レム睡眠症候群
いじめよくないな~いじめは。
小学生だって恋愛するんですよ。
特に年の離れた兄弟がいるとね。
多分、僕が生まれた時、両親は喜んでいたと思う。一日、半年、一年と、成長する僕は、特に大きな病気もなく、やんちゃだったと事も有ったみたいだけど、順調にすくすくと育っていた。
小学生になり、毎日学校に行くのは楽しかった。一緒に遊ぶ友達も出来た。勉強も運動もそこそこだったけど、成績について怒られることもなかった。
環境が変わったのは、5年生の春だった。父親の仕事の関係で引っ越すことになり、今まで通っていた学校へは通えなくなった。寂しがってくれる友達もいたけど、引っ越して一か月も経たないうちに連絡をすることはなくなっていた。
新しい学校では転校生として最初にちょっとだけチヤホヤされた。僕の名前もちょっとだけ珍しいのもあったかもしれないが、友達として一緒に遊ぶことはなく、運の悪い事に下校を一緒にする友達もいなかった。あれほど楽しかった学校がつまらなく感じたのはこれが最初だった。
つまらない学校は授業もつまらなくし、誰とも話をしないで終わる日も有った。帰宅すればアニメや漫画で時間を潰し、携帯ゲームをして夜更かしをする事も増えた。
運動は元々得意ではなかったから、そこそこ出来ていた事が出来なくなった。飛べない跳び箱。泳げないプール。回れない鉄棒。走ると遅れるマラソン。
勉強の成績は酷く落ちた。流石に0点は取らなかったけど、やる気が全く起きない。やる気スイッチなどというTVCMを見るとどこに在るのか探したくなるくらいだ。
夏休み前、ついに成績について母親に怒られた。父親は仕事が忙しくてほとんど顔を合せなかったけど、僕の成績について心配しているようだった。
誰とも遊ぶ予定のない夏休みは凄くつまらなく、だれもやりたがらない動物係を押し付けられた所為で、ほぼ毎日学校に行くハメになっていた。何もない夏休みが終わろうとしている。ウサギ小屋の掃除も終わり、疲れた身体を校舎の裏の木陰で休めていると、一人の少女が現れた。
「こんなところでなにしてるの?」
それが初めて聞いた彼女の声だった。一言二言、話をすると、どうやら6年生らしい。
「私も5年生の時に引っ越してきたからあんまり友達もいない所為で、植物係っていう訳が分からないモノを押し付けられたわ。」
それは僕も聞いた事の無い係だ。6年生限定らしい。いつの間にか横に座っていた彼女は熱心に愚痴をこぼしている。
「・・・本当は男子と二人でやるはずだったんだけど、全然来ないから先生に言いつけてやったの。」
プールの方ではたくさんの生徒が楽しそうに騒いでいたが、いつの間にか聞こえなくなっていた。時計を見ると午後の3時だ。
「僕、そろそろ帰るね。」
「じゃあまた明日。」
「あした?」
「毎日ウサギ小屋に来てるんでしょ?」
「うん。」
「一人でやるとつまらないし、一緒にやったら少しは楽しいんじゃない?」
僕の発想には無かったから、少し嬉しくなって思わず頷いてしまった。
「私は山形ゆみ。私の方がおねーさんだから、ゆみさんって呼ぶのよ。」
「う、うん。」
なんか不思議な強引さが有ったけど、嫌な気分にはならなかった。そして、夏の終わりの僅かな期間だけ、二人で一緒に係の仕事をした。なにか久しぶりに楽しい気分になった。
紅葉が始まって、僕はいつも通りゆみさんと登下校している。クラスでは冷やかされる事も有って、小さないじめの原因になっていたけど、友達として遊んだ事もない奴に言われてもどうでもよかった。その時は、本当にどうでもよかった。
初めて会ったあの場所はいつの間にか待ち合わせの場所になっていて、一緒に係の仕事をしてから帰るのが当たり前のようになっていた。たまに勉強を教えてもらう事も有ったりして、僕の自宅にゆみさんを連れて行ったときは、母親が驚いていた。運動は相変わらずダメだったけど、成績は少し回復して、母親は喜んでいた。
