4秒間の空白
メルチの剣は、銀色の光沢を煌めかせる。
それはショルテの意識を、徐々に引き戻すのであった。
喪失に囚われた青年の肌に、だんだんと赤みが差していく。
それと同時、眉間には青筋がはっきり浮かびあがってきた。
彼は肩を震わせて、片方の腕を静かに持ち上げ、口は半開きのまま――刹那、メルチへと飛び掛かった。
「ウあアああアあアアァッ!!!!」
理性を失くしたような叫びが、深海の宮殿を瞬時に支配する。
彼は勢いよくメルチの身体を押し倒すと、獣のように跨って歯を剥き出す。
そして、無抵抗の彼女の手中から剣をひったくり、その切っ先を下に構え、高く頭上に掲げた。
ギラついた刃の輝きが、真っ直ぐにメルチへ差し向けられる。
鮮血を求める残酷な銀色は、落とされる時を静粛に待ちわびる。
宮殿の未知なる光源から、冷徹に降り注ぐ光を浴び、剣の先端は妖しく光った。
その鋭利な輝きはしかし――いつまでも空に止まって、メルチの身体を貫くことはない。
剣身の小刻みな震えが、メルチの瞳の中で踊り続ける。
ショルテの両手はグリップを握りしめるが、じわりと汗を滲ませるのみで、そこからは動作しない。
一念を発する兆しは、無限に垣間見える。しかし、それはただ、極めて冷徹に仄めかされるだけだった。
いつまでも、いつまでも、弛緩を許さない緊張が、永遠の如く続く。
両者は上下に組み合った態勢のまま、止まった時間の中で睨み合う。
宮殿の静けさは、お互いの神経を研ぎ澄ます。
青年の凶暴な視線と、女剣士の乾いた笑みが交差した。
「やっぱり……ショルテは冷静だわ」
命を曝し合うような、際どい殺伐の空気。
いつの間にか空間ごと切り取られ、完全なる停滞を迎えたようにさえ見える、一枚の画。
やがてそれは、メルチの微々たる表情の変化により、概念上へと帰って来た。
口元や眉を同じ形に止めたまま、眼尻だけを微妙に垂らす。
彼女の柔らかく冷えた眼差しに、ショルテは思わず眉を顰めた。
「…………」
声に言葉を返すことはなかったが、彼の耳にはしっかり届いている。
煮えるような不愉快が、ふと身体に染み渡る。ヒリついていた皮膚が痒くなり、時間の流れを思い出させる。
それによって、彼の理性はゆっくりと機能し始めた。
――ここでメルチを殺したところで、どうなるのか。
そうすることで、会いたい少女が……ラウラが帰って来るはずもない。
なんの意味もない殺生。余計な怒り。無駄な時間を過ごした。
クソが。
順々に考えをまとめて、彼はおもむろに剣を投げ捨てる。
銀の殺意は固い床にぶつかって、甲高い音を空虚に鳴らした。
「……せっかく、最高の幻覚を見てたのによォ」
忌々しそうに青年が言うと、得物を奪われた女剣士は頷く。
「ええ。とても嬉しそうな顔をしていたわ」
「なら邪魔すんじゃねぇ、クソが」
「でも、本気で惑わされていたでしょう?」
「チッ……」
ショルテは舌打ちをして、メルチから目線を逸らす。
意識なく幻覚を見ていたのは図星であり、言い訳のしようもない。
が、助けられたことを認めるのは癪であったため、会話を打ち切った。
身体の絡まりを解いて、お互いに立ち上がる。
メルチは「ふぅ」と溜め息を吐き、服に付着していない汚れを払った。
その仕草はまるで、殺されないのが当然だと語るようであった。
再び眉を顰め、ショルテは口を開きかけたが、言葉を出し惜しむ。
(スカした面しやがって、人間もどき)
代わりに口元を引き攣らせて、心の中で悪態を突くに留めた。
