ただいま
円形に立つ無数の柱。その中心に鎮座する、荘厳なる宮殿。
それは深い青を背景にして、神秘的な翠緑を纏う。
入り口は神々しい内部を見せているが、邪なる侵入者を罰しているようでもあった。
自ら沈んでいった海の底に、ショルテは呼吸をして立っていた。
過去に訪れた事のある深海のダンジョン。その聖域のような全貌を再び眺め、彼は呟く。
「相変わらず、偉そうな建物だ」
彼は忌々しそうに唾を吐き捨て、入り口の円柱を汚した。
そうして、翠緑に煌めく宮殿の中へ、無警戒に進んで行った。
――内部は静寂に包まれていて、微かな物音さえしない。
魔法陣のような模様が配われた、大きく広い床の上に、青年の歩調だけが響く。
そこには魔物の気配さえなく、神の居城と呼ぶに相応しい神聖さが漂っていた。
この宮殿の造形は、悉く巨人のために設計されたような趣きである。
ところどころで現れる階段や、向こうのエリアへ通じるゲートや、天井から見下ろすような柱……すべてが偉大だった。
そういった諸々の制圧的な雰囲気を、ショルテは非常に気持ち悪く感じていた。
前に来た時もそうだったが、改めて訪れても感じ方に変化はなく、少しげんなりした。
「クソが」
眉間に皺を寄せ、ぶっきらぼうに口ぐせを放つ。
すると、細部まで粧飾の施された高い天井まで、声は闇雲に拡がっていった。
『クソが』……『クソが』…………『クソが』………………『クソが』……………………
「…………」
低俗な言葉でさえ大いなる威厳を獲得し、話者の耳に反復する。
思わぬ意趣返し喰らったショルテは、さらに機嫌を悪くした。
だが今は、そんな些細な感情など、どうだっていい。
彼の目的はただ一つ――仲間を死に至らしめた、青い花を拝むこと。
今、そうしなければならない。たとえ脈絡のない衝動でも、彼は使命を感じたのである。
ここで起こったことのすべてによって、彼のパーティ『エンドレスパルム』は半壊した。
そのために、彼はずっと、パーティの仇を討ちたいと望んでいた。
ダンジョンによって蝕まれた人生の、せめてもの終止符を探していたのである。
それゆえ、常軌の中で常軌を探るような苦しみを抱えてまで、腐った生に縋っていたのだ。
今でなければならない。
しかし、このタイミングを計っていたわけでも、ましてや辛抱して待っていたわけでもない。
ただ、だらしない時間の流れにおいて、ついに掴んでしまった。それと同時に、手放すことは考えられなかった。
とうの昔に抜け殻と化した彼の身体を、使命が支配した。
とにかく、今。それだけなのだ。
青い花を目指す彼の歩みは、静寂に怯える素振りもない。
ただ静粛に前進するのみで、他の考えは端から消えていた。
その間に、彼の眼前には幻が浮かんだ。
『ショルテ!』
自分の名を呼ぶのは、今は亡き少女。
その声はもう思い出せないが、捏造が補完する。元と比べることはできないが、綺麗な声色だった。
少女の身体を覆いつくした、氷のように透き通る青い花の残像は、瞼の裏側に眠っている。
目を瞑って満開を思い出すことは、今や必要ない。こちらから会いに行くのだから。
宮殿を進んでいくと、景色は歪曲を始めた。
これは過去の記憶と同じ現象であった。ショルテは一瞬だけ驚いたが、取り乱すことはない。
歪曲は徐々に増していき、ショルテの立つ場所を不明瞭にする。
宮殿の技巧的な模様も、だんだんと猥雑になっていった。
感覚を狂わせる奇怪な異変に、青年は笑みを浮かべた。
「そうだ……これだ……! 俺の求めてたのは、この続きだ……っ!」
昂る気持ちが、青年の純粋な一面を浮き彫りにしていく。
その表情は光を取り戻して、魂は身体の支配権を使命から奪還した。
彼が今まで避けてきた光景に、最も会いたかったのは彼自身なのである。
