二章-③完全に包囲されている!
「のわーっ」
俺の目は、鏡の横に掛かっている小さなネームプレートに釘づけになった。
関・若・葉!
今の俺に最も効果的な魔法の呪文三文字だ!
な、なぜこの名前がここに!? 計算にかかった時間は0。考えるまでもない、ここは、関若葉の、若様の、青ワンピちゃんの……。
ガチャ、
「は!? ガチャ!?」
と出かかった大声を慌てて両手で止めた。誰かが入ってくる。
俺は咄嗟の判断で、目隠しになってくれそうなハンガーラックの裏側に飛び込んだ。ギリギリセーフ。間一髪のタイミングで扉が開かれた。
「お疲れさまー」
廊下でやり取りする声が耳に入ってくる。それはやはり他ならぬ、さっきまでステージの上にいた彼女たちの声だった。
「みな、ケータリング寄ってくる。何か持ってこよっか?」
「あれば栄養ドリンク」
「おっけー。あれ、ふわりんは?」
「マネージャーと何か話してたみたい」
「んじゃ行ってくるね。ノック三回したら開けて?」
「了解」
扉が閉められる。
悪いとは思いつつもがっつり盗み聞きをしている自分がいた。アイドルの会話ってこんな感じなんだ、と妙に感動してしまう。あと、鏡前にも何本かあるところからして、若様はかなりの栄養ドリンク愛好家らしい。サラリーマンのようなストイックさが素敵。
……じゃなくて、ちょっと待った。
ここは確か、楽屋だったはずだ。楽屋って言うのはアイドルたちがステージの前に準備をしたり打ち合わせをしたりする場所で、準備っていうのは着替えたりお化粧をしたりなんだりっていうことで、ステージが終われば当然それらをキャストオフして普段着に戻……っておい。
結婚式に乱入する往生際の悪い元カレのように叫びたい衝動にかられる。その着替え、ちょっと待ったァ!
「……っしょっと」
「……っ!」
衣擦れの音が耳に入り、思わず背筋が伸びる。
見ないぞ、絶対に見ないんだからな。俺の中の脳内老執事が、ご立派ですぞ坊ちゃまと微笑んだ。当たり前だろ、セバスチャン。俺はバカみたいに混乱していた。
衣類の陰になってギリギリ見えてはいないけれど、いっそ目を瞑ろうか逸らそうか本気で悩んでいる、と、ふいに視界が明るくなった。
ハンガーラックから服が取り上げられたのだ。
……なんだって?
「……えっ」
「えっ」
目の前には、戸惑いに揺れる乙女の、二つの瞳。そしてふたつの
「うわああああごめんなさいすみませんごめんなさいすみませんっっっ」
慌てて目隠しをしようと振り上げた腕が勢いそのままにぶつかり、ラックを転倒させた。受け止めきれず、若様はたくさんの服に巻き込まれながら床に倒れ込む。
「わ……っ」
「若……っ」
顔から血の気が引いていく。
嘘だろ、最悪だ。慌てて衣装を掻き分け、若様を助け起こした。
「ごめん! 大丈夫!? ケガは!?」
ケガはないようだ。
「けが、な……い……」
毛が、ない?
「ないわ、大丈夫……」
いや、大丈夫じゃあない。
「……アンタ」
掻き上げようとした長髪がないことに気づいて、彼女、いや、彼はようやく事態を把握したらしかった。大きく目を見開き、顔を上げる。
かち合った瞳と瞳。それは見覚えのあるものだった。かなり最近、どこかで。あの時も同じように、前髪の奥で。
……プラスチック越しに。
「店員さん!?」
「常連さん!?」
やっぱり!
