青い花
ブルースター。
冒険者はダンジョンに潜る。
そうでなければ、冒険者として生きていくのは厳しい。
ダンジョン攻略の本質は、未知なる世界と命のやり取りをすること。
覚悟無き者の前に、生死の入り口は開かれていない。
生を望むにせよ、たとえ死を望むにせよ、神秘の空間によって、魂の価値は規定される。
条理を逸した均一化は、どんな人間にも適応される。
されど、一度でも受け入れれば、もはや条理に戻ることはできなくなる。
街の噂を逃れ、生死の観念を離れ、人の命は神の采配に従う。
だとすれば、亡くした命の所在を知るのは、何者であるか。
生存のリアリティを保証するのは、生存そのものであると言い切れるだろうか。
今、彼の――独りの冒険者・ショルテの虚無感は、神によって埋められるべき欠乏か。
理不尽の対価が支払われる時を、彼はずっと待っていた。
だらしなく口を開けて、廃人のような虚ろな眼で、窓の汚れを眺めていた。
日差しを受けて白むガラスに、埃が付着している。そこから規則性を見出して遊んでいた。
冒険者ギルドには、いつも通りたくさんの冒険者が集まっている。
活気に溢れた人々の顔を視界から追い出し、孤独なレンジャーは建物の隅を見つめる。
そこにはなにもない。
彼の手には、あるダンジョンから入手した魔道具が握られていた。
“霊界杖”。故人と関係があったモノを与えることで、その人の声を聴ける杖である。
彼はそれを、売り払うために所持していた。それなのに、どうしてか手放せないでいた。
未だに口を開けたまま、テーブルに頬杖を突く。
(アイツの形見なんて、どこにも持ってねェや)
聴きたい声があるせいで、手放すのが惜しいのである。
だが、杖はあくまで『故人と関係があったモノ』を与えられなければ作動しない。
それを持たないショルテにとって、この杖は……効果だけは魅力的な、ただの棒きれだ。
いつまで尻込みしようが、彼とて金が足りないのだった。
それゆえ、換金しなければ生活苦である。換金すれば、脱・生活苦である。
後ろ髪を引かれるが、手放す以外の選択肢はない。そう考えて、彼は立ち上がった。
目指すは質屋だ。
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到着した場所は、質屋ではなくて武器屋であった。
なんとなく質屋に売るのが癪だったため、ここに来たのだ。
といって、癪な理由も特にない。彼は考え直し、普通に質屋へ向かった。
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到着した場所は、質屋ではなくて宿屋であった。
なんとなく質屋に行くのが面倒だったため、ここに来たのだ。
といって、面倒の理由も特にない。むしろ宿屋を経由する方が無駄で、真っ直ぐ向かうより遥かに面倒な移動である。
彼は考え直し、今度は決意して質屋へ向かった。
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そんな決意などあっという間に霧散し、彼はまた武器屋に戻っていた。
なぜ質屋に足が向かないのか、ショルテ自身にも分からなかった。
だからといって、深く考えようともしない。口が半開きの彼には、まともな思考能力が備わっていなかった。
道は分かっている。ずっと街で暮らしてきて、今さら迷子になるはずもない。
そう考えた後で、迷子になればいいとも彼は思う。
呼吸を止めてみて、息苦しくなった後で、大きく息を吸う。
それと同時に質屋へたどり着くことを決心し、再び歩みだした。
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結局のところ、彼が質屋に着いたのは、息止めの決心からかなり経ってからであった。
今に至るまで、彼の足はフラフラと蛇行して、武器屋、宿屋、冒険者ギルド、酒場……と、各施設を無作為に巡った。
その甲斐あって、足はすでにヘトヘトである。けれども、この疲労こそが彼を質屋に向かわせたのだ。
そんなわけで、とにかく、霊界杖を売り払うことはできた。
生活資金も潤沢で、退屈なあくびが出る。
「シルバーが、1、2、3、4、5……」
おもむろに、彼は銭袋をひっくり返し、手持ち勘定を始める。
それなりに量があるのに、なんの工夫もせず、単純に重ねて数えた。
「――10、11、12……なんも食いたくねェ……あ、今どこまで数えたっけ」
案の定、途中で別のことを考えた拍子に、勘定はリセットされてしまう。
それでもヘコたれずに(無気力ともいう)、彼はまた勘定を始めた。
「1、2、3、4、5」
そこまで数えて
「めんどくせェな、クソがっ」
と、5枚のシルバーを地面に放り投げる。
散らばったシルバーたちは、小さく甲高い音を石の道に響かせた。
チャラリ――剽軽な音が、ところどころで踊った。
その瞬間、なぜかショルテの脳は覚醒した。
彼は突然、大きく眼を見開いて、眉間に似合いすぎる皺を寄せた。
「そうだ――青い花を見に行こう」
そう言い放った彼の目線は、道の端へと転がっていくシルバーを監視していた。
やがてそれが静止すると、彼はどこかへ歩き始める。
5枚のシルバーは打ち捨てられて、石に同化したまま朽ちていく運命へと陥った。
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彼の足は、もうどこにも寄り道しなかった。
なにかに操られるように、ただズンズンと歩いていく。
確かな歩調に迷いはない。
――かくして辿り着いた場所は、ある湖のほとりであった。
この湖の底に沈めば、そこには未知なる世界が広がっている。
水面からは全貌を確認できないが、一度ここへ潜っているショルテからすれば確実なことだ。
彼の歪な行動の根本にあるのは、いつか見た青い花だった。
それが咲いていたダンジョンこそ、まさにこの湖の底にある。
鏡の水面は、彼を誘うように揺蕩った。
息を止めて、為すがままに沈没していけば、不思議の迷宮に落ちるだろう。
孤独なレンジャーは覚悟を決め、大きく空気を吸った。
(これでもう終いだ)
そんな呟きを心に秘めて、次の瞬間、彼は湖の底へと深く潜っていった。
人知れず姿を眩ませた彼を知る者は、どこにもいなかった。
そして、それは嘘である。
「ふふ……ショルテ、私には声を掛けないの」
質屋からずっとショルテを尾行してきた女、メルチ。
彼女は愛用の剣を銀色に光らせ、水面に映る光を方々へ乱射した。
――ショルテとメルチが所属するパーティ、『エンドレスパルム』。
かろうじて千切れずにいた2人の繋がりは、じきに朽ちる。
※シルバーはスタッフがおいしくいただきました