一章-①漫画喫茶で会ったのは
漫画喫茶あるあるその1。店内で人に会うと、やたらびくっとしてしまう。
漫画喫茶あるあるその2。隣のおっさんの息遣いはげんなりポイント百点追加。
漫画喫茶あるあるその3。持ってる小銭の金額で、滞在時間を決めがち。
俺、有沢すぐるは、漫画喫茶の常連である。
花も恥じらうピチピチの現役男子高校生でありながら、週に一、ニ度は商店街半ばの漫画喫茶に赴いている。
お小遣いをやり繰りして健気に通う理由は……実のところ新刊マンガでも大長編シリーズ制覇でもない。ヒントは漫画喫茶に来るために、わざわざ私服でびしっとキメてくところ。
「いらっしゃいませー」
「あ、えーと二時間でおねがいします」
「ご希望のお席ありますか? 通路側は埋まっちゃってるんですけど」
「どこでもいーっす」
こんなやり取りも慣れたものだ。
しかしこう、通っていてなんだけれど、何回来ても漫喫独特の空気っていうのは慣れないものだ。
図書館の静けさとはまた違う無音の空間。人の気配は無さそうでありありで。漫画喫茶じゃなくて「少女」漫画喫茶だったら、こんな雰囲気にはならないんだろうな。
要は客層の問題!
たまに出くわすのは、八割モテない二割いけてないおっちゃんorおにーちゃん。声が高いのは受付の黒縁眼鏡の店員さんだけだ。女人禁制なのかと疑うレベルである。
古臭い紙の匂いを嗅ぎながら、それとなく棚を吟味する。俺は目についた少年モノの冒険譚へ手を伸ばした。
背表紙からして相当年季が入ってる。何かがしみ込んだ匂いと色。何かっていうのは多分三十年分の、バトルシーンで皆がワクワクしながら手に握ったソレだ。ソレっていうのはそう、
「ぅ、ひっ!?」
「ああ、ごめんね」
「ななな、なななにぬめぬめ」
「ソレ」が俺の手を包み込むようにぬめっと触れた。
「はは。そんなに驚いたぁ?」
湿った手をどけもせずに、手汗の持ち主は薄ら笑いを浮かべながら俺を見下ろしていた。
漫画喫茶あるあるの、超進化系!
「こういう漫画が好きなの? これはおじさんが中学生の頃にアニメがやっていたんだよ。いやはや珍しいねー君みたいにナウでヤングな子が」
「あ、あの、て、手……っ?」
「おおーっと、ごめんごめん」
ようやく解放された手を、見えないように高速でズボンにこすりつける。
「この漫画はおじさんが中学生の頃にテレビで……」
それさっき聞いたし!
「し、しつれいしますっ」
別に悪いことをしたわけでもないけれど、俺は逃げるようにそのコーナーを後にした。だがしかし、すぐ裏側にピンクと肌色の多いコーナーを発見して、思わず立ち止まってしまう。
「うっっっ」
おっさん・もてなそう・エロコーナー・手のひら……頭の中で考えちゃいけないビンゴゲームがリーチ状態だ。
「ああああ、あとひとつで揃ってしまう……」
「あのー」
「ぅあはいっ」
しかし呼びかけてきたのは、想像よりずっと高い声だった。おそるおそる振り向いて、ほっと胸を撫で下ろす。黒縁眼鏡のサブカル店員さんだった。
「お客さまの席、ちょっとネット回線に不備があるみたいで……。すみませんがご移動よろしいですか?」
「……ひゃい」
今日はつくづく漫喫運がないみたいだ。多分この後、ドリンクバーのメロンソーダだけが売り切れていたりするんだと思う。
鞄をぶら下げて、通路側の席へお引っ越しする。キーホルダーの猫が不満げに揺れた。もはやさっきの漫画の続きも気にならないし、特に読みたいものもぱっと思いつかない。
リクライニングに思い切り足を投げ出して、薄暗い天井を見上げた。
なんで漫喫ってこう薄暗いんだろー。そんなことを考えながら、俺は視界の端でゆっくり動くものを、ぼんやりと眺めていた。右から左へ、ゆっくりスライドしていく。銀色のレールの上を、滑っていく、滑りきってカタンと鳴った小さな音で、俺はやっと何が起きているのか理解する。見開いた自分の瞳に、二つの瞳が映り込んだ。
さっき見たばかりのにやけた瞳だ。
「なんで?」
なんで笑ってんの?
俺が最初に思ったのはそんな疑問だった。
だって不自然だったから。席間違えて入ってきた人の顔じゃないじゃんソレ、って。
ぞっとしたところで、今度は扉がゆっくりと閉まる。おっさんが後ろ手に閉めたのだ。
「ちょっ」
さすがに不審に思い、反射的に手を伸ばす。
「あ、ごめんねー?」
「あ、いえ……」
手を引っ込める。謝られてはこちらも寛大な態度を見せるしかない。フェアじゃないもんな。おっさんに対しては二回目だし慣れたもんだ。
そんなわけないだろ。
あ、いえ、とか反射的に何か口ごもりながら、頭の中はパニックルームだった。おっさんが何してるのかも何考えてるのかもまったくぜんぜん分からない。クラスの女子の、好きなやつの前での態度と俺の前での態度との違いの方がまだ分かる!
