来なよ!ウィンド!」
「おう…」
無意識に返事を返し、シャルロットの声がした方へ歩く。
間もなく坂を登り切った彼は、朝日に照らされた彼女の顔を見た。
「…シャルロット…」
「どや?綺麗っしょ。」
その瞬間の美しい笑みを、ウィンドは脆い記憶に刻み込む。
彼は坂の途中で光を浴びた時、それまでの記憶を失っていた。
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