いちごいちえー洋菓子店の話ー
大学に入学してすぐに始めた塾講師のアルバイト。
始めた理由は忘れたが、それなりに勉強ができて、人と喋るのも苦痛じゃない。
そんな僕にとって、人に教えるという仕事は割と性分にあっていた。
それでも、1つや2つしか歳の変わらない高校生から「先生」と呼ばれるのはなかなか気恥ずかしい。
大学に入って2回目の春。一年経ってようやく生徒から「先生」と呼ばれることにようやく慣れた頃。
新年度から新しく受け持つことになった生徒は、授業が終わってから雑談をしにくることが定番になっていた。
長さは日によってさまざま。授業部屋の片付けをしている短時間で終わることもあれば、授業の後、受付で塾が閉まるギリギリまで喋ることもあった。
先生という立場上、勉強させなければいけなかったのだろう。
だが、家に帰っても話す人がいない僕にとって、彼女との雑談は数少ない他人との交流だった。
「ねえ、先生」
彼女は授業が終わると大体こうやって話を始める。
「今日はどしたの」
「先生って誕生日いつ?」
「もうすぐかな」
「ふうん」
その日はそれで終わった。
「ねえねえ、お祝いしないの」
次の授業で、彼女は唐突に前回の続きを始めた。
「ちょっと、まだ授業中でしょ。これ解いて」
「はあい」
授業が終わると、待ちきれないというように、勉強道具の片付けもせずに話しかけてきた。
「ねえ、先生、お祝いしないの」
「しないよ」
「しようよ」
「もう終わったもん」
「え、うそ!」
「そんなことで嘘ついてどうするの」
「たしかに」
そう言って彼女は笑った。
「ほら、ここ出なきゃいけないから早く片付けて」
片付けようとしない彼女を急かして教室から出て行かせる。
受付に帰る途中で次の授業をする先生とすれ違った。
僕が受付に戻ると、彼女は僕を待ち構えていて、さっきの話の続きを始めた。
「でもさ、終わってからしたって遅くないよ。私のオススメのお店教えてあげる」
そう言って彼女はあるケーキ屋さんについて教えてくれた。
お店のオススメはロールケーキで、彼女もそれが一番好きだとか、彼女の家からは結構近くてときどきお母さんが買ってきてくれるとか、通っていた中学校からはもっと近いけど、お小遣いが厳しいから学校帰りには行けなくて、高校生になるとお小遣いが増えた代わりに距離が遠くなったから、学校帰りには相変わらず行けないままだとか。
目をキラキラさせて楽しそうに話す彼女からはその洋菓子店が実に美味しくて、彼女がその店をとても好きなことが伝わってきたけど、僕は相変わらず行く気にならなかった。
「ね、美味しそうでしょ?」
「うん、美味しそうだね」
「お祝いしよう?」
「しないよ」
「なんで?」
「ケーキ好きじゃないもん」
「え、うそ!でもそこのは本当に美味しいの!絶対食べないと後悔する」
僕もなかなか強情だったけど、彼女もそれに負けず劣らず強情だった。
「買いに行こうよ」
「行かないよ」
誕生日を祝うか祝わないかの問答は、いつの間にか、そのケーキ屋に行くか行かないかという問答になっていた。
「そろそろ塾を閉めますよ」
だが、その押し問答も塾長の一声で終わりになった。
「はあい。先生、さようなら」
「「さようなら」」
僕と塾長に並んで見送られながら彼女は帰っていった。
「ねえ、先生、ケーキ買いに行った?」
毎回聞けばそのうち僕が根負けすると思ったのか、授業の前に彼女はかならず聞いてきた。
「行ってないよ」
「美味しいのに、もったいない」
だが、先に諦めたのは彼女の方だった。
1ヶ月もすると、この話は初めからなかったかのように、露ほども話題に上らなくなった。
それからしばらくが経った。季節は春から夏へと移ろい、そろそろ夏休みが始まる時期だ。
そして、多くの高校が夏休みに入ると同時に、僕のバイトしている塾も夏休みとなる。
高校生には思い出を作る時間も必要だ、という塾長の粋な考えで、この塾の夏期講習は夏休みの後半だけだった。
「ねえ、先生」
塾が夏休みに入る前の最後の授業の日、彼女はいつも通り僕のところにおしゃべりをしにやってきた。