通常の感覚を完全に失って、ショルテは無意識に倒れ込む。
そうして膝を曲げると同時に、原因不明の怪音が鳴り響いた。
呻きのような、悲鳴のような、動物・魔物の鳴き声のような――形容の困難な音波は、野蛮に振動する。
前はここで気を失って、気付いた時には少女とはぐれてしまった。
そして今回も、途中までは同じ結果を辿る。どうしても辿れないのは、少女との別れだけだ。
ショルテは薄く笑みを浮かべたまま、為すがままに気絶を受け入れるのだった。
~~~~~~~~~~
いくらか時間が経過した。
青年は眼を覚まして、まずフラッシュバックに苛まれた。デジャヴである。
眼を覚まして、少女の姿がないことに気付き、必死で捜索した覚えがある。
結局、あの時は自分で見つけることは叶わず、最後はメルチの報告に頼ったのだ。
そして、一縷の望みを手繰った先に――
「…………」
――口ぐせが出かかって、さきほどのエコーを思い出し、発声を慎む。
過ぎたことを思い出すのに、彼はもうウンザリしていた。
今さら記憶を再生せずとも、何度も夢で繰り返してきた光景である。
この記憶の日から、彼はまともに睡眠を取れなくなった。
「確か……南だ」
繰返してきたおかげで、行くべき方角は容易に見当がついた。
元リーダーが魔法でメルチと交信しつつ、手探りで通ったルート。
今は彼一人、脇目も振らないで辿る。
道のりは同じでも、壁の模様が鮮明であるため、少しだけ使命の実感を得ることができた。
かくして辿り着いた、見渡す限りの大広間。
夢の終着点である忌まわしきこの地点は、なんら変わりなく存在していた。
青年は口の端を吊り上げると、瞳孔を開いて笑い出す。
「ハハッ……ハハハッ、ハハハハハハハッ……!!!」
記憶の言いなりで、なんの苦労もなしに訪れた目的地。
合致に次ぐ合致は狂気に似て、神聖なる空気の重圧は懐かしく、見晴らした景色は余すところなく当然だった。
最大まで遠い場所に視線を映すと――彼の望むものが、美しい彩色を示していたのである。
氷のように透き通った青い花が、青年を迎えるべく咲き乱れていた。
「――……ただいま」
ショルテは自我を喪失したように誘われた。
青い花が表情を持ち、彼に親しげな微笑を向ける。ありもしない囁きが無数に群がる。
自分が前進していることに、彼は気付かなかった。花が自分に近づいているのだと錯覚していた。
氷の園の真ん中に、死んだ少女がぼんやりと立っていた。
『おいで、ショルテ』
「今行くよ」
『キミは私を見捨てた』
「許してくれ」
『だからキミも』
「すぐに行くよ」
うじゃうじゃと、美しい青が渦巻く。
その渦中へと、儚げな笑みの傍へと、幻影の胃袋へと、彼は歩いて行く。
身体を動かすのは、昂る魂でも、衝動的な使命でもない。偏に喪失であった。
青い花は、いよいよ笑みを深くした。そうして侵入者を歓迎した。
ショルテは再開の喜びを感じて、だらしなく笑う。
『ショルテ』
脳裏に刻まれた友人の声が、耳にはっきりと届く。
もう失うものはない。彼は優しく返事をした。
「ずっと会いたかった、ラウラ――」
――言葉が声になった瞬間、すべては切り裂かれた。
青い花は唐突に破れ、少女の姿は無惨に掻き消え、宮殿中に惨殺の音が轟いた。
ショルテの視界には刹那、神速の剣筋が可視化した。
「……ラウラは死んだわ」
呆然と立ち尽くす彼に、何者かの声がする。
彼はゆっくり、それ以上の速さで振り向けないかの如く、よろよろ首を動かした。
震えるその瞳にようやく映ったのは、脳裏に刻まれた友人の姿だった。
「ふふ……一体、なにを見ていたのかしら」
喪失を極めた青年の顔を見て、彼女は張り付けたような笑みを浮かべる。
銀色の剣に、氷の花弁が溶けたように滴っていた。
彼女は――メルチは剣を真横に振って、それを無造作に振り払った。