虚日
寝不足の視界には、空気中を満たすエーテルの粒がはっきり見える。
不愉快な朝を迎えて、ショルテは苛立ちながらあくびした。
「クソが」
配給される宿の飯は食べないまま、片手で頭をかきむしる。
彼は二度寝の誘惑に抗うどころか、もはや一生目覚めなくてもいいと思っていた。
だが、それでも眠れそうにはなかった。頭はムダに冴えていた。
「……メルチ、おい」
忌々しい相方の名を口にしてみたが、彼女は今、隣にいなかった。
特に珍しいことではない。朝早くから起きて、勝手にどこかへ行く――おそらく、ダンジョンへ潜っているのだろう。
ダンジョン狂いの彼女は、性格上そうしなければならないのだ。そして、ショルテにとってその事実は、かなりどうでもいいことである。
ところで、このまま宿に居たところで、なにもやる気は起きないようだった。鬱々とした気持ちが募るだけだ。
未だに視界を埋めるエーテルが、彼のささくれに障った。
窓の向こうにも、宿の壁にも、室内にも、眼前に興味の種火は一つだって見当たらない。
「…………」
自らの呼吸さえ、果てしなく不愉快だった。
身動き一つ、取る気は起きない。石のように固まっていたかった。
起きてからずっと、彼の眉間に刻まれている皺は、引っ付いて離れてを繰返す。
それでも、彼は当然のように宿を後にした。
いつまでも動かずにいることすら、まるで辛抱できなかった。
~~~~~~~~~~
アテのない彼が向かったのは、とある喫茶店である。
過去の経験に従って、とりあえず目覚めのコーヒーでもすすろうと考えたのだ。
しかし、いざ店員に注文を告げようとすると、言葉が出てこない。
「お客さま?そのぉ、ご注文は……」
「……すまねぇな。水だけでいい」
「は、はぁ」
呼ばれた店員は困惑した顔をしつつ、それでも丁寧に「ごゆっくり」と付け加え、別のテーブルへ行く。
ショルテはなにをするにも、一切がやるせなく思えて、なにも行動に移せない。
覚醒した脳ミソが訴える微かな頭痛は、苛立ち諸共、寝不足のせいであった。
『水だけでいい』とは言ったものの、その水をいざ喉に通すと、どことなく吐き気がする。
水特有の臭みが、口内を伝わって鼻に香った。
彼は喫茶店に入ったことを後悔しつつ、退屈な頬杖を突いた。
「…………」
頭の中では、冗談のような言葉が無数に飛び交った。
にも関わらず、その表情には微笑の影もない。
あいかわらずの仏頂面を引っ提げて、惰性で空にしたグラスを弄ぶ。
ぼんやりグラスを見ていると、関係のない記憶が頭を巡った。
過去のパーティメンバーが笑っている姿や、メルチの吐いた下らない嘘や、とあるダンジョンの景色や――なにも感じないで、ただ垂れ流す。
時折、無意味な上映会を遮るように、無意味なことを思う。
(なにが見たかったんだ)
その言葉に、前後の文脈はない。
(いらねぇ)
思考をまとめる気にはならず、自分にすら不明瞭な言葉を、デタラメに並べた。
それでさえ、楽しくもなんともないし、気休めにも、暇つぶしにもならなかった。ただ、時間だけが無為に過ぎる。
しばらくすると、喫茶店に滞在していることは億劫になった。
思うか思わぬか、とにかく場所を変えようと立ち上がる。
結局、なにも注文しないまま。
店を出る際、店員の「ありがとうございましたー」という声が、背中越しに聴こえた。
そんな決まりきった挨拶を、ショルテはバカ丁寧と見下して、なんとも白々しい心持ちになった。
~~~~~~~~~~
街の中には、今の彼を満たすものはない。それどころか、目いっぱい煩わしいもので溢れている。
すれ違う人々、特に笑っている人間を見ると、非常に強い嫌悪を感じた。
奴隷の子供に飴をやりたくなった。