叫んだその高い声にも聞き覚えがあった。お客様、困ります、大丈夫でしたか、女性一人のご利用だったので……。
メガネはかけていないけれど、間違いない。漫画喫茶の救世主・夕方シフトのサブカル店員さんだ。それがなぜこんな所に?関若葉はどこに?ああ、でも女の子に怪我をさせていなくて少しほっとしたりして……。
「どうしてここに」
二人同時に口を開く。俺は先を譲った。店員さんは身の回りに散らかる洋服たちを掻き分けながら、独り言のようなボリュームで俺に問いかけた。
「君、お客さんとして来てたんじゃないのか」
「ライブに? ああそうですよ、関若葉ちゃんに会いに」
「俺に?」
あんたじゃねーよ、そう喉まで出かかったツッコミは、すぐにぷつんと途切れてどこかへ消えた。
サブカル店員さんの首から下を確認した俺の口からは、変なかすれ声しか出てこない。
脱ぎかけのブラウス、外れかけのネクタイ、胸元にあしらわれたブローチはバレンタインのチョコレート。さらに下、ミニスカートから伸びる白いふともも、ライブ中、見えそうで見えなかった粋な丈。
もう一度視線を上に戻す。「彼女」は俺に言った。
「さっきも言ったけど……来てくれてありがとう」
派手な音を立てて、金ダライが俺の頭を直撃した。
「……っ、あん、たっ」
何度も呑みこみ、何度も躊躇して、たっぷりの間を置いてから、
「…………関若葉?」
俺は片思いの女の子の名前を口にした。
冷や汗がこめかみを伝う。
サブカル店員さんは、俺の顔を見て一瞬だけ目を逸らし、それから長くない髪を掻き上げて言った。
「ごめん」
「ちょ……」
ちょっとタンマ。誰に言うでもなく、口が勝手に呟いていた。
全身の力が抜けてへたりこむ俺とは逆に、店員さんはようやく探していたモノを見つけて引っ張り出し、細いくしを片手に鏡に向かった。
ぼんやりとその作業の始終を眺めていると、ほどなくして、鏡越しに見たことのあるひとりの少女が現れた。それは長い黒髪がよく似合う、清楚な少女で……。
「マジでェ!?」
俺はそこでやっと、大声を出すことに成功した。
勢いをつけて立ち上がり、美少女を鏡越しに正面切って指差す。
「マジであんたが関若葉!? さっきステージで歌ってた、そんでもって握手してくれた、あの若様!? めっちゃかわいくてめっちゃキラキラしてて、歌がうまくてダンスもうまくて、パフォーマンスで心臓何度も討ち抜いてくれちゃって、性格もめちゃめちゃめちゃめちゃよくて俺のハートをつかんで離さない、あの関若葉!?」
「そんなに褒められると、照れる……」
「褒めてねぇよ!」
いや、ベタ褒めなのか!?
こちらに振り返り少々はにかんだような表情を見せる。その顔はまごうことなき、彼女だった。アイドル・関若葉がそこにはいた。
「だっ、だって、ということは、それって……」
カツラ、化粧、ブラウス、スカート……女装じゃん!
叫ぼうとしたその声は、ふいに響き渡ったノックの音でぐっと寸止めを食らった。勢いそのままに扉に振り向く。
関若葉フューチャリング店員さんも同時にそちらを見やった。コ、コ、コン、と軽快に三回。
「みっ、みな、今開けないで!」
咄嗟に叫んだ彼の言葉に、十%ほど開きかけた扉はすぐに閉じられた。俺の姿は、見えていなかったはず。
「着替え中ー?」
年長アイドル(インターネット情報)春市みなの呑気な声が扉越しに問いかけてくる。きっと手には栄養ドリンクを持っているのだろう。
「うん、そ、そう!」
「わかったー、大丈夫になったら言ってねー」
俺と店員さんは思わず顔を見合わせた。まったく同じ顔をしている。「まじやばくね?」という顔だ。マジヤバいと思う。
間違いがないよう、店員さんは後ろ手にドアノブを握り、扉を背にしてもたれかかった。
俺は部屋を見回し、出口を探す。窓はない。壁を叩いても、コンクリートの壁は穴が開くどころか音もたてない。たったひとつの出口からは、出るわけにはいかない。
アイドルの楽屋にファンの男が出入りしているだなんて、そんなことがバレたら。
「……はぁ」
それは俺に聞こえるか聞こえないかの大きさのため息だった。続いて、聞こえてはいけない単語が聞こえた気がした。
潮時かなぁ。
「なっ……」
関若葉を振り返る。俺の脳裏に今日一日の映像が照明が次々と浮かび浮かんでは消えていった。体温がぐんぐんぐんと上昇していく。まるでライブの真っ最中のように。
「今なんて言った!? 潮時!? 引退!?」
「ば……っ、」
「だめだよ、そんなの絶対! 俺っ、俺はあんたのことが」
関若葉の制止の言葉は、猛烈なノック音にかき消された。
「ちょっと若葉ぁ!? 中に誰かいんの!?」
ノックの達人エクストラモードだ。続いて足音が。
「どうかしたんですかぁ?」
「何かあったのか、みな」
最悪。
店員さんが一瞬泣きそうな顔になったのを俺は見逃さなかった。
数回、ごんごんと威圧的な調子で扉が叩かれた。大人の男の声がそれに続く。
「若葉、どうした?」
マネージャー、と店員さんが小さな声で教えてくれる。
「その、私まだ着替え、」
「男の声が聞こえたみたいだが」
着替え中です、とは言えなくなった。答えに窮し、二人して押し黙る。元より俺はしゃべるわけにはいかないのだけれど。
「……開けるぞ」
扉が内側に一センチほど動く。
「だめです……!」
店員さんが慌てて体当たりで押し返し、俺もそれに加勢した。ドアと俺の間に店員さんを挟むような体勢になる。ああ、悲しいかな、背が少し足りていないみたいだ……。
「若葉、いい加減にしなさい」
「だめです、むりです!……ほんとに……ぜっ全裸なんです!」
全裸て!