「しっかりした子ね。ゆみちゃんとなら遊びに行ってもいいけど、あんまり遠くに行っちゃダメだからね。」
これは2人で遊びに出かけて、帰りのバスに乗り遅れ、携帯の充電も切れてしまったあの時の母親の言葉だ。バスに乗り遅れた原因は、遊びに行った動物園の施設内で休憩していた時、初めてのキスをして、そのあとに急に恥ずかしくなり、閉園時間までその場から動けなくなっていたからなのだが、当然言えるわけもなく、ゆみさんは僕が怒られたりしないように凄く謝ってくれた。
ゆみさんは更に帰宅が遅くなったけど、怒られたりはしないそうだ。母親曰く成績の差なんだって。ふーん。
冬休み。これもいつの間にか気が付いた事だったけど、僕の母親とゆみさんの母親がママ友になっていた。それを知ったのは4人で近くの喫茶店に行ったからで、ゆみさんにはお兄さんが二人いる事もその時に知った。
「やっぱり年上の兄弟がいると考え方も違うのかしらね。」
僕の母親はゆみさんをかなり気に入っているようで、「これからも仲良くしてやってね」と余計な事を言うから僕とゆみさんは顔が真っ赤になった。
冬休みも毎日一緒だった。僕がゆみさんの家に行くと面倒な事になるからという理由で、だいたいが僕の家にいた。もちろん泊まったりすることは無かったが、実はキスは何度もしていた。
「好きな人とは会ったらキスをするのよ。」
というのも、ゆみさんの一番上のおにーさんは何度か彼女を自宅に連れてきていて、何度もキスをするところを目撃していた事を教えてくれた。
「あんまりキスしてたら子供出来ない?」
ゆみさんは呆れた表情で溜息をついた。
6年生の3学期は5年生とは違い帰宅時間が少し遅い。僕は理由は知らないけど、一緒に帰ろうと待っていたら、日が暮れそうになった事も有ったからだ。冬だから夜になるのが早いにしても、そんなに遅くなるとは思わなかった。
それ以来、少し会う回数が減った。それと同時期に、僕へのいじめが増えた。なんで増えたのか理由は全く分からない。関わりも無いから虐められる理由なんてないはずなのに。僕の机には”へんたい””エッチ””すけべ”と、彫刻刀で刻まれていた。昨日の帰り道の途中の公園でキスをしていたところを見られていたらしい。
それはクラス中に広まって、午後にはゆみさんの耳にも届いていた。ゆみさんに噂を持ち込んだのは女子だったらしいが、又聞きの又聞きなので、誰と誰がというところは知らず、他で言いふらしている男子を軽蔑の目で見ている。
「エッチって想像する男子がエッチなのよ。」
同意する者も多かったが、それよりなにより、キスという行為に憧れや夢を持っている女子もいるので、どちらかというとそういう事が出来相手がいるのを羨ましがっていたらしい。その日の午後には先生たちの耳にも入っていて、僕の母親が学校に呼び出されていた。その所為で僕とゆみさんである事が殆どの人に知れ渡った。
職員室の隣にある来客用の部屋で、4人は1人を待ちつつ、「子供には早い」と、何度も言われた。僕は嫌がらせをされた事は黙っていて、先生にもゆみさんにも母親にも言わなかった。
母親は全く怒っておらず、むしろ呼び出された事に苦情を言っている。それは待っていた人が来た時に喧嘩をするような大きな声に変わった。モチロンその声の主は母親じゃない。
「キスをしたから注意しろだと?そんなくだらんことで呼び出すな!」
「ですから、子供なんですから。」
怒鳴っているのはゆみさんのお兄さんで、僕は初対面だった。家族が忙しくて母親の代理で来たのだが、部屋に入って来た時から怒っていたようだ。
「お前は俺が通ってた時からいたけど俺の時もそうだったよな。」
先生の方は思い出せないようで、それ以降はお兄さんの怒りが10分ほど続いて、先生はたじたじだったけど、内容についてはよく覚えていない。なんか難しい話が多くて僕の理解を超えた。結局、先生が怒られて終わったような気がする。