貴族の娘を凌辱したいと思った。
資産家を海に沈めようと決意した。
そんな衝動の悉くは次々に現れ、あっという間に霧散した。
街を追い出された彼が辿り着いたのは、清潔な壁の向こうに広がる、緑で覆われた豊かな森だ。
まだ人間に侵されていない領域は、恐ろしくなるほど静かで雄大である。
そこにおいて、ショルテの睡魔はようやく復活した。再び、あくびが出る。
ただ黙って、空を仰ぎ見た。
腹立たしい晴天も、眠たげな彼の眼には無感動に映った。
そよ風が肌に寄り添う。無味乾燥の空気を吸って、小鳥の鳴き声を聞くと、少しだけ癒された。
「青い花」
うわ言のように呟くと、彼は今日、初めて表情を変える。
感情の波が飽和に達した時の、安らかな顔つきであった。
眉間の皺はキレイに消え去って、苛立ちの面影は残っていない。
呟きを合図にして、記憶はまたざわめきだした。
過ぎし日の立てる物音へ、彼はなすがままに傾聴した。
――緑の生い茂る、のどかなダンジョン。
新米冒険者たちが踏み慣らした地を、彼らは進んでいた。
『さっきの魔物は俺の獲物だったぞ!お前ばっか良いとこ持っていきやがって!』
『へッ、うるせぇよ。取られたくねぇなら、一撃でノしちまえばよかったんだ』
戦士の青年から抗議されると、ショルテは皮肉げな笑みを返す。
すると、彼の隣から、少女の高い声が聞こえた。
『もー、キミたちはケンカばっかしないの!』
『おー、わりーわりー。今後は気を付けますよっと』
魔法剣士の少女は、困ったように笑って2人をたしなめた。
攻略は順調で、決して楽ではなかったものの、確かな手ごたえを感じていた。
5人の冒険者は、自信を持って足を前に出して行く。
『ショルテ、少し寄り道しましょう。ほら、あそこにステキな木の実があるわ』
『ばーか、メルチ。ありゃあプラーンって食いモンだ……ダンジョンには珍しくねぇのさ』
『へぇ、そうなの。やっぱり、ショルテは色んなことを知ってるのね』
メルチは様々な場所へ目移りして、不思議なものを見つけるたびショルテを誘う。
彼は誘いには乗らないが、その代わりにダンジョンの知識を自慢げに語った。
そうして知識を披露し続ける彼へ、パーティのリーダーが言う。
『ショルテ』
『……ん?なんだよリーダー』
『経験も大事にしなさい』
彼の手には、さきほどメルチが指差したプラーンが乗っていた。
それを差し出されたので、とりあえず受け取ってみるショルテ。
おそらくは、実際に味わってみろということなのだろう。
口数の少ないリーダーだが、彼の言葉が間違っていたことはない。
知識を正しく使うには、経験することも大切である。
そう考えたショルテは、少し警戒しつつも、プラーンを口にした。
『どんな味なの?』『どんな味だった?』『どんな味がするんだ?』
口に含んだ瞬間、仲間たちから寄せられる視線。
彼はそれに応えるべく、しばし味に集中する。
口の中には、酸味のある甘さがいっぱいに広がっていた。
『甘くてすっぱいな。なかなか悪くねぇよ』
『なに!?よっしゃあ、俺も取ってきてやらぁ!!』
『ショルテ、一口ちょうだい』
『いいぜ、ほら』
『きゃっ、メルチ……!それって間接キスだよ?!』
賑やかなパーティと過ごす、大切な時間。
とりとめのないことにも、時間を忘れるくらい夢中になれた。
願わくば、誰一人欠けることなく、ずっと先もこうしていられたなら……
脆過ぎた幸せは、ショルテの心に鮮やかな傷を残していた。
――気付くと、彼は無意識に涙を流していた。
冷たさが頬を伝うと、初めてそれを知る。
その原因は、彼自身では分からない。ただ、曇り一つない空が、胸中に溢れる虚しさと同化した。