「え、えっと」
「うん、なーに?」
分からなかったら、聞いてみるのだ、そうだ。ちょっとちょっとなんなんスかっ?と聞いてみればいいのだ。
「あのー、なん……っな……!!」
最後まで言わせてはもらえなかった。
おっさんは俺を驚かせる天才なのか。まさかまさかの、服を脱ぎ始めた。なんなの? どこまでエンターテイナーなの? もしや拍手を送った方がいいのだろうか。そう思い恐る恐る上げかけた両手をがっしり掴まれ、時が止まった。
目が合った瞬間心拍数はどきんと跳ね上がり、触れ合う手から……確かにおっさんの熱を感じた……。
二人っきりだね。
「……ぎゃああああああああ!」
「あ、違う違う。ふふ、ごめんごめん」
「何が違うんだよテメーちょっ待っ、何触らせようとし……、うわ、ちょっとマジでやめ……」
聞かない。聞かないし、効かない。スニーカーで必死の抵抗を試みているのに、おっさんとの距離は縮まるばかりだ。臭い怖いキモい。
「さ、3K揃ってる……」
「サンキュー? こちらこそ、ふひ、ありがたやありがたや……」
ああそっか、聞かない&効かないもあったな。5Kだ。すごい! クソ物件!
「ほ、ほんとに、やめてくださ……っ」
情けないことに、力で勝てないと悟ってしまった俺の心は屈服寸前だった。手も足もがたがたと震えてしまって、なんだかもう蹴り飛ばす勇気も出てこない。
指先が何かに触った気がして、思わず顔を逸らしてきつく目を瞑る。そうしてせめて涙をこぼさないようにすることしか、その時の俺にはできなかった。
「困ります」
「……へ」
それは、高い声だった。
急におっさんの体温が離れていく。さっきまであんなに強情に張り付いていた体がいとも簡単に引き離されたことに驚いて、俺は上を見上げた。
黒縁眼鏡であんなに押しの弱さ丸出しだった店員さんが、おっかない顔でド変態と対峙していたのだ。そのきつい眼差しを見たド変態は、大人しく扉の外へ後ずさる。
「お代は結構です。当店は今後、貴方様の出入りを全面的にお断りさせて頂きます」
はっきりと出入り禁止を言い渡して、個室の扉は閉められた。小走りで遠ざかっていく足音。あ、しまった、拘束して警察を呼ぶべきだったか。サブカル店員さん、もといゴッドのそんな呟きが頭上で聞こえた。
「……大丈夫でしたか?」
宙ぶらりんで固まっていた指先が別の場所に導かれ、冷たいものを渡される。
依然として硬直している俺の指をそっと解いて、広げたおしぼりをふわりと乗せなおしてくれた。
「使って」
言われた使い道とは多分違う。冷たいおしぼりに、俺は熱くなった額と頬を思い切り押し付けた。目頭からじわりとした何かが吸い込まれていく。
ありがとう、という声は細すぎて、店員さんには届いていたかわからない。静かな個室空間に、情けない嗚咽が零れては消える。
ようやく顔を上げた俺は、ポケットを探る店員さんの袖を掴み、警察は呼ばないでと小声で訴えた。だって、なんて説明するわけよ。おっさんに痴漢されました? まさか、そんな。親に話が行くんじゃないの? 例え慰謝料とれたって、そんな不名誉なおまけ絶対いらないし。
何より腑に落ちないのは、男なのにおっさんをハアハアさせてしまったという、この上なく薄ら寒い事実である。
「いいんですか? これ立派な犯ざ……」
「すんません、もう大丈夫ですからっ、忘れますからっ」
頭を振って強がる俺に、店員さんは掛ける言葉を丁寧に探している様子だった。
「……ああいうのは、同じ男として本当に許せません」
「ええ、ええ、まったくっすよ」
「俺も、もっと目を光らせておけば良かった。女性一人でのご利用だったので、途中で空いた通路側に移させて頂いたんですが……。対応が遅れて本当に申し訳ございません、常連さんなのに……」
心底申し訳なさそうに店員さんは謝る。その前髪とメガネじゃ目を光らせようにも見えにくいでしょーに。
「……って、今なんて?」
「すみません、もっと目を光らせておけば……」
「その次」
「常連さんなのに」
覚えられてたのか、恥ずかしい。じゃなくて。
「その前」
「女性一人のご利用だったので」
はぁ!?と思い切り顔をあげる。涙で腫れた俺の目と、店員さんのプラスチックの向こうの目が合った。
数秒間じっくり見つめ合った後、店員さんはあー……と小さく母音を漏らした。そして深々と頭を下げ、ポケットから何か紙切れを取りだし、俺にそっと手渡した。どうぞお収めくださいということだろう。
室料一時間無料券。
そんなもんで、この怒りが収まってたまるか!