それから三日経ち、一週間が経過し、僕に対する嫌がらせがエスカレートしていく。殴られたりはしなかったけど、それを見た先生は知らんぷりしてどこかへ行ってしまった。ゆみさんには言いにくい事だったし、言いたくなかった。一緒に帰る回数は確かに減ってしまったけど、それでも休日は僕の家で遊んでいて、一緒に居ると学校の嫌な事を忘れてしまう。
楽しい時間はすぐに終わってしまうけど、嫌な時間はいつまでも続いている。そんな感覚。それは僕の態度にあからさまに出ているようで、母親が夕食の時に言った。
「たくさん食べる日と食べない日がはっきりしすぎてるのよね。」
たくさん食べる日。それはゆみさんと沢山お話しできた日。
食べない日。それはゆみさんと会えなかった日。
そして、食べない日の夜は、いつも寂しくて、それは夢にも現れた。何もない真っ白な世界。そこに1人の少女が立っている。近づこうとすると目が覚めてしまい、誰なのかは分からない。それが何日か続くのだけど、ゆみさんと会った日には現れない。
6年生を送る会。卒業式が終わって、春休みになったけど、僕は何も楽しい事は無かった。ゆみさんは中学生になり、僕は小学生のままだから、休日以外会えない日が続くことになるのが寂しかった。だけど、現実は僕の予想を超えた。
「引っ越すの?」
「私ね、大きくなったら先生になりたいの。だから元々みんなとは違う中学校に行くつもりだったんだけど、お父さんの仕事が忙しくなっちゃって家族で引っ越すんだって。」
ゆみさんのお父さんは単身赴任が多くて、僕も未だに会った事はない。ゆみさんのお母さんとはゆみさんと会わない日でも母親とママ友の関係で会う事はあった。実はその時にはすでに引っ越すことが決まっていたらしいのだけど、ゆみさんは自分で伝えるから黙っているように頼まれていた事を、後日僕の母親から聞いた。
「そんなに遠くじゃないけど、電車で30分くらいだし、会おうと思えば会えるけど・・・。多分もっと忙しくなるの。」
塾に行くようになるから、平日は絶対無理だし、休日も・・・。これからの事を想像すると、悲しくて涙が出た。絶対に会えない訳じゃないけど、ちょっと会えないだけでも寂しかったのに。
僕が泣いているとゆみさんも泣いた。
二人で泣いていた。
ずっと泣いていた。
引っ越しの日は、初めてゆみさんの家に行った。何も手伝えなかったけど、ゆみさんはすごく喜んでくれたし、二人のお兄さんにはからかわれた。最初は笑っていられたけど、午後になるとソワソワしだし、家財道具の一切が片付けられた部屋を見ると、実感がわいて悲しくなった。
別れるのがこんなに辛いとは知らなかった。知りたくもなかった。僕はゆみさんの事が大好きだと理解したのはこの時だったかもしれない。
僕は6年生になった。いじめは続いた。誰も助けてくれなかった。ゆみさんと会う前のような、つまらない日々が続いた。
そして毎日のように真っ白い夢を見た。手に届きそうで届かない、夢の中の少女。あと少しのところでいつも目が覚める。そして、辛い現実が待っている。
ゆみさんのいない学校に行っても楽しくない。常に一人でいるような生活は、自宅でも変化が出た。成績が落ちた。休日に外に出なくなった。喋らなくなった。食欲が減って、寝る時間が増えた。寝ると夢を見る。
学校での辛い事は日に日に増していった。給食の時間は僕だけおかずが減らされている。机が一人なのは以前からそうだったから気にはしなかったけど、意図的に給食を一口も食べなかったら、下校の時間になるまで僕の机にはずっと給食が置いてあった。
先生も意図的に僕を無視している。
ビリビリに破れた教科書。
泥に汚れた上履き。
傷だらけの机の上に置かれた、一輪挿しの花瓶。
夏休みになると、完全に孤立した。僕はゆみさんがやっていた植物係をやっている。一人でやっている。あの時を思い出すとウサギ小屋を見てしまうが、5年生の女子が二人で楽しそうにやっていた。ゆみさんはいない。
夢は長く見るようになった。雨が続いた日はずっと寝ている。寝ていると見る夢は、少しずつ鮮明になっていった。