思わずツッコミが出かかったが、変な汁音がドア越しに聞こえそちらに気を取られた。次いで派手な物音が聞こえる。えっ転んだ?
「だーめーだーよー! マネージャー童……純情なんだから、あんまり刺激強いこと言ったらー!」
みなちゃんの謎のフォローが入る。ヌードを想像して鼻血を噴出しているとなると、どうやら事務所の身内にも性別を明かしていないらしい。
「い、い、い、今すぐ服を着なさい若葉! というかそんなはれはれ、破廉恥な格好で、男と何をしてるんだっ」
「なんもしてたまるかぁぁ!」
「……おい、今の声」
「ああ、ばかぁっ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
これは時間の問題だ。そう俺は思った。一層強く、扉が叩かれる。
「おい変質者、今すぐドアを開けろ!」
警察でも呼びそうな剣幕である。
俺は変質者じゃないし、あんたのアイドルの全裸は残念ながらあんたと一緒の構造してるよ。
静かに店員さんから体を離す。
ドアの前には新たな足音が群がり始めていた。
どうかされましたか、あのー取材なんですが何かありました? え? 男と籠城? は、裸で? 業界口調の大人たちが、何やら盛り上がりを見せ始める。みなちゃんやふわりんが反論しようとしても聞きやしない。
「君も一緒に扉抑え……、何してるんだ?」
必死に体をドアにくっつけながら、店員さんが俺を振り返った。
「これってこうやって使うもの?」
「そう、だけど、……えっ」
結んだ髪にピンを差し込む。鏡を睨みつけ、作業を続行した。
「店員さんには、前に助けられたから」
あの時のことを思い出す。助けられっぱなしは男らしくない。それに俺は、この人を助ける方法を知っていた。そしてそれを実行することもできる。
目の周りの装飾に手こずっていると、見かねた店員さんが手を貸してくれた。
アゴを持ち上げられ、……もう今日だけで何回目なんだろう。憧れの美少女と、視線と視線がぶつかり合う。思わず口から素直な感想がこぼれた。
「……ほんと、キレイ……」
「ん、俺が?」
「うん」
「ありがとう。……目、瞑って」
ええっ大胆!? と思いながらもおそるおそる目を閉じる。
だがいくら待っても唇にはなんの感触も来ない。再びそっと目を開け鏡と向かい合った時、そこには俺なのに俺じゃない、……女子がいた。
「ここ、これがっ、俺……!?」
「かわいいよ」
俺はその時確信した……カワイイは、つくれるっ!!
「若葉ーお前はもうー完全に包囲されているー」
分かってるようるせーなっ。
十秒でスカートに履きかえて、覚悟を決めてドアを開け放った。
相対する一同の顔が「アレー?」というマヌケなものに変わったのを確認し、俺は用意していたセリフを口にする、ちょっとだけ、糖分を加えて。
「わたし……男じゃありませんっ」
ひとりひとりのリアクションを確認している時間はない。それでは名乗らせてもらおうじゃないの。店員さんが考えてくれたとっておきの源氏名だ。有沢すぐる、改め……、
「わたしは……ありすっ……、沢良ありすチャン、ですっ!」
ちなみにチャンはアドリブですっ。
「……どうやってここに?」
「若葉さんにご挨拶にと思って……、うっうっ、」
嘘泣きする俺の横をマネージャーが通り抜ける。大丈夫、男の痕跡は店員さんの鞄の中に詰め込んである。
「……ここにいたのは君だけか?」
「はい。ごめんなさい、こんな大事になるなんて……ぐすっ」
カメラをぶら下げた男とメモ帳を片手に持った男がちょっとよろしいかと挙手をした。
「彼女は誰ですか?」
「関係者の方ですか?」
うげげ、そこまでは考えてなかったぞ。
 
マネージャーは俺の横に立ち、そして誰もが予想だにしなかったオドロキの言葉を投げ放った。
「うちの新人です」