投げ捨てられた剣を拾い直して、状態が万全かどうか確認するメルチ。
最後に軽く素振りを披露してから、彼女はショルテを見た。
「平気。行きましょうか」
「…………」
同行を許可されたわけでもないのに、彼女は既に同行する気マンマンである。
ショルテは呆れた顔をして、深く溜め息を吐く。
汚れた人間もどきのマイペースさに、ほとほとウンザリした。
先に行こうと提案され、冷静になった青年は進路を確認した。
青い花がボロボロの姿で倒れる先に、次のエリアへ続くゲートがある。
それはまだ、夢の中でさえ潜ったことのない道だ。
未知を知った瞬間、胸中に好奇心が湧いてくるのを、彼は自覚した。
すると、そんな純粋な感情に、すぐ罪悪感が連なる。
過去に体験した未知と死とが、彼の心を交互に惑わせた。
前に進めない。
(ラウラ……)
衝動に任せ、ダンジョンを踏破したい。
しかしそうすると、ラウラの死を見捨てるような気持ちになった。
彼女を裏切りたくないために、彼はまたも葛藤を抱える。
『ショルテ! キミは後衛なんだから、前に出過ぎないこと!』
『ま、魔法剣士は器用貧乏じゃないよ!』
『深海にこんなダンジョンがあるなんて……想像したこともなかった……』
回想は溢れる。
時間が逆流する。
『私、冒険者になって良かったって思うよ』
『いいなぁ~……リーダーとショルテばっかりズルい!』
『メルチって危なっかしい子だけど、純粋だよねぇ』
悲しみと好奇心とがせめぎ合って、綯い交ぜになっていく。
『まっさか~! そんな簡単に?』
『……うん、割り勘ね。私は1割ね』
『エンドレスパルムは最強のパーティだよっ』
数々の記憶は、深く刻まれた印象を乱雑に並べる。
一つ、また一つ……浮かんでは消える少女の顔が、彼を暗闇へ突き落とす。
精神が深い闇へと沈んでいくと、胸中には虚しさが復活した。
ありもしない残像を映すような狂気さえ、彼にとっては恋しい衝動に思えた。
『「ショルテ……どうしたの?」』
懊悩が激しくなっていく最中、青年は首を傾げるメルチを見た。
一瞬、脳は望んでもいない奇跡を起こして、ラウラとメルチを重ねた。
適当な薄笑いに疑問を含んで、真っ直ぐに見つめてくる彼女。
虚しさを受け入れかけている青年は、なにやら動物的なその視線を、なんとなく見つめ返してみる。
1秒。
もう1秒。
さらに1秒。
終いに1秒。
合計4秒間、空白の経過。
もはやショルテは、すべてがどうでもよくなった。
「――くくっ……ぶははっ!」
突如として、人間の生死が滑稽に思えた。
それに悩み続ける自分は、もっと滑稽に思えた。
堪えきれないで、思わず吹き出す。
「まあ、なにが面白いの?」
「なあ、ラウラ……俺は救いようのないクズだぜ」
「ふふ。ラウラは死んだわ」
「あーあ、最低だ、俺。死んだ方がいいんじゃねぇのか」
相方との意思疎通を放棄した会話で、彼は自らを責めた。
にも関わらず、その表情には自責の影さえない。
もはや彼の心から、蓄積された心情など掻き消えた。
綺麗に残ったのは、性格から湧き出た衝動だけである。
4秒間の空白は、青年の観念を砕き尽くしてしまった。
「下らねェ。冒険者なんて、みんなクソ以下だ」
皮肉気に笑ったショルテは、晴れやかな顔でそう言い放つ。
すると荘厳なる宮殿は、荘厳なる反響を起こした。
爽快な声は傲慢を獲得し、神に似て偉そうな天井の粧飾を目指し、どこまでも不遜に跳ねまわった。
吹 っ 切 れ た