真っ白い背景の真ん中に1人立つ少女。
近づくと、彼女の顔が少しだけ見える。
どこかで見た事が有るような・・・。
手を掴もうとしたとき、僕は目を覚ました。母親が目の前にいる。
「起こしてもなかなか起きないから心配してたのよ。」
頭がぼーっとする。まだ眠い感じがする。昼食を食べる時間だったようで、18時間ぐらい寝ていたようだった。ご飯を食べてもまだ眠い。風邪を引いたかもしれないと心配する母親がおでこに手を当てるが、熱が有るような気はしない。
ただ、凄く眠い。僕は夕食を食べる前にまた眠ってしまった。寝ていれば余計な事を考えなくて済むし、疲れないし、嫌な事もない。雨で学校に行かなくて済むから、夏休みの勉強を片付ければいいわけだけど、やはりというか、やる気は全くない。
気が付くと寝てしまう日が続いた。行かなければいけない学校にも行っていない。植物係の仕事は先生がやっているらしいが、学校に行く元気すらない。病気を心配する母親が、僕を病院に連れて行ったけど、異常は何もなかった。
その日から僕の身体はおかしくなった。起きている時間と寝ている時間が逆転した。一日のうち寝ている時間の方が長くなる。
どんどん長くなる。
「一人で何をしているの?」
少女は答えない。
「寂しくない?」
声が届いていないようだ。しかしこちらを見るように振り返った。周りが白すぎて顔が良く分からないけど、笑っているように感じる。口が動いた。
「なんて言ったの?聞こえないよ。」
そして僕に手を伸ばす。白い背景が真っ黒に変わった。
「大丈夫?」
心配する母親の声。僕はベッドで寝ていた。病院のベッドに。日付は9月2日と告げられて、学校を休んでいた。話を聞くと3日間ピクリとも動かずに寝ていたらしい。揺すっても叩いても起きず、病院に運ばれ、寝たまま精密検査を受けていた。
異常なし。
僕の身体に問題はなく、明日の朝退院予定だ。だが、この退院予定日はどんどん伸びていった。食事をほとんどしないので僕の身体は痩せ細り、点滴を受けるようになった。一度寝ると最低でも2日経過する。
寝るたびに僕は少女に同じ質問をした。そしてその声が聞こえるようになった。
「一人で何をしているの?」
少女は振り返ってこう言った。
「私はみゆ。私の方がおねーさんだから、みゆさんって呼ぶのよ。」
「う、うん。」
「じゃあ行きましょ。」
「何処に行くの?」
「あなたが作業するところよ。」
僕はみゆさんの後ろをついて歩くと、真っ白い世界に小さな小屋が見えた。小屋の中には見た事の無い動物がいる。その世話をするのが僕の仕事らしい。
みゆさんにやり方を教わりながら作業を進める。手順を覚えたので少し余裕が出来ると色々な話をした。テレビの話題から、漫画など、その中の一つで、僕は学校に行きたくない話をすると、頷いて同意してくれた。
「行きたくなければ行かなければ良いのよ。」
「いいの?」
「だって、行きたくないんでしょ?」
「うん。つまらないし、ひとりだし、楽しくないし。」
「ここに居たら?」
「ここ?」
「この小屋じゃないわ。私の部屋よ。」
「うん。」
「じゃあ、作業が終わったら行きましょ。」
黙々と仕事をこなす。
「終わったわね。」
「うん。」
謎の動物小屋を出ると、すぐ隣にドアだけがある。それを開いて中に入ると、ベッドと勉強机の有る、どこかで見た事のある部屋だ。ベッドにゴロンと横になると、真っ暗になった。真っ暗な病室の部屋で目を覚ます。少しだけ開けてある窓から弱い風が吹くと、シャンプーの香りがした。横を見ると椅子に座って机に顔を伏せて眠っている女性がいる。見た事の無い制服姿の女性に、思わず声をかけた。
「ゆみさん?」
反応はなかったが、それは間違いなくゆみさんだった。眠気が急にひいていく。半身を起こし、みゆさんが目を覚ますまで待った。ただ傍に居るだけなのに心臓が激しく動いた。暫くすると我慢できずに手を伸ばしたが、届きそうで届かない距離がもどかしい。身体を横にずらして、髪の毛に手が届く。