「今日はどしたの」
「私の誕生日、いつだと思う?」
突然の彼女の問いに僕は戸惑ったが、少し考えてから答えた。
「もうすぐ?」
「あたり、よくわかったね」
彼女は嬉しそうに笑った。
「唐突に話題にしてきて、冬とかはあり得ないかなって」
「日常会話ってそんな問題を解くようなものじゃないよ。」
急に真顔に戻った彼女は、夏休みだからしばらく会わないね、そう言って帰っていった。
休み前の雑談はなんて事のない短い会話で終わった。
ところで人間とは不思議なもので、ある日突然、何かに取り憑かれたかのように一つのことが気になることがある。
僕の場合はそれが例のケーキ屋だった。多分、この前の雑談で思い出してしまったのだと思う。
何もすることがなく、ただただベッドに寝転んでいた僕はスマートフォンに手を伸ばすと、ブラウザを立ち上げた。検索欄に教えてもらったケーキ屋の名前を打ち込むと、エンターキーを叩く。
検索結果の一番初めに公式サイトが出てきていたので、それをタップする。
一瞬白くなった画面が、次に表示したのはケーキ屋にぴったりなおしゃれな店の外観と、カラフルで美味しそうなケーキ、そして控えめな大きさで書かれた店の名前だった。
ホームページをいろいろ見ているうちに、オーナーシェフの紹介がされているページを見つけた。それによると、オーナーシェフは僕と同郷で、地元にある店で修行したのち、海外で修行をするなど様々な経緯を経て、この地で店を開くこととなったらしい。
修行していたという地元の店は、焼き菓子が美味しいことで有名で、甘いものが苦手な僕でもそこのマドレーヌは食べられた。一人暮らしを続けるうちに少し気が滅入ってきた僕にとって、馴染みのある味が食べられるかもしれないというのは非常に魅力的だった。
とある平日の昼下がり、私はあれほど行かないと言っていたはずの洋菓子店へと向かっていた。
家の近くを走る電車に乗って数駅先まで、そこから徒歩10分で合わせて片道30分。
あまりにも近すぎたため、幸か不幸か、気が変わる前に店に着いた。
店の外観は一階の道路に面した壁がガラス張りで、二階や一階の道路に面していない部分には煉瓦が貼られていた。
ホームページで見た通りのとてもお洒落な外観をしていた。
店に入ってまず目につくのは道路から正反対の壁にある大きなガラス窓だった。
外の景色を見るための窓というわけではない。
窓越しには何人ものパティシエが作業をしている様子が見え、店で売られているお菓子をそこで作っているのがわかる。
店内は白を基調としており、清潔感と明るさが感じられる。
壁側にはプレゼント用のマドレーヌやゼリーの詰め合わせの見本が置いてあり、ケーキや焼き菓子を陳列している棚はL字になっていた。
店の奥にあるイートインスペースは、平日の昼過ぎということもあって主婦で賑わっていた。
僕はマドレーヌやフィナンシェといった保存の効く焼き菓子をいくつか選ぶと、ケーキが陳列されている棚の前に並んだ。
この列はレジへと繋がっており、前のお客さんが注文・会計をしている間に自分の注文を決めるらしい。
ケーキを買わない予定だった僕にとって、このシステムは正直ありがたくない。
店員さんの「ご注文は何にしますか」という問いに少し迷った結果、生徒のオススメであり、ついでにお店の一押しであるロールケーキを一つ買うことにした。
焼き菓子を包装してもらう必要があったため、会計が済んでからケーキを受け取るまでに少し時間があった。
他の人が会計している横で立っているのも所在ないので、僕はレジから離れて窓際にあるベンチに座った。
コンコン。
背を向けていたガラス戸からなにやら音がした。
明らかに音は僕の真後ろからしており、周りにいる大人は僕の後ろを見て、くすくす笑っている。
僕も後ろを振り返って、目を見張った。
窓の向こうに居たのは今一番会いたくない人と言っても過言ではない。
音をさせた主は僕の顔を見ると、店に入ってきて僕の隣に座った。
「先生、ひさしぶり」