「さらさらする。」
揺すって起こそうかと考えたけど、それは出来なかった。何か申し訳ない気がする。たっぷりと一時間ほど待っていると、むくりと顔を起こし、こちらを見た。驚いた表情から声も出さずに僕の顔の目の前まで近づく。ゆみさんの表情は面白いぐらい変化した。
笑顔になった。何かを言おうとして止める。
泣き顔になった。僕の手を強く握る。
そして最後に恐い表情になった。
「私がいなくなったから寂しくなっちゃったんだと思ってたんだけど、それだけじゃなかったのね。いじめられている事も知っているから。私に心配させたくなくて、黙ってたのよね。」
色々ないじめにあった事による過度なストレスが僕の身体を精神的に弱らせているらしい。そして、それが寝るという行為で精神を安定させているらしい。
「私だって寂しかったから会いにきたら、入院してるって聞いてびっくりしたんだから。」
後から知った事だが、ゆみさんが会いに来たのはこれが3度目で、僕が寝ていて目を覚まさなかったから、手を握っただけで我慢していた事が有る。僕とゆみさんはお互いの目を見詰めると、唇を重ねる。ゆっくりと離れた後、もう一度見詰めると、同じ行為を繰り返す。何度繰り返したかは覚えていないけど、十分に満足すると、夜が明けるまで話をした。
配膳の朝食と一緒にやってきた母親が僕を見て嬉しそうだった。綺麗に食べきっているのを見てさらに喜んだ。味は薄いし量は少なかったけど、今の僕には丁度良いらしい。よくわかんないけど、ハンバーグが食べたくなった。
「退院したら私が作ってあげるね。」
それから一週間後に僕は退院した。一か月ほど入院していたらしいけど、そんなに経った気がしない。もう一日休んで翌日学校に行く。次の日曜日にゆみさんが僕の家に来てくれることになっていた。だけど、その日にゆみさんと会う事は無かった。
学校に行くと、僕の机の上には一輪挿しの花瓶が。その机には”ズル休み”と刻まれている。授業を聞いても何を言っているのか良く分からないし、いつも以上に皆に絡まれた。先生がそれを見て一言。
「先生がいないところで遊びなさい。」
午前中も、午後も、ずっとみんなに言われた。
「学校ズル休みして、なんで来てんの?」
いじめられている事を知った母親が、色々と苦情を言った事が余計に悪化させていた。もちろん、僕は母親が何を言ったのか知らない。悪化した理由も知らない。でも、ゆみさんに会いたかったから、日曜日になるまで頑張って学校へ行った。三日目の午後の休み時間に事件は起きた。僕は意地悪をされて教室から追い出され、たった一人で廊下に立っている。悔しくて泣いていたら先生が来たけど、何も言わずに教室へ入っていった。
泣いて、泣いて、泣き続けていたら、急に視界が歪んで、そのあとは覚えていない。覚えているのは真っ白い空間と、風がゆっくりと吹く場所に1人で佇んでいるみゆさんだった。
「おかえり。」
「ただい・・・ま?」
みゆさんは見た事の無い制服を着ている。いや、どこかで見た記憶は有るのだが思い出せない。
「みゆさんって中学生だったの?」
「そうよ。やっと学校が終わったから待っていたのよ。」
「僕を待ってたの?」
「うん。たなか君がなかなか来てくれないから寂しかったの。」
「あ、ご、ごめん。」
「謝らなくてもいいのに、でも来てくれて嬉しい。」
みゆさんは凄く積極的なのか、僕の身体を抱きしめた。温かくて気持ちのよい弾力と何処からか香るシャンプーの匂い。
「気持ちいい・・・。」
「たなか君が満足するまでしてあげるね。」
「うん。」
僕はそのまま半年間目を覚まさなかった。
朝のニュースでは、いじめ問題が大きくマスコミに取り上げられていて、制服姿の少女がパンを食べている手を止めて見ている。知っていたけど何も出来なかった。病院に行って聞いた言葉は衝撃的だった。
―――レム型睡眠症候群―――
それは一度寝ると目をなかなか覚まさない病気で、世界でも例が殆ど無い奇病だった。異常行動は殆ど無く、動いたり暴れたりすることがない代わりに、レム睡眠からノンレム睡眠に移行すると、わずか数分でレム睡眠に戻る。眠りが浅いのなら目を覚ましそうなものだが、夢を見ていてなかなか覚めず、ずっと目を覚ますことを拒んでいるような、異常な状態らしい。
「もう目を覚まさないんですか?」
「調べたところによるんですが、なんとも言えません。そのまま目を覚まさずに死亡した例が約半数あります。数ヶ月に一度目を覚ます例もありますが、資料が少なくて完治したという報告は僅かしか有りません。現在も治療中の人もいるのですが、そのほとんどが15歳以下の子供です。」
「確実な治療法は・・・うちの子は・・・。」
「とにかく問題は肉体的な事ではないという事です。精神的な問題を多く抱えていても、誰にも言えないような、内気な子供ばかりです。社会的なストレスをため込み過ぎると大人でも精神に異常をきたすのですから、子供の身体で現実の世界で耐えられないのなら夢の世界に、いわゆる現実逃避しているわけです。そしてもっと珍しいのが、女の子でも男の子でも、恋人がいる。」
私は目を大きく開いた。
「心配させたくない、悲しませたくない、と強く思う恋人がいるという事です。女の子の場合は9割が妊娠しているそうです。妊娠している女の子の場合は母体が耐えられないのでほぼ死亡しますが、男の子の場合だと、6割くらいが何とか生きているといった状態ですね。もう少し調べて症例を見ないと・・・治療法は申し訳ないのですが確約できません。食事が出来ないのでこのまま目を覚まさないと・・・。」
私はそこから先の事を覚えていない。自分を心配させたくないから黙っていた。一年ちかくもいじめられていた事と、最初に気付けなかった自分が悔しい。私と話をするときはいつも楽しそうで、いじめられているような気はしなかった。6年生も終わりごろには会う回数も減って、今が楽しい事の方が重要だと思っていた。
初めて会ったあの日。実はあの日の前から知っていた。一人で黙々とウサギ小屋で作業する姿を何度も見ていた。最初は可哀想だと思っただけだったのに、話をしているうちに好きになっていく自分の心に気が付いた。年下だったけど、素直で真っ直ぐで、私と話をするのを楽しそうにしていて・・・。
私は一部のマスコミにインタビューされそうになったが、いつもは忙しい父親が全力で私を守った。母親同士で話をしていて私にも医者の聞いてほしいと言われた時、確認されたのがそれだった。
「本当に?」
「はい。」
呼吸を整えてもう一度言った。
「まだまだ子供だと思うかもしれませんが、ただの好きじゃないんです。本当に愛しています。」
泣いたまま私は強く抱きしめられ、弱々しい声で「ありがとう。」と呟いた。私が愛した人の母親は本当に心の強い人だと思った。最初に私達の事を認めてくれた人。私の事を信じてくれた人。そしてこれからも・・・。
小学校はいじめは無かったと発表し、問題はさらに悪化している。
次の発表では、確認できなかったと言い、校長と教師が他校へ移動した。
問題は解決する事がないまま、マスコミの注目度も薄れ、いつしか誰も言わなくなった。学校は何事もなかったかのような平常に戻っている。私は先生になる道を諦めて医者になろうと思った。思った事を母親に告げると強く反対された。
「恋人が自分の所為で進路を変えたと知ったら困るでしょう?」
全くその通りだった。心の病気なのだから、普段通りの姿であるべきだ。だから私は月2回の訪問日以外は勉強に明け暮れた。中学一年生の時に学年で30番ぐらいだった順位は、二年生で1番になり、その後は不動だった。クラスの委員長は全力で辞退し、生徒会にも参加しなかった。学校の行事は全て裏方に回り、友達付き合いも殆ど無く、予定通りの有名進学校へ進んだ。高校一年生になった私は、今でもあの人のいるところへ行っている。
毎日?毎週?毎月?