「ひさしぶり」
僕の返事は自然とぶっきらぼうになっていた。
「あれだけ来ないって言ってたのにね」
彼女はそんな僕のことなんかお見通しだと言わんばかりに、いたずらっぽく笑っていた。
「マドレーヌが食べたくなって」
「ケーキは?買わなかったの」
「買った」
「なに?」
「ロールケーキ」
「なんだやっぱり好きなんじゃん」
「そういうことにしく」
タイミングよく包装が終わり、僕の名前が呼ばれたので、僕はベンチから立ちあがって品物を受け取る。
「先生、家で食べるの?」
帰ろうとした僕に彼女はまた話しかけて来た。
「うん」
「じゃあここで食べて帰らない?」
「は?」
「いいじゃん別に。夏休み暇だったんだよねー。先生が付き合ってくれるなら暇つぶしにもなるな」
店で言い合う気にはなれず、僕は素直に彼女に従うことにした。側からみたら完全に年下の女の尻に敷かれた男だ。さぞかしカッコ悪い姿に見えるだろう。
「なんで来ようと思ったの?」
席について注文をすると、彼女は開口一番にそれを聞いて来た。
「ここのパティシエ、僕と出身地一緒なんだ」
「ほんとに!?すごい偶然だね」
彼女の驚いた表情は新鮮で、それだけで僕はちょっと得した気分になった。
「で、修行した店は、マドレーヌが美味しいことで有名なの」
「なるほど。それで大量の焼き菓子を買ってたのか」
「そゆこと」
「今度買ってみようかな?」
「ケーキしか買わないの?」
「普段はね。ケーキ屋さんだし。」
「それはもったいない」
「私と同じこと言ってる。まあ私は先生と違って素直だから、買って帰るけど」
彼女の一言で、行かないと言い張っていたことを思い出し、僕は渋い顔になった。
「お先にセットの紅茶でございます。」
保温用の可愛いミトンが被せられたティーポットと白地に青色で花の模様があしらわれたティーカップが乗った木製トレイがテーブルに置かれる。
「ありがとう」
持ってきてくれた店員にお礼をいうと彼女は目を丸くしていた。店員が会釈をして僕たちのテーブルから離れると僕は彼女に尋ねた。
「どしたの」
「いや、そういうこと言う人初めて見た」
「言った方が店員さんも気持ちいいでしょ」
「なるほど、確かに」
そう答えた彼女は神妙な面持ちで黙った。
つられて僕も黙る。
すこしして、ケーキを持ったウエイトレスが沈黙を破った。
「ロールケーキのお客様」
「そっちです」
お店の人に聞かれても答えない彼女に変わって僕が言う。
目の前のトレイにケーキが置かれた彼女は、意を決したように口を開く。
「あ、ありがとう」
慣れないことで緊張したのか、どもったのに思わず苦笑が漏れる。
「チョコレートケーキのお客様」
「はい」
目の前のトレイの空いたスペースに、うまいことチョコレートケーキが収まった。
「ありがとう」
ご注文は全てお揃いでしょうかという、よくあるやりとりを行なってから、ウエイトレスは「ごゆっくりお楽しみください」と会釈をして去っていった。
「どもってるじゃん」
「初めてだから緊張したの!」
恥ずかしさから噛み付くように返事する彼女。
「ま、そのうち慣れるよ」
「先生の周りはそういうこと言う人多かったの?」
「母親がよく言ってる。」
そこからは僕のふるさとの話に花が咲いた。
昔通っていた学校、よく行っていた公園やお店、帰った時に必ず会う友人の話など、話題は尽きなかった。
彼女は、
「先生、すごく喋るね。関西弁だし。」
と普段とは違う僕に少し驚いていた。
楽しい時間はあっという間、ケーキも食べてお茶を飲むと会計をして店の外へ出る。
「ごちそうさまでした。」
高校生とでかけると、バイトとはいえ働いている人が奢ることになるわけで。
少し嬉しそうな彼女をみると、奢ったこちらも嬉しくなる。
「あ、マドレーヌ買うの忘れた。」
少し歩いてから彼女は言った。
「近いんだしまた今度でいいんじゃない?」
「まあそっか、じゃあ来週、同じ時間ね」
「え?」
「先生もどうせ暇でしょ?ま、来なくてもいいけど。」
夏休みのお茶会はまだしばらく続きそうだった。