ここに来てどのくらいが過ぎ去ったのか分からないけど、僕はみゆさんといると楽しい。いつも同じ服装で僕を出迎えてくれる。いつも同じ話をして笑っている。いつも同じ作業を黙々とこなしている。いつも僕の為にハンバーグを用意して待っている。
何処を見ても真っ白くて、いつも傍に居てくれるみゆさん。
そんなみゆさんが不思議な事を言った。
「たなかくん、誕生日だね。」
「ぇっ、僕の?」
「そうよ。だから今日はケーキなの。」
「これ、僕が大好きなケーキだよね。なんで知ってるの?」
「だってたなか君が食べたいって言ってたから。」
「なんか良く分からないけどありがとう。僕凄く嬉しい。」
みゆさんは笑顔になった。でも少しだけ残念そうな表情をする。
「たなか君も私と同じ年齢になっちゃったね。もうお姉さんじゃないのかぁ。」
「みゆさんはみゆさんだよ。」
「そうなの?」
「うん。」
「これからも変わらずにそう呼んでくれる?」
「うん!」
みゆさんは凄く嬉しそうだった。部屋に戻ってケーキを食べようと思ったけど、その前に誰かに呼ばれた気がした。随分前にも呼んでくれた懐かしい声がする。
「ちょっと行ってくるね。」
「いってらっしゃい。」
戻ってきたゆみさんが凄く嬉しそうに僕を見ている。用意していたケーキがテーブルに置いてあった。目を覚ますかどうかわからなかったけど、平日なのにギリギリまで待つつもりで用意していたらしい。他にも4人の姿が有ったけど、僕は何も気が付かずに口を開けた。
スプーンにケーキが乗せられて、僕の口に運ばれた。甘くておいしい。全部食べ切れずに残してしまったけど、みゆさんは怒らなかった。
「美味しかった?」
「うん。」
ゆみさんは泣いていた。僕の口からこぼれたケーキを丁寧にふき取って、そこから動けなくなってしまった。
みゆさんは残ったケーキを片付けると僕に言った。
「じゃあまた行きましょう。」
僕はみゆさんと二人で動物小屋で作業した。
ずっと。
いつまでも、こんな時間が続くと思っていた。
僕の大好きなハンバーグがいつも用意されている。
いつでも楽しい話をしてくれるみゆさんがいる。
学校に行かなくて良いって思うだけで心が軽くなる。
そして何日も続いたと思った時、再びケーキが有った。
「お兄ちゃんになっちゃったね。」
「どういうこと?」
不思議に思った事をそのまま口にする。
「今日はたなか君の14歳の誕生日だよ。」
「僕?」
「うん。」
「僕たなかって名前だっけ?」
「こっちではそうね。」
「こっち?」
「うん。」
「みゆさんはたまに不思議な事を言うね。」
「だってそれは、たなか君だからよ。」
「よくわかんないけど、このケーキ食べて良いんだよね?」
「いいよ。」
「いただきまーす。」
「美味しい?」
「甘くて美味しいんだけど、ちょっと味が薄い気がする。」
「喜んでくれないの?」
「そんな事ないよ、凄く嬉しい。」
「本当に?」
「うん。」
「私の事はまだみゆさん?」
「うん。」
「じゃあそれを食べたらまた作業しに行きましょう。」
「うん。」
作業小屋で作業していると、凄い雨が降ってきた。小屋なのに屋根を突き抜けて降ってくる。僕は顔だけがびちゃびちゃになった。
「凄い雨だね。」
「うん、止まらないの。」
みゆさんの顔を見ると凄い涙を流していた。
「どうしたの?」
「私泣いているよね。」
「うん。」
「止まらないの。」
「どうして?」
僕も同じように涙が止まらなくなった。なぜかいつもの作業がうまく進まない。みゆさんも同じような感じだった。
「作業止めよっか。」
「うん。」
白い空間を抜けて部屋に戻ると、部屋の中は真っ暗で、ベッドもテーブルも勉強机も何もない部屋だった。
「引っ越すの?」
「もういいかなって。」
「僕も一緒に行っていい?」
「一緒には行けないけど、いつでも会えるよ。」
「いつでも会えるの?」
「うん。」
「じゃあ遊びに行ってもいい?」
「いいよ。」
「涙止まらないね。」
「うん。」
「じゃあ、またね。」
「うん。」
僕はゆみさんに抱き付かれていた。あの日に見た泣き顔と同じ、顔と顔がくっついていて、ゆみさんの涙が全部僕の頬に流れてくる。
「大丈夫?」
と、言いたかったが声が出なかったので、頑張って腕を伸ばして、どうにか届いた背中を撫でた。目を開いている僕を見たみゆさんが声を出して泣いた。そして僕の名前を連呼する。
「かなた君!」「かなた君!」「かなた君!」「かなた君!」「かなた君!」「かなた君!」「かなた君!」「かなた君!」「かなた君!」「かなた君!」
病室中に響き渡った声に気が付いて二人が近づいてきた。僕の母親としらない医者がいる。僕は危なかったらしい。生命維持装置が付けられた僕の身体は、いろんなパイプが有って喋れなかった理由もそこにある。
喋れないから僕は何度もみゆさんの背中を撫でた。
僕は中学3年生になっていた。
一度も行った事の無い中学校に行くことは無かった。勉強について行けるはずもなく、僕の学力は6年生で止まっているからだ。高校に入学する学力も無い以前に、僕の身体は立つことも出来ないくらい弱っていた。
ゆみさんは毎週土曜日に必ず来てくれる。リハビリの為に歩行訓練している僕に会うたびにキスをして、少し困っている僕を見て笑顔になる。
「次にいつキスできるか分からないからね。」
「そうなんだけど、なんか最近あんまり眠くないんだ。夜更かししたいわけじゃないんだけどね。」
「まあ、いいんじゃないかな。」
「それに、あんまりキスしてたら子供出来ない?」
ゆみさんが眩しいくらいの笑顔で答える。
「出来てもいいよ。」
少し離れたところで声がする。
「それはダメ。」
僕の母親ではなくゆみさんの母親だ。ゆみさんは学校での成績がトップで、本当はもっといい高校に行く予定だったのを、別の進学校に変えたらしい。それでも全国トップレベルに近い高校だ。そのおかげなのか分からないけど、毎週僕の為に病院に来てくれる。しかし、ゆみさんは凄く変わった気がした。身長は僕よりも少し大きい。むしろ僕が小さいのだが。
「みゆさん凄く綺麗になったね。」
「な、なに。急に恥ずかしい事を言わないでよ。」
「キスの方が恥ずかしくない?いっつもみんなに見られてるのに。」
「それはそれ、これはこれなのよ。」
「良く分かんない。」
「かなた君がわからない事は全部教えてあげるから。」
勉強の事だった。中学校には一度も行くことなく、通う予定だった中学校から卒業証書だけを受け取り、何の思い出もない中学時代を終えた。ほぼ3年ぐらいを寝ていた僕には3年間という期間がどれだけ大変なのかを知らない。良い事も悪い事もすべて夢の中に置いてきた。引っ越したあの人のところへは行く必要もないだろう。
僅かに記憶している白い夢の事をゆみさんに話した。
「ずっと同じことをしていたの?」
「うん。」
「引っ越していなくなったって言うけど、あの時の私みたいな?」
「うん。多分そうなんだけど、なんか記憶が凄いおぼろげになっていくんだよなあ。」
「それは忘れても良い事だからよ。」
「忘れても良いような悪いような、なんか変な感じなんだよね。」
「夢の中だから浮気しても良いけど、現実だったら許さないから。」
「でも、ゆみさんそっくりだったんだよね。」
「そうなの?」
「うん。」
「じゃあ許してあげる。」
僕は何を許されたんだろう?
学力が超低空飛行していて、地面スレスレだった僕は高校の受験に失敗した。というよりも、行くことを諦めた。同じ高校生になるのは無理でも、同じ大学生になら・・・と、思ったけど、僕の夢って何だろう。勉強は塾だけでなくゆみさんも色々教えてくれる。
高等学校卒業程度認定試験というのを受けて、ゆみさんが大学2年生になるまでに合格する事が当面の目標だ。
僕は白い夢の事をどんどん忘れていった。奇病ともいえる特殊な病気を完治した人として、何度か医療関係者の質問を受けた事が有る。健康診断も毎年受けた。母親だけでなくゆみさんにも強く勧められたからだ。今では太鼓判付き健康優良児だ。
試験を受ける前日、最終的なチェックをゆみさんとしている時に、ふと思った事を口にした。
「僕はゆみさんが素敵な人だと思ったし好きだって言えるけど、ゆみさんは何で?」
「急に何よ。」
「ちょっと、ちょっとね。気になったから。」
「実はね、あなたの事は夏休みに入ってすぐのころから知っていたのよ。正直に言うとあなたみたいな弟が欲しかったの。でもねー、なんかねー、はなしてたらさー。」
「急にどうしたの。」
「最初はちょっといいかなーくらいだったんだけどね、ほら、初めてキスした時覚えてる?」
「うん。」
「あの日はさー・・・・・・
結局、顔を真っ赤にして笑っているゆみさんは、教えてくれなかった。
途中で現実と夢とがごっちゃになっている部分が有ります。
意図的に行っている表現なので、誤表記ではないと思います・・・たぶん。
ちょっとでもウルっとしてくれたら嬉しいです\(^o^)/